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ーウイルスと僕らのやっていることはすごく似ているー演出・鵜山仁インタビュー

2020.12.08 13:10

こんにちは。

研修科2年、池亀瑠真です。

いつも研修科の応援、ありがとうございます。

2020年7月28日(火)〜8月2日(日)に劇団関係者のみが見守る中、研修科第一回発表会が行われました。


当初、公演映像を皆様にお届けする予定でしたが、諸事情により配信を見送る運びとなりました。

楽しみにしてくださっていた皆さまにはご迷惑をおかけ致します。

大変申し訳ございません。


今回は演出・鵜山仁さんのインタビューをお届け致します。

演出補助・生田みゆきさんにロマンチストと言われていた鵜山さん。その言葉がこれを読めばわかるかも……!?


鵜山仁ワールド全開のインタビュー内容です。最後までどうぞお楽しみ下さい。



(演出・鵜山仁)


① 今回選んだ三作品について


―まず最初に、『かへらじと 日本移動演劇連盟のために(以下、『かへらじと』)』『秋の対話』『村で一番の栗の木』、それぞれ作品の見どころを教えていただきたいです。


鵜山:『かへらじと』は岸田さんの作品の中でも特徴的な作品で、移動演劇隊のために書いた戦意高揚劇。

日本と世界、個人と国、生か死かなどの二項対立の中でどこに自分のポジションを置くかだったり、個人的な問題と国の問題がどう繋がり、繋がらないのかがポイントだと思うんです。


秋の対話』は、人間があまり出てこない芝居。自然の声や、人が年を取っていくことや、季節の変化。人間の目に見えないもの、耳に聞こえないものの囁きを掬い取って、舞台の上で目に見えるように、耳に聞こえるように表現した時、自然の囁きが果たしてどういう風に聞こえてくるのかないうところですね。


村で一番の栗の木』の村というのは、日本ということでもあるし、自分が生まれてきた土壌みたいなことでもある。

どっちにしてもそれはしがらみでいっぱいで、色んな因果関係でがんじがらめになっている世界。

自然のしがらみの中で生きていくことを全部チャラにするわけにいかない所が、近代の生きている人間にどういう影響を及ぼしてるのかなと

やっぱりここでも『秋の対話』同様見えないものが見えて、聞こえない声が聞こえることをどう表現できるのかなっていう感じです。


―ありがとうございます。



② 演出のこだわり



―次に演出する上でのこだわりや、役者に求めることを教えていただきたいです。


鵜山:演出するときは、自分が退屈しないようにということしかなくて。

役者に求めることはやっぱり、見たことがない表情を見たい、聞いたこともない声を聞きたい、それしかないんですよね。

だから、(作る上で)方向はこっちかなというのはあるけど、なにしろ珍しいものを見たい。

答えがあるとつまんないんですよね。

だから演出的にこだわるというよりかは、退屈したくないという…。


―そうなんですね。

鵜山さんはよく"神様"や"宇宙"を例え話として用いている印象があるのですが、そのきっかけは何かあるのですか?


鵜山:珍しい声が聞きたいとか、新しい表情が見たいとなったとき、やっぱり“誰からどういう影響を受けてるのかな”ということを考えていかないと。

自分の中にどういうキャパシティがあって、何がそういう風に喋らせてるのかが大きいから。

セリフの音の根拠がどこにあるかというと、半分冗談だけど、宇宙の果てにあったり、どこかのたんぱく質にあったりというか。(笑)それは自然に広がっていくものなんじゃないかなって。

例えば山や森の中に生えている木や草は一体誰に向かって表現してるんだろうと。

人間は見ていないかもしれないけど、虫や鳥たちが見ていたりするわけで。

そしてそれをサポートしようと水が流れていたり、岩が砂に変化したりね。森羅万象がしっかり表現されているんだよ。

自然が多い場所に行くと、人が全然見ていないところでこんなにも表現がされているという発見がある。

舞台の上だけではなく、生きとし生けるものは何のために表現してるんだろうとか、無生物はどうなんだろうとか、色々なものを繋げて考えてみたくなるじゃない。

そう考えたら死ぬことが怖くなくなるみたいな……。そんなことはないですか?(笑)

 

ー……かなり奥が深いですね(笑)

 

鵜山:この声や表情は何処から来るのだろうと考えた時に、一旦果てまで行ってみないと面白くないよね。自分の中に別の何かが入ってくることは大切だし、やっぱり芝居は相手との関係性の中で、誰かから貰う声が大事だったりするんですよ。特にアンサンブルを作っている時には。

僕も20代の時は全然そんなことを考えたことがなくて、「全部自分が…!」と思っていたけれど、人から貰ったり、人との関係で生きているセリフをやり取りしないと、新しい表情や発見がないと段々分かってきたんですよね。

自分の中だけで中途半端にほじくり回していても、たいしたものは出てこない。ほじくり回すなら、遺伝子レベルとか分子レベルまでいかないとという感じがある。

自分ひとりではなかなか発見が出来ないからこそ、相手役が大きなレンズになって自分自身が変わる、それで少しずつでも変化していく。それがないと生命力に繋がらない気がするんだよね。

ずっと同じ状態でいるのは、やっぱり死んでるってことじゃないかなと。

だから、変わっていくということはとても大事だよね。


音が変わることも大事で、変えてくれるのは自分のパワーだったりもするけど、自分に影響を及ぼす何か外的なものが関わっていたりもする。

自分ではないものがなければ発見もないし、変化もないからね。

 

ーなるほど、ありがとうございます。

次に、コロナ禍で上演することの意義や、いま演劇を通して伝えたいことを教えていただきたいです。

 

鵜山:そもそも、ウイルスのやってることと僕らのやってることはすごく似ていると思うんですよね。宿主を殺さないように感染して、体質を変えることをやっていかないと、どうやら生命は駄目になってしまうらしい。

だからそういう意味では(お芝居に)感染して、感染することによって自分自身も変わりたいなと。

要するに、接触したりコミュニケーションを交わすことによって、お互いが変異していくよね。多様性がないと種は滅びてしまうから。


ただやはり今回のコロナの影響は大きくて。始まったものは必ず終わるから、人間は必ず死ぬことをみんな知っているはずなのに、演劇にしても、日本にしても世界にしても、有限だということをついつい忘れてしまう。

自分の人生の範囲で物事を考えると、どうも話が上手くいかなくて、なぜ芝居をやっているのかわからなくなってしまったりね。

そんな時、参考になるのがシェイクスピア。

人の長いスパンを役は生きていて、舞台の上で死んでも翌日また芝居をするよね。

それは演劇が人生のスパンを超えたポジションに立って、そこから物を見ることをやりたいからあるのではないかなと

それが今回よくわかった。

だって実際、ハムレットという遺伝子は少なくとも400年生きているわけだから。


―確かに。そうですね。


鵜山:興行としての演劇は、1、2年は成り立たないかもしれないし、考えたくないけれど演劇自体がなくなることも想定に入れてやっていかなければいけない。

だからこそ、どういうやり方が出来るかを今考える必要がある

岸田さんの作品は、“ごっこ”がすごい大事だと思っていて、例えば『かへらじと』でいう「俺がお前だったらどうするか。」を真剣にやる必要があったり。

でも、そういうことを真面目にやっていく内に新たな気づきがあったり、世界の見通しが良くなったりするから今も(演劇を)やっているのかなと思います。

繰り返しになっちゃうけど、20代の頃は全然そんなこと考えたことなかった。

相手役のセリフを聞けと言われても、「へっ」と思っていたり(笑)

 

―笑

 

鵜山:今でもそういう気持ちはちょっとあるけれど、商売柄相手のセリフを聞けと言っていると、なんとなくうまくいくような気もしていて。でも「相手に影響されて芝居するっというのはこういうことか」というのが少しずつ分かってきた頃に、セリフが覚えられなくなったりもするんだよね。

むしろそっちの方が本質じゃないかと逆にまた思い始めてしまったり。

まあ、そんな感じで色々迷いながらもどんどん変化を及ぼして、相手から貰って自分も変わる・・・。そういうのを繰り返して、芝居の登場人物やフィクションの力を借りて、色んな世界を旅することは大切なんじゃないかな。


ーありがとうございます。

先程、「岸田さんの作品は"ごっこ"が大事だと思う」とおっしゃっていましたが、鵜山さんが思う岸田戯曲の魅力を教えて下さい。

 

鵜山:そうですね、この作品は成り代わりが多いと思うのですよ。そもそも岸田さんという人は、世界がくつろぎ自分もくつろぐことが演劇の効用だということがよく分かっていた人なんじゃないかと思います。

他の立場に感情移入をする時に、「私があなただったらこうするわ」じゃなくて、「私があなただったらね」と言っているうちに目の色が変わって、私があなたになっちゃうっていうところが魅力ですね。





③研究所



ー研究所開設60周年という節目ですが、鵜山さんから見て研究所はどんな場所ですか。


鵜山:コミュニケーションを取る時に同期がいるというのはすごく大きいんだよね。

同期を通じて考えるとか、同期と一緒になにかをやるとか、プラスもマイナスを含めて、そういう経験があったから芝居を続けてこられた。だから研究所に感謝してる。

みんな色々バラつきがあって、且つ、かなり求心力が高くて。


60周年ということで実感するのは、16歳のときは60歳ってすごい老成した年齢だなと思っていたんだけど、いざ60歳になってみると、何にも変わっていないなと。実感としてそうだし、だけど60歳になるまで分からなかったことも確かなのね。


ーええ……本当ですか?(疑いの目)


鵜山:絶対そうなるから、みんな(笑)

今も、どうなるんだろうと不安な状態でいるけれど、それでもこういうときにしか経験できない表現があると思うので。

だから、楽しんでやればいいんじゃないかと思いますけどね。こんな経験めったにできないから。……そう言うしかないよね(笑)


ーそうですね……。


鵜山:この際ちょっと逸脱するけど、芝居のダメ出しで『セリフが聞こえない』というのがよくあるじゃない。


ーありますね。


鵜山:セリフが聞こえないのは声が大きい小さいとか、滑舌が悪いとか、内容を理解していないとか、相手とやりとりをしてないとか色々あるんだけど、すごく問題なのはお客さんに一度嫌われるとセリフを聞いてもらえなくなってしまうこと

セリフを聞いてもらうためにはお客さんに好かれないといけない。

滑舌がいくら良くても、劇場条件がいくら良くても嫌われると結局はどうにもならない。


じゃあお客さんに嫌われないためにどうすればいいのかというと、有名になるとか、身内に見てもらうとか、色々答えはある。でも僕はやっぱり相手役とやりとりをすることだと思っていて、キャッチボールのネットワークをちゃんと取る、耳を大きくする……。

要するに相手役と共有できている部分はお客さんも共有してくれるから。

逆にいえば、独りよがりでやっている芝居はすぐ見放されちゃう。

キャッチボールを色々な形で積み重ねていくことが、客席を巻き込んで共有できる一番の近道なんじゃないかなって思うんですよね。

無理くりでもリアクションをすればいいというわけではなくて、ちゃんとキャッチボール、リアクションによってフィクションを成立させるということが約束で。


フィクションは、学校、会社でもあるし、ひょっとしたらご家庭にあるかもしれないし、親子や先輩後輩だったりそれぞれが約束事の中でやってるという、奇妙な意識が芝居に限らずあるんだけど、芝居の場合は特にそれが露骨。

どこか信じられないところがあって、「なんで大人はこんな気持ち悪いことをやるんだろう?」というのが僕の場合は根っこにあったから違和感がすごく好きなんですよね。

違和感は関係性で解消できないというか。いくらデンマークの王子ハムレットだって言ってもそれは違うとか、どこかで無理があるというノイズが入っている時に別の実感を感じたりする。

だから、こういう風に理解しなさい、思いなさいと整理された芝居はやっぱり飽きてしまう。

ライブには絶対ノイズが入ってくるものだから、それも含め、楽しんでやって欲しいと思います。


ーなるほど。

ライブだからこそ拾える“音”を大切にこれからも頑張ります!
本日はありがとうございました!





インタビュー:研修科メディア係

テープ起こし:森寧々・柏亜由実・山岡隆之介

記事構成:池亀瑠真・甲斐巴菜子

写真:池亀瑠真


※このインタビューは2020年7月7日に行いました。


※この記事はインタビューを元に再編成したものです。


演出補助・生田みゆきさんのインタビューはこちら↓

『村で一番の栗の木』『秋の対話』『かへらじと 日本移動演劇連盟のために』舞台写真はこちら↓



■研修科卒業発表会■

『萩家の三姉妹』

作:永井 愛 演出:松本祐子

日程:2021年1月21日(木)~24日(日) 予定

場所:文学座アトリエ



◆発表会における新型コロナウイルス感染予防対策について◆

発表会実施にあたり、政府や東京都の方針を踏まえた新型コロナウイルス感染予防、拡大防止への対応策として、客席数を大幅に制限することとなりました。

また研究所の発表会やカリキュラムにおいて研究生の安全と実習機会の確保を考慮した結果、事態の収束が見込まれるまでは発表会の一般予約を受け付けず、関係者のみの対応とさせていただきます。何卒ご了承ください。再び皆様にご来場いただける日まで、感染予防対策を続けてまいります。 今後の状況次第では変更、中止を余儀なくされる可能性もございます。

研究所発表会を楽しみにされていた皆様には改めてお詫び申し上げます。


文学座HPより