宇都宮歳旦帖(うつのみやさいたんちょう)
http://yahantei.g2.xrea.com/public_html/yhntwd_004.htm 【宇都宮歳旦帖(うつのみやさいたんちょう)】 より
平成十三年二月六日(火)~三月十八日(日)まで、東京の両国の江戸東京博物館で、「蕪村…その二つの旅」という近来にない充実した内容の蕪村展覧会があった。その「書簡・版本」の陳列の中に、「寛保四甲子歳旦帖(かんぽうよんこうしさいたんちょう)」も展示されていた。その解説は次のとおりである。
半紙本一冊 寛保四年(一七四四)刊 個人蔵寛保三年の暮れから翌初春にかけて、宇都宮の俳人佐藤露鳩らの求めに応じて蕪村が編集した歳旦帖で、「宇都宮歳旦帖」ともいわれる。版下は、蕪村自筆による。号 「蕪村」の初出の書として、また、蕪村の編集した初の歳旦帖として、蕪村の俳書中最も知られているもののひとつとなっている。(後半省略)
実に、縦ニ十センチ余り、横十三センチほどの、わずかに十葉の簡素な仮綴じ(袋綴じ)の小冊子で、全部で八十五句が収録されている。そして、その展示されていた頁は、表紙と号「蕪村」が初出の軸句の「古庭に鴬なく啼きぬ日もすがら」の句が掲載されている頁であった。軸句というのは、俳諧・川柳の点者(宗匠)の句のことをいい、巻(まき)の末尾の記すことから単に「軸」ともいう。
即ち、掲出の軸句は、この「宇都宮歳旦帖」を編纂した、当時、若干二十九歳の蕪村が俳諧宗匠として独り立ちした証しとでもいうべき、まさに、終生「蕪村」という号を名乗る、その最初の、そして、俳諧宗匠「蕪村」の誕生を意味するものであった。この記念すべき掲出句の鑑賞から始めていきたい。
なお、整理番号は、蕪村研究会での便宜上付したもので、全て、同研究会での 「蕪村の『宇都宮歳旦帖』を読む…『寛保四年宇都宮歳旦帖』輪読…」(「下野新聞社」刊)を基本文献としている。
七十五 古庭に鶯啼きぬ日もすがら
(Furuniwani uguisu nakinu/ himosugara)
季語は「鴬」(春)。「日もすがら」は一日中で、「ひねもす」に同じ。前書きの「軸」は、俳句や川柳の点者(選者)の句のこと。この句は、芭蕉の古池吟 (「古池や蛙とび込む水の音」)を念頭にあての句。「花になく鴬、水に住む蛙……」(「古今集(序)」)を背景に、芭蕉の「蛙」に対して「鴬」、「古池」に「古庭」、そして、「一瞬の水音」に対して「終日の囀り」を対置して、蕪村の新境地を示そうと句ということになろう(蕪村研究会・前掲書)。
この句について、蕪村の開眼の一句、「柳散清水涸石処々」(「やなぎちり・しみずかれ・いし・ところどこ」、この下五は「ところどころ」との字余りの詠みもある)に比して、蕪村の軸句としてはユニークさが足りないとの指摘がある(前掲書の中田見解)。
この指摘に接しながら、この同じ頃作られた二句を並列してみて、妙に二つのことが気にかかるのである
● 古庭に鶯啼きぬ日もすがら
● 柳散清水涸石処々
その一つは、この前句の中七の「鴬啼きぬ」の「ぬ」の切字(きれじ)は、「や」・「かな」・「けり」という代表的な切字に比して、どうにも、切字らしい「切れ」がなく、そして、 そのことが、上五の 「古庭に」の「ni―」、中七の「鴬啼きぬ」の「nu―」、そして、下五の「日もすがら」の「ra―」と、その詠みが和歌的な感じで、芭蕉の古池吟の「古池や」の「や」の切字と下五の「水の音」の体言止めのスタイルを敢えて拒絶しているような雰囲気なのである。
そして、この句の一年前に、下野(栃木県)芦尾の歌枕の「遊行柳」で詠んだとされる後句の全文漢字の蕪村開眼の一句も、いわゆる、切字らしい切字が見当たらないということなのである。そして、これらのことは、後年(安永六年)に、蕪村は、上田秋成の「也哉抄」(やかなしょう)の「序」で、「断字論」というのを展開するのであるが、その「我が門には切字とはいはず、しばらく是を断字といふ」との布石ともいえるような二句のように思えるのである。
そして、そういう試みを、蕪村は、俳諧師のスタートとの時点であれかこれかしていたという事実が、妙に気にかかるのである。
もう一つは、この平成十三年二月に開催された展覧会の「蕪村…二つの旅」の、「和画様式」(柔らかに筆を運ぶ和画の作風)と「漢画様式」(中国画の持つ構築性を写実味と異国趣味で消化しようとする作風)との、全然異質の世界での模索を、蕪村は、絶えず意識化して、さまざまな試みをしているという事実なのである。
これらのことに関し、蕪村の絵画について(この二様の点について)、佐々木丞平・佐々木正子両氏が、その展覧会の解説書(「朝日新聞」刊)で詳細に論じられているし、また、蕪村の俳句と漢詩との関係についても、
成島行雄著「蕪村と漢詩」(「花神社」刊)で、実に的確に論じられており、今後、この二様の面での蕪村論の展開は盛んになってくるような感慨とそうなることの期待を強く抱いているのである。
と同時に、蕪村の俳句(俳句)についても、蕪村の「断字論」との関連での再吟味が必要なのではないかという思いを、この掲出句と蕪村開眼の一句とに接しながら、「和」と「漢」との二様の面以上に、蕪村俳諧を知る上で必須なのではないのかと、そんな思いを強く抱いているのである。