ハスのコスモロジー(上・その2)
https://www.circam.jp/essay/detail/id=1966 【ハスのコスモロジー(上・その2)】
ハスのコスモロジー(上・その2)
〈蓮華=ハス+スイレン〉
あらためて、ハスに託されたコスモロジー上の意味を考えてみましょう。前回の冒頭に紹介したヴィシュヌの世界創成神話において、世界を生み出す力は水上にまどろむヴィシュヌの臍(へそ)から生え出たハスとして出現するのでした。豊穣多産に水は不可欠であり、常に水とつながっているハスは、世界を生みだすみなもととみなされるのです。
そしてまた、ハスの花の上に結跏趺坐(けっかふざ)して瞑想にふけるブラフマーは、自らの内に、水上に横たわってまどろむヴィシュヌの姿、つまりこの世界を見いだすのでした。
ハスの花は、花托(かたく)と呼ばれる中央部を何枚もの花弁が重なり合って包むつくりになっています。ハスの花の上に坐すとは、花托に坐すことを意味します。
自分のなかに世界を見いだしたブラフマーはハスの花弁に包まれています。つまり、この世界はハスに包まれているのでした。
仏典で蓮華というとき、ハスもスイレンも含まれます。ハスとスイレンは仏典ではひとくくりで扱われますが、じつは形状も、花の咲く時間帯も異なります。
水面より高くに茎をのばして大きな葉をわさわさと風にそよがせるハスにたいして、スイレンの葉は水上に浮かび、たゆたいます。(もっとも、花を咲かせる前の春には、ハスも葉を水面に浮かべます)
ともに1日のうちに花を開閉させますが、早朝に花を開き、日が高くなる昼ころには花をすぼめるハスにくらべ、スイレンは花を開いている時間帯が遅いものが多い。
〈紅い蓮華/白い蓮華〉
蓮のコスモロジーを育んだ東洋において、ハスの色は紅白の二つに大別されます。パドマ(=紅蓮・ぐれん)とプンダリーカ(=白蓮・びゃくれん)です。色の違いがイメージの違いを生み、紅蓮と白蓮は対比的に扱われることも少なくありません。
(色の違いを超えて、ハスの総称としてパドマの語がもちいられることもあります)
日が高くなると花を開き、傾くとすぼめるハスは、まさに太陽神の住みかと思われていたのでした。この性質は色にかかわるものではありませんが、白いハスは太陽神の住みかに打ってつけと思われます。
清楚で明るいプンダリーカ(白蓮)は、太陽ないし光明を象徴します。
なお紀元前500年ころ、つまりブッダが活躍していたころのインドの思想書(『チャ―ンドギァ・ウパニシャッド』)は、プンダリーカ(白蓮)を心臓の意味でもちいています。
たいして、妖艶な美しさを漂わすパドマ(=紅蓮)は、水と大地がもたらす生産力や豊かさを象徴します。ひいては女性の出産力、そしてヨーニ(=女陰)そのものをも。
パドマ(=紅蓮)とプンダリーカ(=白蓮)はコスモロジー形成において役割を分担しつつ、この世界をみたす豊饒(ほうじょう)と光明を謳い上げるのでした。
〈パドマ=ヨーニ〉
さきのヴィシュヌの世界創成神話において、ヴィシュヌの臍から生えてきたのはパドマ、つまり紅蓮でした。水上にあり、また、そこからブラフマーが生まれ出るのですから、なるほど、それは産む力にとんだ紅蓮であったわけです。
ヴィシュヌの妻のラクシュミ―はパドマという別名をもちます。ということは、ヴィシュヌの臍から生え出たハス(=パドマ)は妻ラクシュミ―(=パドマ)であったのです。前回、ヴィシュヌがパドマ‐ナーパという別名をもつことをいいましたが、これにくわえてヴィシュヌはパドマ‐プリャという別名をもちます。その意味は、「パドマを愛する者」です。
サーンチーのストゥーパに表現されているラクシュミ―をあらためて見てみましょうハスの花の上に股をひろげて坐すラクシュミ―、別名パドマは、そのヨーニをハスの花に密着させているのですから、このハスはパドマ(=紅蓮・ヨーニ)にちがいありません。そしてハスもヨーニも、その生み出す力において同根であり、つながっているのでした。
ここで想い起こされるのは、「オー・マニ・パドメー・フ―ム」という真言(=マントラ)です。今でもチベットなどでさかんに唱えられている呪文です。
その意味は表向き、「パドマの中のマニよ」、つまり「蓮華の中の宝珠(ほうじゅ)よ」というものですが、その裏に隠された意味は紅蓮、つまりヨーニ(=パドマ・女陰)の中のリンガ(=マニ・男根)を意味します。それは世界の生成を祝し、かつ 〈梵我一如〉 の境地を象徴するものでもありました。
前回の冒頭に掲げた問いにもどりましょう。
この世界はどのようにして生まれたのか?
わたしたちはヴィシュヌ神話に導かれてハスのコスモロジー的意味を追い求めてきたのですが、胎蔵マンダラ図絵を忘れることはできません。
マンダラとは、一般に、密教のコスモロジーを図絵として表現したものと考えられています。つまり、世界を生みだし、世界そのものでもある大日如来を中心とし、その周囲に、大日如来が生み出した多数のほとけたちを組織的に配した図絵とされています(じつは、こうした理解は不十分なのですが。詳しくは拙著『マンダラの謎を解く』をご参照ください)。
密教マンダラ図絵には胎蔵マンダラと金剛界マンダラの2種があることはご存知かと思いますが、ここでは胎蔵マンダラに注目したいと思います。
というのは、「中台八葉院」(ちゅうだいはちよういん)と呼ばれる中央の区画に、「蓮華八葉」(れんげはちよう)と呼ばれる、それは見事な8つの蓮華の花びらが描かれ、花芯にあたる中心に大日如来が坐しているからです。
その姿はヴィシュヌ神話におけるブラフマーを想わせます。
また、さきに「世界を生みだし、世界そのものでもある大日如来」といいましたが、それは古来、ハスの花に託された力であり、イメージでした。ハスの花と大日如来はつながっているように思われます。
バラモン教・ヒンドゥー教と仏教のあいだに影響関係があったかもしれません。そういえば、仏教モニュメントであるストゥーパには、のちにヴィシュヌの妻とされるラクシュミ―が単独で表現されていました【写真S-11】。
胎蔵マンダラと関係が深い経典として、7世紀のインドに成立した『大日経(だいにちきょう)』があります。この密教経典によれば、胎蔵マンダラは正式には「大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)マンダラ」といいます。大悲は大いなる慈悲、胎蔵は子宮。つまり、大いなる慈悲に包まれ子宮から生まれたマンダラという意味なのです。
とすると「蓮華八葉」はパドマ、つまり紅蓮華かと思われてきます。空海が中国から請来(しょうらい)した両界曼荼羅図の胎蔵界「中台八葉院」には、蓮華八葉が紅蓮華として描かれ、中心の大日如来、そしてこれを取り囲むほとけそれぞれが載る蓮台は白蓮華として描かれています。地が紅蓮華なので、そこに描かれる蓮台は、対比的に際立たせるべく白蓮華になったのでしょうか。
ところが、胎蔵マンダラが依拠するとされる経典『大日経』はつぎのようにいうのです(一部要約)。
中心には妙なる白蓮を描く。八枚の花弁(=蓮華八葉)は均等であり、欠けるところがなく、蕊(しべ)はみな絢爛豪華に飾り立てられる。この蓮台に大日如来があらわれる。
「蓮華八葉」の蓮華は紅蓮ではなく、白蓮だというのです。意外な感がします……。「大悲胎蔵生マンダラ」というのに、胎(=子宮)を含意する紅蓮より、白蓮を『大日経』は選ぶのです。
密教はヒンドゥー教の影響を受けた仏教であるとわたしは理解していますが、それでも妖艶で官能的な紅蓮より清浄で慎ましい白蓮を選ぶあたり、やはり仏教としての一線を『大日経』は守っているのでしょう。
〈紅い蓮華から白い蓮華へ〉
これまでの考察を振りかえってみますと、興味深いことに気づきます。前回の冒頭に掲げたヴィシュヌ神話において、ヴィシュヌの臍から生え出したのは紅蓮でした。ところが、仏典に導入されるや、この蓮華はつぎのように表現されていました(『雑譬喩経』、第10回を参照)。
この人神の臍の中から、千葉(せんよう)金色の妙法蓮華が出現した。その光は非常に明るく、たくさんの太陽が一緒になって照らすようであった。
「金色の」とありますが、これはつぎに出てくる「その光は非常に明るく、たくさんの太陽が一緒になって照らす」さまを形容しているのです。つまり光明のありようをそう表現しているのであって、蓮華じたいが金色というわけではありません。
そして「妙法‐蓮華」とは、インドの言葉でいえば「サッダルマ‐プンダリーカ」。つまり、この蓮華はプンダリーカ(=白蓮)なのです。
ヴィシュヌの臍から生え出したパドマ、つまり紅蓮は、仏典においてプンダリーカ、つまり白蓮に変わっているのです。
これをどう解釈すればいいでしょうか?
答えは明瞭であるように思われます。
仏典――ひいては仏教――は、パドマ(=紅蓮)の性的豊饒よりプンダリーカ(=白蓮)の無垢な清浄を選んだのでした。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/mandala/mandala_taizoukai/01.html 【中台八葉院】 より
中台八葉院
法界定印を結び、宇宙の真理をあらわす大日如来を中央に、四如来・四菩薩が八蓮弁に座す胎蔵曼荼羅の中心となる院。大悲大定の威光に満ちた大日如来と、人々の仏性を育む諸如来、それを支援する諸菩薩の功徳が示される。
●胎蔵マンダラの中心
●八葉の蓮弁の中央に主尊の大日如来(サトリ)、その上(東)に宝幢如来、右(南)に開敷華王如来、下(西)に無量寿如来、左(北)に天鼓雷音如来、の「四如来」が配される。
●「四如来」の各間には、右斜め上(東南)に普賢菩薩、右斜め下(西南)に文殊菩薩、左斜め下(西北)に観自在菩薩、左斜め上(東北)に弥勒菩薩、の「四菩薩」が配される。
●他の如来が袈裟を着た如来形であるのに対して、大日如来は頭上に宝冠を戴く菩薩形であらわされる。
●密教の物質的生成原理を可視化した胎蔵曼荼羅の大日如来は、理の世界の象徴として法界定印を結ぶ理法身であらわされる。
●法身大日如来の自内証(サトリ)を、釈尊の成道のプロセスに擬し、「発心(発菩提心)」→「修行」→「菩提(証菩提)」→「涅槃(入涅槃)」の「四転」(自利)によって展開する(この「四転」に「方便究竟(利他)」を加えて「五転」という)。
●八葉の蓮弁は本来「白蓮華」で、私たち(衆生)が生まれながらに具有しているはずの(白浄)菩提心をあらわすが、私たちが一般に目にする「現図曼荼羅」は赤色とし私たちの現実の心(肉心)をあらわす。