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【インタビュー】知夫村 へき地保健師たちに聞く、暮らし・仕事INTERVIEW 前編

2019.09.14 14:09

海がきらきらとまぶしい夏の日差しの中。私たち取材チームは、フェリーに乗り島根県の離島、隠岐諸島4島のひとつ、知夫村を訪れました。

この島で30年以上ほぼ一人保健師として孤軍奮闘してこられた山本さん、その後任である分藤さん、そして若手保健師の戸谷さんに会うために。

各々が異なる背景と人となりで、とてもバランスが良いチームだと感じました。離島という、仕事と暮らしが密接な環境だからこその働き方や考え方、それぞれの在り方にこちらも気づかされることが多くありました。

今回の取材では、敢えて“聞き書き”という手法を用いました。

“聞き書き”とは民俗学の記録の手法の1つで、語り手の語り口や方言をそのまま残すことで語り手の仕事や想いをそのまま伝えられるといわれています。

これらの記事が、ほかの地域で頑張っている保健師さんの励みや道しるべになれば幸いです。

INTERVIEW:2019.7.31-8.1

※後編:島の"生まれる"から"命の終わり"まで〜島民の暮らしや生き方に寄り添う〜 はこちらへ


《山本久美子》63歳

昭和31年生まれ。島根県奥出雲町出身。昭和54年より島根県職員として黒木保健所(現在の隠岐保健所)、昭和57年より35年間知夫村の保健師として勤務。平成29年4月より村民福祉課の集落支援員として勤務。(通いの場保健師、村民福祉課アドバイザー)

《分藤美和》47歳

昭和47年生まれ。大阪府出身。平成28年より地域起こし協力隊として知夫村へ移住。平成29年6月より知夫村保健師として勤務。

《戸谷紗嘉》24歳

平成7年生まれ。島根県松江市出身。平成31年4月より知夫村保健師として勤務。島根県立大学大学院看護学研究科博士前期課程2年在学中


【彼女たちが知夫村の保健師になるまで】

山本久美子さん

【高校生の時、テレビで見て保健師になりたいと思った】

山本:私は、高校生のときに保健師になりたいなと思いました。テレビのドキュメンタリーで、生活保護の方に保健師が訪問しているのを見て困っている人のために働ける仕事があるんだ!と感じました。それで、進路指導の時、教育関係の大学を先生たちから勧められたのですが、地元の保健師さんの魅力に触れ、将来の職業として保健師というのは揺るぎませんでした。

【就職先は手挙げ順で、最後になってしまって】

山本:当時は市町村の募集があった時に、その地元の人が手を挙げると、なんか悪いな、と思って手を挙げられなくて。だんだん行くところがなくなっている時に、当時の教務の先生から県の保健師はどうか?と県の保健師を勧められました。本当は町村保健師希望だったのですが、保健所実習の中で、薬剤師さんや栄養士さんなどのスタッフとチームを組んで仕事をされていたのを体験したことで県の保健師にも興味が出たところでした。30何年、40年近く前はほんとに地域に出かけるのもチームで、そういう時代だったんです。共同保健計画といって、市町村の保健事業計画を保健所と役場と一緒に計画を立てる時代でした。他の町村の活動も分かって、それを助言し市町村の支援もできると思い、県を受けて受かりました。配属先は、その時まで行ったことのなかった隠岐の黒木保健所になりました。

その時代は駐在保健師制度があって、町村保健師がいないところに対しては保健所の保健師が支援をし、町村の保健師の仕事も兼ねる制度だったのです。

【島での最初の頃の仕事】

山本:昭和57年4月に知夫の保健師になりました。その前の54年度から56年度の3年間は、保健所の保健師でした。その後知夫に来てからは本当に何もわからなくて。役場の上司も「わしらも何もわからんけん。なんでもいいけん、とにかくやってくれ」と、一人での保健師活動が始まりました。

保健所保健師の時代は、当時海士町に一人だけ若い保健師さんがおられて、あと西ノ島町と知夫村はいなかったので、保健所保健師の業務と海士町と知夫村の駐在を命ずるという辞令をもらい、精神の業務担当をもらったので西ノ島町に行くこともありました。黒木丸という保健所の船があるんですよ。船長さんの運転で海士町や知夫村に行ったりしました。内航船は、今は西ノ島と知夫村間は15分ですけど、当時は45分かかってね。(!!一同驚く)

朝7時45分の船に乗って知夫村に来てたんですけど、海が時化て(しけて:海が荒れて) 外海の知夫に近づいたら欠航になり、区長さんに電話をして「今日の健康相談は行けません。欠航になったので、このまま帰ります。すみません」ということが度々あったんです。

町村支援としては健康相談とか家庭訪問とか検診のお手伝いをしていました。あとはまぁ健康相談の時に昔はガリ版で書いたものを刷った保健だよりを持って相談をしていました。

昼食は、お弁当を持って行き、区長さんや婦人協力者の方のお家で一緒に食べました。その人の家の食事を見たりとか私の弁当も見られたりとか。そんな感じで村の実態も案外そういうところでも分かったりしたんですけど。そうこうしているうちに黒木保健所の勤務も3年経ったら帰れるなと思っていたんですけどね。(一同笑い)

【夫は、「私との電話に10円玉をつぎ込んだから、NTTが民営化になったんだ」って言うの】


山本:2年目にある人にちょっと電話で声をかけられて…。(一同笑い)

電話は、当時固定電話しかなくて電話器が結構高かったんですが、課長、係長さんが「私も手伝ってあげるから電話つけんといけんよ」と言われて電話を付けたんです。当時私は知らなかったんですが、電話帳に名前を出さないでくださいと言ったらNTTは名前を出さないんだそうです。言わないと、そのまま電話帳に載っちゃうんだそうです。なので、電話帳に載ってしまって。それを見てある男性が電話を掛けてきて、「電話してもいいですか?」と言われて、断ればよかったんですけど、なんとなく「いいですよ」と断り切れなくて。それがまあ今の主人なんですけどね。それで3年経って帰ろうかなという時に結婚話もあって、知夫に当時保健師がいなかったので、縁があって帰れなくなってしまったんです。(一同笑い)

分藤:今も有名な話ですよ。山本さんは当時すごくかわいらしくて、誰が(嫁に)もらうかと話題になっていたみたいです。「誰が電話をかけるか」電話を何回もかけて「ごめんなさい」と言われたという話を聞きました。

山本:夫のセリフは、「自分が公衆電話に10円玉をつぎ込んで、NTTが民営化になった、それだけつぎ込んだんだって」。(一同笑い)

【保健師としての想い】

山本:知夫で保健師を始める時は、やっていけるか悩んだりしました。でも、保健所時代に体験し学んだ愛育班(地域の人々すべてを対象に声かけ・見守りなど、行政との連携・協働による地域のニーズに応じた活動をする住民の地区組織)活動などの、住民の方が主体になった活動が地域を動かすと考え、地区組織の育成に力を入れました。

いま思う保健師の魅力は、子どもの成長が看れる、働き盛りの人が老いていくのが看れる。そう、人生が看れます。保健師の仕事は生活を診る支援をしますが、人生そのものを学ばせてもらい、生き方を見させてもらっていると思います。女優さんもいろんな人生を体験できる良い仕事だと思いますが、保健師という職業もね、同じ地域で長年やっていると自分にとっても糧になるありがたい職業だなぁと思っていますよ。そしていろんな人を繋げられるし、いろんな人と繋がれるし。


分藤美和さん

【知夫へ来たきっかけは子育てに悩んでいたから?!】

分藤:恥ずかしい話ですが、子育てに悩んでいて。あの頃は、思いつめた状態でしたね。いまは子どもが高1と高3なんですけど。いまは離婚したんですが、当時、知夫村の島留学の情報を夫が見つけてきたんです。それで、夏の思い出に見学に行こうかって、島留学の一期生の体験ツアー見学に参加したんです。そこで娘が知夫を気に入っちゃって。娘は、この春に米子の高専に進学し巣立っていってしまったのですが。中学時代を知夫で過ごしました。

私は仕事も、7年前に病気をしていて、それこそずーっと仕事としてきたわけではなくて、10年ぶりくらいにフルタイムで働き始めたんです。キャリアもつながっていなかったし、自由だったから、ちょっと思い切ってみようかなと思って。まぁ賭けですよね。でも変な言い方ですけど、賭けは“うまいこといった”かなと思います。(一同笑い)

病気というのは、2012年1月にクモ膜下になって。仕事も休んで、混乱している日々でした。でも細々とでも絶やさないこと。その経験が人生に生きてきますね。看護のバイトなんかはしていたけど、悩んでもいました。病気じゃなかったら(知夫村で働く)選択はしてなかっただろうと地域の方に言われて、そう言われればそうかもしれないなあと思います。

山本:私が辞めたら保健師が0になるときだったので、地域おこし協力隊で来てもらって、つないでもらって、本当に感謝しています。ずっと募集中だったんですけど。なかなかね、0になるということは本当に何も保健事業がとぎれてしまうので。誰がするのかってことになるので。色々ご苦労も掛けたと思いますけど。都会の保健師活動とは全然違うので。独特の独自のものもあったりするので大変だったと思いますけど、感謝しています。

分藤:ここで子育てをしたい!と思って決めました。正直言うと、家賃が安かったのも決め手で。大阪にいる時の10分の1くらいですし、お金使うところもないので。行く前に、簡単に逃げられない環境に自分を追い込んでみようかなと思いました。最初は、任期の期限が決まっている地域おこし協力隊で3年間ここで子どもを育ててみようと思ったんですけど、赴任の半年後に、山本さんの退職されるタイミングもあり、迷ったけど、知夫村の保健師になりました。

【背負うと考えると重いけど、自分のやり方でやればいいと言ってもらって】

分藤:辞めて行った人たちは、山本さんがされてきたことを背負う・・・背負うというか引き継ぐということに対してすごく重いと思っていたのかなと思います。今となればですよ。今思うとね。地区の人たちが「気負うな」というのはそういう意味だったのかなと。私自身、自分のことで一生懸命で、子育ては逃げられないじゃないですか。歯を食いしばって頑張って、すごく偉そうなことを言いながらやってきたんです。教えてもらいながら。たしかに、ひょっとしたらこれが都市部だったら「はい、いいです、もう辞めます。」言うかもしれませんね。なかなか保健師一人でするっていうのは大変ですよね。(山本さんは)本当にすごいと思います。

山本:一人保健師の時代は、上司はもちろんですが計画や評価について保健所の意見ももらいながら事業を実施してきました。保健師活動っていうのは、もちろん住民の声も聴きながら、役場の村民福祉課、診療所とか、社会福祉協議会、教育委員会などとチームを組んで、そう連携・協働して、はじめて知夫にとって、住民にとって、より良い保健活動になると思います。

【生活を楽しめる人に来てもらえたらいいよねと言っていました】

分藤:保健師をやりたい!という人よりも、この生活を楽しめる人が来てくれるといいよねと山本さんと話していました。やっぱり、保健師をやりたいというだけでは、ここは生活と仕事場が一緒なので。本当に、買い物に行っているのに地区踏査をしているような気持ちになる時もあります。逆にとても見られているとも感じます。

戸谷:わたし、自分の地区の商店でビール買うの、もう辞めました。(一同笑い)

分藤:やっぱり生活の場と仕事の場がすごく近いと思うので、そこの良さとしんどさ、ストレスがありますよね。ここだけにしていた話が、ほかの場所で足がついてしまった時に、違う形でここに帰ってきたりとか。伝言ゲームみたいなね。人の噂というのが、朝その出来事があったら、もう夕方には広まっているとかね。

戸谷:ツイッターより早い・・・

分藤:もっと若かったらまともにうけてしまっていたかも・・・

地区のおっちゃんに言われたんですよ。「お前は、自分でなんでもしようとはせえへん。上手に人を動かしよる」って。お前にはそれができるって。やっぱりなにかというと、「山本は真面目だから、山本の真似したら長持ちせえへんぞ!」「そのへんお前は適当だから人を使え!」って。お前はお前のやり方でいいと言ってもらったような気がしましたね。ほんとにめっちゃ見られてるんだなと思いました。人を使うというのは、私の母校の育て方かなと思います。


戸谷紗嘉さん

【「なぜ知夫村に来たか?」と聞かれまくっています】

戸谷:今年の4月に知夫村に来ました。なぜ知夫村に?よく聞かれまくって、なんて答えようか迷うのですが。島根県の出身ですが、知夫村を訪れたことはそれまで一度もなかったんです。去年の今頃でしたね。初めて来て、どんなところかなと思って。地区の人との交流もし、地域保健活動の紹介も受けて、面白そうだなと思って。思い切って引っ越して仕事を始めました。

【特色ある地域での仕事】

戸谷:こういう、特色ある地域で保健活動できることが魅力でした。いろんな困難がありますけど。ほかでは体験できないことだったり、本当にいろんなことが起こるんですけどね。最初に知夫村に興味を持った経緯はいろいろあって。去年1年間は、別の自治体で保健師として働き、仕事が終わってから大学院に通学するという生活を送っていました。それで1年目に単位を全部取ってしまって。2年目から自分の時間と思って。そんなときに、ここ知夫村は随時募集しているのと、アウトドアが好きだったので。1回見に行ってみようと思いました。生活の部分とかいろいろ聞いて見に来たら安心しました。村の人もみんないい人だし、思い切ってやってみようかなと思って。冒険心もあって。保健師をしたかったので、せっかくだったら特徴のある面白いところでやってみようかなと思いました。最後は選んでここに来ましたね。

【生活も楽しみだった】

戸谷:任期などは決まっていないです。自分の生活も楽しみだなぁと思って決めました。今もこの夏に入ってから、土日にサザエとりに出かけたり、海で泳いだり、貝を取ったりとか。

たしかに島なので、しつこい絡みもあるんですよ。どこ行く?何する?何しちょる?こんなとこにおったねと聞かれたり。(一同笑い)

個人的な荷物なんかも職場に届くんですよ。私の韓国グッズなんかも。この間、「家の外でもいいけん家に置いといて!」と電話しました。でも楽しくやっていますね。同世代のIターンの人とは元々知り合いだったわけではなくて。みんな全国から来てて、全くこっちに知り合いも親戚もいない。縁もゆかりもないんだけど、みんな1人で来ているので、集まってご飯を食べたり遊びに行ったりとか。Iターンの人が多く、同世代のIターンの方といろんな話をしています!

【島暮らし】

戸谷:サザエなんかも、丸ごともらっても調理に困るってことあるので。お刺身にもするしアジぐらいだったら切り身にして冷凍にしたり。大丈夫かなと言うのも冷凍して。

分藤:私食べきれないときはサザエを海に返しちゃってるよー。捨てるよりいいかなと思って。(一同笑い)

分藤:戸谷さんと小学校に行ったときに、本当に暑い日で、「喉かわいたね。飲み物買ってこようか」と言ったら、「私、小学校のヤマモモとコケモモを食べたので大丈夫です」と言われて。いつのまにか木の実を食べて水分補給してたと知って驚いたんですよ。彼女たくましいでしょう?(一同笑い)

【この環境だからこそ】

戸谷:失敗しても、怖がらずに地域に出させてもらえる。大きな町で働くよりも思い切ってやれる環境だと思います。

山本: 私の新任期の時は、国保連合会の支援で臨床研修もさせてもらいました。退院後、在宅支援ができるようにと、腹膜還流、人工透析、ストーマ、在宅酸素などの研修を総合病院で行いました。

今では、村独自で予算を組み、新任期の保健師さんに島前病院の研修の機会を設けています。健診の結果、要精密検査者の方の検査の見学や高齢者の退院時、ケアマネと保健師と島前病院に行き、医師や看護師、家族と話し合い、在宅での介護保険サービスにスムーズにつなげる旅費の予算も組んであります。

戸谷:学べることも多い。研修のための時間もお金もとってもらっているのはありがたいです。


※後編:島の"生まれる"から"命の終わり"まで〜島民の暮らしや生き方に寄り添う〜 はこちらへ



《知夫村の概況》(2019年7月1日現在)

面積:13.69km

人口:641人

世帯:367世帯

高齢化率:45.5%

後期期高齢者率:25.6%

出生:29年度9人、28年度2人


《取材チーム》

聞き手・撮影:松本朝子/同行:岩永夏美

文字起こし:松本朝子・島田宗太郎 ・大野祐子・五藤幸根

編集:松本朝子・五藤幸根

グラフィック:松本朝子