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やわい屋

インディーズの時代。

2020.08.16 04:18

・分かり合えないことから始めるということ。

 街から離れて、ぽっんお店を営んでいると(たいした先見性もないありふれた器屋だが・・)、都市部の有識者や、地方を活性化しようと努力をする地元の若者が訪ねてきてくれる機会がたまにある。しかし、どうにも彼らの話が分からない時がある。正確には理解できるのだけど腑に落ちない時がある。

話しているときは感心する事柄も多く、心の底から楽しいのだけど、どうにも目の前のその人と口から発している言葉に整合性が感じられず、どこかチグハグで歪な感じがする人が少なからずいる。そういう人の話は、話としては面白いのだけど、ストンと心に落ちてこない。

勘違いされがちだけれども、分からないことと否定することはまるで違う。世の中は相対的に捉えないといけないから、苦手だからといってその根拠に向き合わず背を向けていると、一見関係のないように思える大切なものにまで影響が出てくる事がある。だから分からないことを分かったふりして進め続けることはけっしてしたくない。知っていることと理解していることは違う。どれだけ遠回りでも気になったことは学んで自ら読解しなければいけないと思う。それが相手に対しての誠意だと僕は考えている。

それは多数派を否定する言葉でも、少数派を賛美する言葉でもない。適正な棲み分けが必要だと言っているに過ぎない。ひととひとは分かり合えない、僕はその地点に立って世の中と向き合いたいと願っている。分かり合えないことを受け入れることから始まることがたくさんあるはずだ。それは、もしかしたら多様性と呼べるのではないだろうか。


・華厳世界とダイバーシティー

 理解し合えない他者との共存、それは、言い換えれば、それぞれが異なる個性を持ち、そのままの在り方、平等に必要であるという事です。このような考え方は、何も最近になって出てきた話ではなく、ダイバーシティーや持続可能社会という言葉が、語られるより遥か昔から存在していた。一例をあげると仏教では、そのような世界観を”華厳世界”と呼んでいる。

華厳を簡単にまとめると、”自然界に眼をやれば大小さまざまな花が咲いていて、どれも美しい。大輪の蓮も野辺に咲いた名も無き花も、精いっぱい咲いて美しい。そして、自然界と同じように、人間も一人として同じ者はおらず、様々な人が存在して一つの大きな自然=社会を作り出している。だから個々がそれぞれの美しくあることを目指す事が全体の美しさ=個々の幸福へと繋がっている。”という、考え方です。

つまり、平等だからと言って皆が一律に同じになるのではなく、個々の違いを受け入れ、それぞれに適した姿を通して出した音が、重なり合うことで一つの壮大な音楽を奏でる、つまりオーケストラのようにあれ。という意味です。

全員が同じ楽器を選んだらオーケストラは成り立ちません。そして、一見無意味に見える地味な楽器にも、楽曲全体にとって必ず必要なパートです。ひととひとが分かり合えないまま共存している。というのは、そのような状態を指します。”バラバラでまとまっている”と、良い変えることもできます。

そのような華厳的な社会を維持する為には、それぞれの人が、個々の違いや、自らの弱さも、そのまま受け入れることが、不可欠になります。そに為には、面倒かもしれませんが”分からない”ということをきちんと受け止める事から始め、その”分からないを分かろうと常に努める事”で、少しづつ自分とは異なる他者との、ささやかで愛おしい共感が存在する事を、学んでいくしかないと思います。


・メジャー的社会と、インディーズ的社会

 そう言った多様性社会、華厳的社会という理念を、現代社会の中で表すのは難しい事です。それは、なぜかと言えば、世の中の、あらゆるものの構造が”消費的”に出来ていて、経済や人間関係を含めるあらゆる側面で強い力を持っているからです。そのような既存の強い社会を、例えるなら”メジャー的な社会”と呼びたい。

”メジャー”とは、最近では主に芸能業界で耳にする言葉だ。”一般的”あるいは ”大衆的”と言い換えてもいい。そして、メジャーの対義語は”インディーズ”である。”少数派”と言い換えてもいい。なぜこんな話をするかと言うと、特にビジネス面”金銭的”な話をする際、あるいは街づくりなどコミュニティの話をする際、対話をする相手の目的が”メジャーでの大成功=商業的成功”なのか、”インディーズでの成功=小規模のアナログ的な成功”なのか、そのどちらの成功を目的として話をしているか否かで、話の大筋は同じでも、両者は主張は、まるで異なった文脈を持つことになってしまう。

冒頭の、分かり合えない”違和感”は、ここに帰結している。それらをはっきり意識しない対話というのは、”家族のために作る料理”と、”料亭で出す料理”を同じ”料理”という土台の上に乗せて話しているようなものなので、どうしても認識にズレが生じてしまう。

僕らの選んだ立場について書かせてもらうと、僕らはメジャーを目指さず、インディーズで長く活動し続けることを目標としている。インディーズと一口に言ってもそこには様々な人がいますが、おそらく共通点は、


⑴好きな事を淡々と続けている。

 ⑵小規模で行なっている。

 ⑶ライフワークにとして行なっている。

 ⑷コアなファンに向けて発信しており、局所的な知名度が高い。


というような点が、挙げられると思います。これは、地元密着型の定食屋さんや、本屋さんや、理髪店や民宿といった、”細く長く愛されている小さな商い”全般に共通する事柄でもあります。

都会から来た人や意識の高い人とのズレの正体は、実はただこれだけのことだと思います。「僕らはメジャーを目指さず、インディーズで長く活動し続けることを目標としています」。だから、メジャーへの移籍の話は、どれだけいい条件でものめません。ごめんなさい・・と、ただこれだけの話なんです。これだけのことが未だ上手く伝わらないが故に、今も様々な現場で、小さく生き生きとしたローカルビジネスが、意図せず大きな舞台に引き上げられることで、経済的に裕福になったが、人間関係で軋轢を産んでしまったり、あるいは分不相応な大きな夢を描いた結果、いつまでも宙ぶらりんになってしまう・・・と、いうようなことが、発生しているのだと思います。バンドで言う所の「方向性の違い」での、解散が頻発する理由は、単純に”メジャー”と”インディーズ”どちらに主軸を置きたいと思っているかの点で、相違が生まれてしまったことが、原因であることが多いと思います。

繰り返しますが華厳世界では、大小様々な華があって大きな花畑を作っています。世の中にはどのような人もそのまま自然な姿で必要なのです。大切なのは統一ではなく棲み分けのための采配なのです。

メジャーにはメジャーならでは、大衆に向けて発信すると言う役割があり、インディーズにはインディーズならではの、地域に根ざした役割があります。

重ねて思うのはそれらが優劣ではなくどちらも必要なのだということです。多数派が車の前輪なら、少数派は後輪なのです。


・チャンピオン的なこれまでと、巨匠的なこれから。

”時代は、巨匠の時代からチャンピオンの時代になったのである。巨匠であれば相撲の横綱と同じように、たとえ負け越しても番付が下がることはない、ただあるのは引退のみである。それすらも大抵は親方となって隠然たる力を保持している事ができる。しかし、チャンピオンは、常に戦い続けて、勝ち続けていなければチャンピオンではない”


 これは、確か建築家の言葉だったと記憶しているのですが、今回のメジャーとインディーズの対比には、上記の引用が、最も的確であるように思います。

インディーズは”巨匠的”です。他の替えがきかず、その人そのものが作品のような独自の存在感を持っています。そして、メジャーは”チャンピオン的”です。頂点にたったら、その先には激しい防衛戦を勝ち続けることが求めらます。

もちろん、どちらにも一長一短ありますが、これからの時代に求められるのは、勝ち続けるチャンピオンより、長く生き生きと存在し続ける巨匠的な生き方ではないでしょうか。

ほんの少し前まで、日本には規定された大衆という存在が大きなマーケットとして存在していました。高度経済成長、バブル期、そして、その後もサラリーマンが主体の一億総中流の時代でした。それに、属することはステータスであり、それ以外の在り方は、趣味人的な少数派として、切り捨てられてきました。

しかし、コロナ以降、世界のこれまでの当たり前は少し変わっていくことになるでしょう。それは、経済的な豊かさが自身のアイデンティティーと将来の安住を保証してくれないかもしれない・・という事を多くの国民が感じてしまったからです。

サラリーマンという立場が絶対的だったのは、それが終身雇用と個々人のアイデンティティーをきちんと守る機能として成り立っていたからにすぎません。しかし、コロナ以前から、日本では、すでに楽観視できない情勢になっていました。日本においては、コロナウイルスは、突然死をもたらす悪魔ではなく、人と社会の軋轢をギリギリのところで留めてい鎖を、いよいよ切ってしまったことに、真の怖さがあると思うのです。

それは、国民が薄々感じていたこと”いざ自分が被災者=弱者になった時、国は意外と助けてくれないものだ”という、現実を、まざまざと見せつけられた事を指します。

安心して暮らせないのであれば、無駄な消費は出来るだけせず、お金を蓄えようとするでしょう。そして、自分が弱者になった時に救われないと言うことが、連日ニュースで放送されます。恐怖を煽り、自粛を要請し、本来であれば経済をどこかの方向にミスリードすることがマスコミの戦略ですが、今回に限っては、どうやら明確なゴールは国にも広告代理店にもマスコミにもなく、単にこれまでの慣習で、小さな損得が積み重なることで、全体の利益が著しく失われる自体を招いてしまっているのです。

 現在の娯楽や外出が抑圧された様子は、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」と、酷似していますが、当時と大きく異なるのは、当時多くの国民が「この国は必ず勝つ!」そう盲目に信じられていた、あるいは、そう信じないとやってられないくらい過酷な現実と直面していた事です。しかし、現代はどうでしょう?全闘争時代のように若者が大学や政治といった「大人の社会」に対して、自分のアイデンティティーを賭けてぶつかる事もなく、ただ達観したように、諦め、冷めた目で見つめるばかりです。

それはなぜかと言えば、近代があまりに消費的かつ経済的な成功を歪に達成させたが故に、個々が勝手に金銭を様々な方法で稼ぐことが可能になり、群れで生き残る必要が、まるでなくなってしまったからです。それは、一丸となる理由のないバラバラさです。つまり、現代では、個々が孤立しているのです。

消費的社会の規範に習うと、時間をかけて現れる巨匠を待つことは不効率的です。次々とトーナメントを行い、チャンピオンを決め、そんな人々が、メディアに出ては消え、出ては消えを繰り返すようになってしまいました。

そして、一般的に、チャンピオンと聞くと、若く健康的な姿を思い浮かべると思います。そして、巨匠と聞くと、老師のような落ち着いた風貌を思い浮かべると思います。

ちょうど、明治から大正、昭和にかけて、今日の日本の基礎を作った当時の若者達の写真を見返すと、彼らの風貌が、実年齢よりはるかに老けて見えます。それは、当時”大人”というものが、個々の実力をもったスペシャリスト=巨匠的な存在だったからです。故に、老成することがステータスとして求められました。

では、現代はどうでしょう?まるで歳を取る事を否定するかのように、非常に若々しいファッションの大人が増えています。それは大人の成功の定義が”チャンピオン化”した結果、若く元気な最盛期の自分でいつまでも在りたい、そう願っているからに他なりません。

しかし、それは不自然な事です。人間だけが老いる事なく、いつまでも元気でいることが果たして幸福なことでしょうか?自然に目をやれば、皆老いて席を譲り死んでいきます。

人間も自然の一部として、その摂理を受け入れることが、真の幸福なのだと思うのです。

分かり合えないという所に立つというのは、”理解できない” ”どうすることもできない”という摂理を受け入れ、若いチャンピオンで居続けるのではなく、巨匠となって後進の育成にあたることだと思います。

実祭、消費の土台が揺らいでいる今後の社会では、大衆が歓喜するチャンピオンは登場しにくくなるでしょう。求める人々に価値観が多様化すれば、チャンピオンに求められる資質も細分化されていきます。しかし、チャンピオン個人の幸せは、それでは成り立ちません。大手メディアや広告代理店の仕掛けるセンセーショナルな演出は近年、衰退傾向にあります。それに変わり、素人が重用されるようになっていますが、彼らはいっときの消費財でしかなり得ず、時代に名を残す巨匠にはなり得ません。なぜかと言えば彼らに求めらるものが、一様に若さ元気さ成功者の顔だからです。

巨匠の場合、そのなり立ち方は、先に挙げたインディーズの成り立つ条件と合致しています。巨匠は、金銭的な幸福+繋がり的な幸福のバランスが取れています、なぜかといえば、巨匠は親方になったり師匠になったりと、人生のステージに合わせて役割を変化させることが可能だからです。

それは現在声高に叫ばれているサスティナブルや、持続可能社会、SDGsや、LGBTQを大切にしようという流れと、本質的に相違しないものです。

違いがあるとすれば、現在、多くのそれら活動が、短期間で眼に見える形での成果を求められることに対して、本来の意味で巨匠的、インディーズ的なそれらは、長期的で知覚しにくい効果として、土地の風土のように馴染んでいく点があることが挙げられます。

耳障りの良い言葉を前にした際は、常にそれが、チャンピオン的か巨匠的か、メジャー的かインディーズ的なのかについて、慎重に見極める必要があるのです。


・インディーズとして生きていく。

 現在、僕らのお店もコロナ拡大の影響を受けて、客数は例年と比べてると3割程度しかおりませんが、来店者数が少ないことで、ゆっくり器をお選びいただけ、ネット販売も合わせることで、売上の落ちは微々たる所で抑えられています。様々な考え方があるかと思いますが、きちんとした感染予防策を実施しながらの現在の営業スタイルは、元々、僕らが理想としてきた、無理をしないライフスタイル、生きていくのに心地よい速度感と、同じだと感じています。

減速はスピードが出ているほど難しいものです。これまでの速度が早かった所ほど、急ブレーキや急カーブの影響を受け、苦戦を強いられる事になるでしょう。逆に、ゆったりやってきていた所は、あるいはそんなに減速の影響を受けていないのかもしれません。小回りが聞くと言うのは、波を読むことと似ています。先は見えない時代において必要なのは、波をもろともしない大型船ではなく、波に飲まれても沈まない小型船なのかもしれません。

大衆に受け入れられることを第一に求めなければ、世間が多少右往左往してもインディーズのスタンスは、簡単には変わりません。大きな知名度がなくても、自分たちが生きていく最小限+周囲に還元するだけのお金があれば良いのだとしたら、目の前のやるべき事を、これまでと変わらず時間と手間をかけて行い続けるだけです。

これからの時代はより「繋がり」や「共感」が求められる。昨今そう言われて久しいですが、その言葉にも罠があります。

それは、繋がりや共感が、強要するものでなく、先に挙げた”華厳社会”のように、個々の違いをそのまま容認する形でなければ、結局は、強い”同調圧力”を作り出してしまい、チャンピオンのように振る舞わざるを得ない立場に押しやられてしまうからです。

真の繋がりや共感による社会があるのだとしたら、それはそのような言葉などなく、誰もそのような事を感じず、苦にも楽にもしない社会でしょう。それを実装する為に必要なのは、チャレンジャーを募って、トーナメントを行わせることではなく、未来の巨匠となり得る可能性のある、小さく堅実な存在を、暖かく見守り、育むことではないでしょうか。

僕らは、これからもこれまでも変わらず、メジャーを目指さずインディーズで長く活動し続けることを目標とし続けます。

答えのない時代において、そのような牛歩な歩みが、やがて深い価値を生むのだと僕はそう信じています。