8月9日礼拝
伊藤大輔牧師
マルコによる福音書9章2−8節
揺るぎない言葉。
大きな言葉。
実証もされていて、数字の裏付けもある言葉。
私たちはそういう言葉に心惹かれていく。
揺るぎない言葉。 動かない、止まった言葉。
今日の聖書の箇所に登場した三人。
主イエス、エリヤ、モーセ。
歴史上は一緒になることのない三人。
異なる歴史を生きてきたものだが、この三人には共通点がある。
主イエスキリストの最後。
弟子たちの見ている前で天にあげられていった。
エリヤ。
エリシャの見ている前で嵐と共に天へと登って行った。
モーセ。
申命記の終わりに、その死の様子は記されている。
そしてこうも記している。
「どこに葬られたのか、誰も知らない」と。
この三人には墓がない。
モーセは約束の地を目前にして、そこにたどり着くことができず生涯を閉じる。
残念な人生と読むこともできよう。
ただ、こうも読める。
モーセは終わりを知らない。
主イエス、エリヤ、モーセ、 彼らは墓を持っていない、
それは終わりを持っていないことでもある。
ここが終点。ここから動かない。
終わりに支配されていない。
彼らを包んだ雲の中から声がする。
神の声。
「これは私の愛する子。これに聞け」
私たちが心惹かれる言葉は動かない言葉。
動かない言葉を個人が、社会が、国が持った時、どうなるのか。
「私は正しい」
「彼らは間違っている」
「私たちが間違いを正す責任がある」
動かない言葉に心惹かれ、戦争を起こす。
今日、8月9日 長崎に原爆が投下された日。
5000万人から8000万人が犠牲になったと言われる第二次世界大戦。
その後も世界では戦争が続いている。
動かない言葉を携えて世界は戦争を仕掛けていく。
墓を持たない、終わりを知らない三人の言葉。
人から忌み嫌われていた。
拒絶をされていた。
語る当人たちも「もう語りたくない」と何度も神に訴えた。
世界と合わない言葉。
約束の地に帰る荒野の40年
イスラエルは毎日、マナをいただいて生きてきた。
マナは保存ができない。
蓄えて、そこから取り出すことができない。
集めておくこと、止めること、固定しておくことができない。
毎日、新しい。
新しいもの。
耳馴染みはない。
親しみはない。
生まれてきたもの。
異質なもの。
生きているもの。
動かなくなった止まった言葉にすがり、争いを引き起こすのか。
新しく生まれ、生きている言葉によって、平和に近づくのか。
「これは私の愛する子、これに聞け」
私たちは聞くことができるのか。