ハスのコスモロジー(中・その3)
https://www.circam.jp/essay/detail/id=1969 【ハスのコスモロジー(中・その3)】より
前回まで、ハスのイメージとそのコスモロジーを、インドの神話や中国の石窟のなかに求めてきました。ここで、仏教経典との関係を振りかえっておきましょう。
〈『法華経』でハスは間接的〉
「蓮華」を冠した仏典として『妙法蓮華経』(みょうほうれんげきょう)、略して『法華経』(ほけきょう)があります。1~2世紀ごろのインドで成立した代表的な大乗経典です。蓮華のイメージにあふれているのかと思いきや、通読してみますと、『法華経』には蓮華そのものに関する記述が意外なほど少ないのに驚かされます。
「妙法‐蓮華」とは、原典では「サッダルマ‐プンダリーカ」(第11回)。つまり、この蓮華はプンダリーカ(=白蓮)。したがって『妙法蓮華経』とは、「白蓮のように正しい教え」という意味になります。ハスは喩えとして形容にもちいられているのであり、この経典はハスのコスモロジーを直接に反映するものではないようです。
ハスはこの経典のなかにそれほど出てこないものの、説明抜きで経典の名に冠されるほど、インドでハスは馴染み深く、そして重視されていたことがわかります。日本でいえば、桜のような位置にあるといったらいいでしょうか。
つまり、インドでプンダリーカ(=白蓮)は説明を要しないほどに親しまれ、また、その汚れなき清らかさは人びとの心の奥深くにまで浸透しているのでした。こうした文化的土壌があり、そのなかでハスのコスモロジーが花開いたのです。
〈直接的なのは『華厳経』〉
ハスのコスモロジーを濃密にもつ仏典として『華厳経』(けごんきょう)があります。正式な名称は『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう)といいます。「仏華厳という偉大な教え」という意味です。
「仏華厳」とは、蓮華の上に坐すほとけを中心に、その周囲を取り囲んで整然と無数の蓮華が咲き誇り、すべての蓮華の上にほとけが坐っているさまを意味します。中心に坐すほとけは『華厳経』の主尊であるヴァイローチャナ、漢訳名として毘盧遮那(びるしゃな)仏。この光景は、周囲を取り囲む無数のほとけたちが中心に坐すビルシャナ仏(ルシャナ仏とも)から生まれたことを物語っているのです。
世界はビルシャナ仏から生まれ、またビルシャナ仏は世界そのものなのです。あたかも、世界が蓮華から生み出され、かつ世界が巨大な蓮華の中に存在するかのように――。現代のわれわれは、つい、比喩と受け取ってしまいがちですが、そのまま真実であると経典は教えます。きわめて立体的でダイナミック、生命的でパワフルな世界観です。
途方もなく壮大なコスモロジーをもつ『華厳経』ですが、これは、インド各地で書かれた有名・無名、長短さまざまな経典が3世紀ころ、中央アジアのオアシス都市・ホータン(コータンとも)に集積し、それらが編纂されて成立したのでした。遅くとも4世紀のなかばには成立していたとみられます。インドから中央アジアにいたる過程のなかで、ハスの性格に変化が起きたことはさきに触れたところです。
『華厳経』の漢訳は5世紀前半に初出し(六十巻本)、北魏で大いに重んじられました。雲岡石窟に多数の〈天蓮華〉が見られましたが、これも『華厳経』の影響ではないかとみられます。
『華厳経』は中国にひろがり、浸透してゆきました。前回述べましたように、中国にはこれを受け入れるコスモロジー上の素地があったのです。『華厳経』の影響の下、華厳世界のイメージを中国流に精緻に具体化した『梵網経』(ぼんもうきょう)という新たな経典まで生まれました。
それでは、再び龍門石窟にもどりましょう。
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〈ビルシャナ大仏の出現〉
北魏が滅びますと龍門石窟からツチの音は消えました。しかし唐の時代に入りますと、龍門において石窟の造営が再び活況を呈するようになります。
『華厳経』の教主であるビルシャナ仏が7世紀後半、高さ17メートルあまりもの巨大な磨崖仏となって出現します【写真R-3】。龍門石窟の奉先寺(ほうせんじ)洞です。唐の皇帝・高宗(こうそう)の勅願(ちょくがん)によるもので、皇后の則天武后(そくてんぶこう)も2万貫を提供しました。7世紀後半、日本では現存法隆寺の金堂が完成したころであり、この80年ほど後に東大寺の大仏が完成します。
ビルシャナ仏が載る蓮華座ももちろん巨大ですが、残念なことにかなり崩れています。
世界はビルシャナ仏から生まれ、またビルシャナ仏は世界そのものであることを謳い上げるのが『華厳経』です。しかし、世界は無限大ですから、これを具体的な形で直接に表現するのは実際には不可能です。それでも実現しようとすれば、ビルシャナ仏が可能な限り巨大になるのは必定です。
あまりの巨大さをもとめたがゆえに、これを石窟内に造るのは無理だったと見えます。奉先寺“洞”とはいっても窟空間はなく、オープンエアー・ミュージアムの観を呈しています。
(明の時代に保護のための木造屋根が架けられましたが、現在はありません)
したがって〈天蓮華〉は存在のしようがありません。世界は蓮華から生み出され、かつ巨大な蓮華そのものだというのが『華厳経』や『梵網経』のコスモロジーですが、それを奉先寺洞は、ビルシャナ仏と蓮華座の巨大さによって表現したのです。巨大であることがすべてを包み込む証であるかのように。
『華厳経』初の漢訳(六十巻本)が出て以来、この経典は北魏から唐の時代にかけて重視されてきました。7世紀末に武周革命が起きて則天武后の時代(周)になりますと、中央アジアのホータンから招かれた僧によって新訳(八十巻本)がなされました。その序文を則天武后が書くなど、中国唯一の女帝は『華厳経』に非常な思いを込めていました。
【写真R-3】『華厳経』の教主・ビルシャナ大仏が像高17メートルもの摩崖仏となって龍門に出現した。『華厳経』の熱心な信者であった則天武后から寄進され、その像容は彼女の面影を伝えているといわれる/龍門石窟・奉先寺洞
(『華厳経』の教主であるヴァイローチャナは、六十巻本では盧舎那仏と、八十巻本では毘盧遮那仏と表記されました。日本には六十巻本が入ってきましたので、盧舎那仏と呼んでいました)
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〈天のハスと本尊仏をむすぶ〉
龍門は伊河(いが)をはさんで西山と東山からなることを前回述べました。西山がほぼ彫り尽くされますと、対岸の東山でも開窟がはじまります。奉先寺洞の巨大仏が出現した後の8世紀初頭のころ、龍門におけるハスのコスモロジー表現は新たな段階をむかえるのでした。
この時期を代表するのが看経寺洞(かんきょうじどう)です。それまでは蓮華洞に見たように、窟天井の中心に天蓮華があっても、本尊仏は正面の奥壁にありました。ところが、天井の中心にシンボリックに彫り出された〈天蓮華〉、その真下に仏像が位置するようになったのです【写真R-4】。
看経寺洞は幅、奥行とも11メートルあまりの正方形をなし、天井は平らで高さは8メートルあまりの方形窟です。
天井の中心に彫り出された〈天蓮華〉は、蓮華洞ではリアルに表現されていましたが、ここでは八葉に模式化され、そのまわりを六体の飛天が旋回しています。そして〈天蓮華〉の直下に、基壇の跡が認められたのです。それは本尊仏を安置するためにあったにちがいありません。西山では見られなかったことです。
【写真R-4】窟の天井中央にあって世界を支配する八葉からなる〈天蓮華〉。その真下に大日如来が据えられていたか。胎蔵マンダラ世界に立ち上がる垂直の軸《アクシス・ムンディ》/龍門石窟・看経寺洞
現在、〈天蓮華〉の直下に基壇が復元され、本尊仏と思(おぼ)しき仏像が安置されています。仮の処置と思われますが、天井に彫り出されたハスの花がマンダラ図絵に見る〈蓮華八葉〉になっており、胎蔵マンダラを想わせることから、おそらく往時にあっては、胎蔵マンダラの本尊である大日如来(だいにちにょらい)が安置されていたのではないかと思われます。
このほとけのインド名はヴァイローチャナ。これが漢語で音写されたのがビルシャナ(毘盧遮那)で、おもに大乗仏教でもちいられます。その意味は光り輝くものであり、太陽が仏身化されたと考えられます。ヴァイローチャナの意味を採った漢語名が大日如来です。この名は、おもに密教においてもちいられます。
(それはまた、第10回で述べたように、〈梵〉が仏教において形をもったものとも考えられます)
それまで奥壁に彫り出されていた本尊仏が〈天蓮華〉の直下、空間の中央に進み出たのです。それは〈天蓮華〉と本尊仏が中心を共有して上下に重なり、イマジナリーにひとつとなった姿です。ここに本尊仏と〈天蓮華〉を垂直につらぬく、イマジナリーな中心軸が生まれました。
〈天蓮華〉と地上をつなぐ 《アクシス・ムンディ》 が立ちあがったのです!
( 《アクシス・ムンディ》 については第2・3・5・6回を参照)
〈石窟マンダラの理想の形〉
本尊仏と〈天蓮華〉を垂直につらぬく中心軸は、さらなる進化をとげます。龍門の看経寺洞では窟の天井はフラットでしたが、これがドーム天井になり、さらには大きな〈天蓮華〉がただ1つ、ドームいっぱいに花開くのです。それが韓国にあります。「世界遺産」に登録されている慶州の石窟庵で、造営は8世紀なかば、東大寺の大仏建立と同じころです。
【写真K-1】ドームいっぱいにひろがる巨大な〈天蓮華〉が本尊仏を包みこむ。本尊仏と〈天蓮華〉は一体であり、かつそれは輝ける光明である/石窟庵・韓国
慶州は今でこそ地方都市ですが、かつては新羅の都でした。唐代の龍門石窟には新羅人の寄進による仏龕が見いだされます。ある時期、新羅は唐と積極的に交流関係をもち、その都である慶州には特色ある仏教文化が大いに栄えたのでした。
石窟庵はこれまで見てきたような、岩盤をくり抜いて出来た石窟ではありません。石材を組み上げて、その上に土を盛った「石窟」です。感覚としてはむしろ石室に近いといえます。
直径7メートルほどの円形主室の天井はドーム状をなしています。その中央部がもっとも高くなりますが、その高さは8メートルあまり。ドームに嵌め込む石材に凸状のものをもちいることにより、巨大な〈天蓮華〉がドームいっぱいにひろがっています【写真K-1】。
見上げると、凸状にふくらんだ石材が放射状パターンに配されています。これが〈〈天蓮華〉=太陽〉という感覚を呼び起こします。まさに〈天蓮華〉が太陽になりきり、光を発しているのです。
ドームをみたす〈天蓮華〉の下、本尊仏がハスの花の上に坐しています。それはブッダか、ビルシャナ仏か、阿弥陀仏か…。日本人学者によってブッダと判定されてきました。触地印(そくちいん)を示していることからそう考えられるのです。
しかしながら近年、韓国人学者によりこれは阿弥陀仏であることが論証されています(黄寿永『石窟庵』)。新羅では阿弥陀仏もこの印をなすというのです。となるとここは、ハスの光に満ちた極楽浄土ということになります。
ビルシャナ仏である可能性もありますが、それは石窟庵に近い仏国寺にまつられており、やはりこれは阿弥陀仏であるとされています。実際、阿弥陀仏を謳い上げる浄土経典『観無量寿経』と『華厳経』には相互に影響関係が認められていますし、ここが阿弥陀浄土だということは十分考えられることではあります。
よく見ると、阿弥陀仏はドームの中心から少し奥に後退しています。本尊仏を正面から礼拝するとき、少し奥まっていたほうが落ち着きがよく、むしろ〈中心〉を感じるものなのです。
龍門の看経寺洞では本尊仏と〈天蓮華〉を垂直につらぬく、イマジナリーな中心軸が生まれていましたが、それはいわば図式どおりの構成といえます。韓国・慶州の石窟庵では、その主旨を活かしつつ、マイルドに、成熟したかたちで実現しているといえます。看経寺洞がハスのコスモロジーを直訳したものであるとすれば、この石窟庵はその意訳といえましょう。より進化したかたちを達成しているのです。
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インド神話にはじまり、ここまで、ハスのコスモロジーを追ってきました。いよいよ大団円、わが日本に到達します。日本におけるハスのコスモロジーの代表例は、やはり、あの東大寺の大仏です。次回は奈良の都を訪れましょう。