振り返れば
ほんの1,2年前、瞑想中の自分と現実の自分のギャップをものすごく感じていた。
瞑想中に叡智に触れ、気づきを得ても現実に戻るとほとんどなかったことになっていくことを繰り返していたため、自分が二つに分断されているような気がしていた。
むろん、目指したいのは瞑想中の自分だが、現実世界の方が圧倒的にリアリティがあり、時間的にもグダグダしている時間が大半で、かつて、向こう岸を「瞑想」という船で渡ってそこの風景をのぞき見し、そしてまた船でこちらの現実の岸に戻ってくると例えたことがあった。
だが、気がつけばいつの間にかその二分化された自分はほぼほぼ一つになりつつある。
瞑想で気づきを得た自分は今より少し先の自分であり、やがて現実の自分に落とし込んでいくことができていると思えるようになった。
瞑想の力というのは思った以上にパワフルだ。
新たな気づきは体感として自分の内側に堆積し、しかも結構何度も何度も同じことを伝えられ、そのたびにそれを受け取り直し、これでもかと念押しされ、やがていつの間にか自分の中でしっかり自分の礎として確立していく。
例えば自分への信頼感。
これも最初はとても希薄だったのに、
一度瞑想の中で天地としっかりつながっていることを体感した時にそのあまりの安定感に驚いた。これこそが本来の在り方なのか・・・と思った。だがいつものように数日で忘れ去った。ところが一度体感したことは決してなかったことにはならないようだ。
また日をおいて似たような体感を瞑想中に体感し、ああそうだったと思い出す。忘れ去ってもまた新たな記憶が積み重なっていき、もはや忘れることができなくなる。そして自分の信念がいつの間にか塗り替えられていることに気がつく。私は一度として天地とのつながりを失ったことなどなかったと・・・。自分がなくしたと思っていてもそのつながりつながりは在り続ける。我々はそういう存在である。だから自分を、宇宙を信頼していればいいのだと・・・。
かつて、私はそれこそ10代の頃から宇宙の理を知りたいと思っていた。そのしくみを知れば自分が何故ここに生まれ、何故ここに存在しているのかがわかると思ったからだ。
今は・・・その思いはかなり薄れてきた。言葉にできなくとも自分の内側がそれを知っているように思うのだ。だから別にそのことを追求するよりも、むしろ今与えられているこの時間を大切にすることの方が大事なのではないかと思っている。
やがてはここを去る。だがここに存在できることの僥倖を思えば、もっともっと存分にこの世界を味わなければ本当にもったいないと思うのだ。
自分のこれからはまったくわからない。
だが不安ではなくなった。
きっと必要なことならば何かが起こりえるだろうし、何も起こらなくても自分が満足できていればそれでいいと思う。
より軽みをめざして、
より面白く、
より流れに任せて旅を続けよう。
きっと今まで以上にサポートを得ることだろう。
楽しみだね。