平和の十字架をかかげて
8/15はフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた記念日です。また、75年前の8/15は終戦の日、日本が敗戦した日です。
平和とは何でしょうか?それは戦争していないことではありません。確かに戦争していない今の日本は平和だと言えるかもしれませんが、本当に平和かどうか考えると、平和とは言えません。
●平和の祈り
ああ主よ、わたしを、あなたの平和の道具としてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは、与えるので受け、ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
アーメン。
この祈りの中にある憎しみ、争い、疑い、誤り、絶望、悲しみ、闇。これらが1つでもあるならば、平和は失われてしまいます。逆に、愛、ゆるし、一致、信仰、真理、希望、喜び、光があるところこそ真に平和だと言えるのではないでしょうか。その内の1つでも欠けるなら平和ではありません。すべて揃ってこそ平和です。とても私たちの努力では平和を実現することは不可能のように思いますが、だから祈ります。
新約聖書 マタイによる福音書 5:9(新共同訳)
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
「神の子と呼ばれる」って、ものすごい称号ですが、なぜそう呼ばれるのでしょうか?それは神の御子であるイエス・キリストこそ平和そのものだからです。その象徴が十字架です。イエス・キリストは十字架によって平和を実現してくださいました。
アンネ・フランクは日記の中に、戦争の責任は一人一人の心の中にあると書いています。それを聖書は「罪」と言っています。それは「的外れ」という意味で、本来の目的…私たちの存在の目的や生きる目的、人生の真の目的と目標である神さまから離れている状態のことです。この罪のために、平和を実現することができないのです。そればかりか、罪には当然裁きと罰があるように、その罪のために私たちには死ぬことと滅びることが定められていると聖書に書かれています。
そんな私たちを救い、平和を与えるために、イエス・キリストは来てくださいました。そして、私たちの全人類のすべての罪の身代わりとなって、裁きと罰を受けられました。それが十字架です。
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2:14-17(新共同訳)
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
十字架は私たちの平和のシンボルです。十字架の横の木は人と人の関係を表し、十字架によって人間同士の敵意が滅ぼされ、敵対していた人が手を取り合って一つとされます。また、十字架の縦の木は神様と私たちとの関係を表し、罪のために、神さまから離れていた私たちが、十字架のもとで神さまと和解し、一つに結ばれるのです。こうして、人との和解と神さまとの和解を通して、真の平和が実現します。
この十字架をかかげて、今日も平和の実現を祈り続けます。God bless you!