偶然の旅行者
http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/hirakawa2/vol12.html 【偶然の旅行者】 より
山手線五反田駅付近での偶然
この話は、以前にもどこかに書いたことがある。
わたしにとって、それはあまりに不思議な出来事だったので、今でも時折思い出す。
そして、そのたびに「偶然の旅行者」という言葉が浮かんでくるのである。
その時、わたしは秋葉原にあるオフィスで、IT関係の仕事をしている会社の代表をしていた。以前は、翻訳会社をしていたのだが、いくつかの偶然が重なって、アメリカに会社を作ったり、IT関連の会社を起業したりした。簡単に言えば、秋葉原時代は、わたしにとって一番腰が落ち着かない時期だった。
会社のあったフロアは二階で、一階は喫茶店だった。実のところ、そのビルの管理もわたしたちの仕事で、一階の喫茶店はわたしが企画したもので、大手のコーヒーチェーン店との共同企画として作ったものだった。
このビル自体は、もともとは印刷会社だったが、廃業にあたって千代田区に寄贈されたものだった。当初、ワンフロアだけは、区の関連する事務所として使われていたが、その他の五つあるフロアは遊休状態だった。区は、この遊休施設の有効活用のアイデアコンテストを行い、わたしたちのアイデアが採用されて、丸ごとビルの管理も任されることになった。
わたしは、仕事終わりにはいつも一階の喫茶店にしけこんで、会社の仕事とは別にもうひとつ加わった仕事である本の執筆をした。少し前に、わたしは一冊の本を上梓していた。タイトルは『反戦略ビジネスのすすめ』というもので、ある出版社から依頼されたものであった。わたしは、自分の一生のうちで、一冊だけは本を出しておきたいと思っていた。その願いが叶えば、続けて作家活動をするというつもりはなかった。何しろ、わたしにはやらなければならない本業があった。
同書には、自分でも思ってもみなかった反響があって、出版社の担当者も喜んでくれた。その影響もあって、数社から執筆のオファーが舞い込んできていたのである。以来、現在に至るまで十数年間は、物書きとしての仕事がメインになってしまった。
その日も、いつものように、一階の喫茶店で書き物をし、夕食を済ませてから帰宅することになった。
いつものように、混雑する秋葉原駅から山手線に乗って五反田に出る。五反田で東急池上線に乗り換えて、実家のある久ヶ原駅へ向かう。
山手線は、さほど混雑しておらず、座席に座ってわたしは本を読んでいた。どんな本を読んでいたかは忘れてしまったが、おそらくは当時書いていた株式会社関連の研究書だったのではないかと思う。どうしてかというと、あまり本には熱中できず、それでも仕事の延長だということで字ズラだけ追っている状態だったのを覚えているからである。研究書の類は、わたしのようなものには、概して退屈極まりないものが多いのだ。
それもあって、わたしの座席の前のつり革にぶら下がって、男が一人本を読んでいることにも気が付いていた。こんなとき、顔を上げて目が合ってしまうというのも何か気まずい感じがして、わたしはひたすら自分の本の上に視線を落とし続けていた。
電車は、目黒を通過して次の五反田駅までもう少しで到着するタイミングだった。下車の用意をしようと本を鞄にしまい、目を上げるとそこに、見知った男が立っていた。
以前、アメリカで会社を経営していたことがあって、そのときに世話になった吉田くんだった。吉田くんは、かつてわたしの会社で通訳をしたり、翻訳の手伝いをしてくれたことがあった。まだ、学生っぽさが残ってはいるが、なかなかの苦労人で、父親とそりが合わずに家出をしてからアメリカに渡り、西海岸でヒスパニックの家庭に居候してアルバイトをしたり、東海岸に渡って有名なレストランでボーイをしたりしていた。「僕、アメリカ人になりたかったんです」と後に、吉田くんは語ってくれた。
こうした経緯で、かれは大学には進学せず、独学と実践で英語を覚えた。
その英語を活かした仕事をしたいということで、帰国後に、わたしが経営していた翻訳会社に入ってきたのであった。そして、わたしがカリフォルニアに会社を作った時、すでにわたしの会社を辞めていた吉田くんが助っ人としてやってきてくれたのだった。
アメリカで吉田くんと別れて以来、10年近い月日が流れていて、わたしが吉田くんを思い出すことはほとんどなかったし、かれがカリフォルニアで別れて以後、どこにいて、何をしているのかも知らなかった。わたしたちは、別々の道を歩んでいたということである。
それが、この山手線での偶然の再会に対する、最初の驚きであった。
一体、世界のどこにいるのかも知らない旧知と、同じ時刻、同じ列車の、座席の目の前でばったりと再会するなんていう偶然が起きる確率はどのくらいあるのだろう。
驚きはそれだけではなかった。
「社長、ごめんなさい」
「おお、なんでだよ。こんなところで会えるなんて」
「日本に戻っていたのに、連絡できなくて」
こう言って、かれは読みさしの本のカバーをとって、表紙を見せてくれた。
そこには『反戦略的ビジネスのすすめ』と書かれていた。それはわたしが最初に出版した本だった。
一体、この偶然をどのように説明したら良いのだろう。
同じ時刻、同じ列車、同じ座席、同じ本という偶然が重なるなどということがあるのだろうか。
作り話をしているのではないかと疑われるかもしれない。しかし、これはわたしの身に起きた紛れもない事実だった。あるいは、吉田くんの方からは、わたしの行動が見えていて、山手線の中で、わたしを見つけて一芝居打ったと疑うこともできるが、そうではないようだった。だいたい、かれにそんな芝居を打たせる理由もない。
後日、わたしは、このときと同じような経験をもう一度することになるのだが、それをここに書く必要もないだろう。
誰にでも、一生のうちで、何度か似たような経験があるに違いない。ただ、それを単なる偶然と思うか、その偶然にはわたしたちには見えない必然が隠れていると思うかは、人によって違うということだけである。
懇意にさせていただいた偉大なミュージシャン大瀧詠一さんは、それを「ご縁」と言っていた。そして、「ご縁」にはわたしたちには見えない必然が隠されているのだと信じていたようである。「ご縁」は、わたしたちには見えないだけでなく、わたしたちがそれをコントロールすることもできない。
だから、例えばのっぴきならない理由でコンサートに来れなくなった大瀧ファンが、そのときの音源やビデオを見ることはできないかと要求しても、「ご縁」がなかったと諦めてくださいと言って「ご縁」の再現を断っていた。
「その時、そこにいたということが大事なんだよ」と大瀧さんは言った。
わたしもこの先哲の教えを踏襲している。現在大学で教鞭をとっているのだが、例えば試験のある日に、インフルエンザで休んだり、あるいは交通事情や他ののっぴきならない理由によって試験を受けることができないので、追試をしてくれとお願いされることがある。
冷たいようだが、わたしは追試には応じない。そのとき、その場に居なかったということは、「ご縁」がなかったということなので、諦めてください。そして、たとえ追試が受けられなかったとしても、それで人生が変わるわけでもないと思っていただきたいと付け加える。もちろん、多少の変化はあるかもしれない。しかし、それもまた「ご縁」のなせるわざである。わたしたちは、全てを見通せているわけでもないし、何か筋書きがあってこの世の中で巡り合わせることになったわけでもないのだ。
わたしたちの生きている毎日は、いわば「偶然の旅行者」が遭遇する毎日と同じなのだ。
神奈川県川崎市のショッピングモールでの偶然
「きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目に止まることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、一つのメッセージとして浮かび上がってくるんです。」
(村上春樹『東京奇譚集』所収『偶然の旅人』より)
村上春樹は、その名も『偶然の旅人』という短編を書いている。この小説は、村上作品としては珍しいことに、僕=村上春樹が語り手として実名で登場する。
『東京奇譚集』(新潮社)という短編集の最初に収められているこの小説は、実際にこの作家の身の回りで起きた不思議な偶然の一致がテーマになっている。
それは、こんな風に始まる。ある日、ピアノの調律師である知人が、行きつけの喫茶店で本を読んでいると、隣で本を読んでいた女性に声をかけられる。「あの、今お読みになっておられるご本なんですが、それはひょっとしてディッケンズじゃありませんか?」「そうですよ」、彼は本を手にとって彼女の方に向けた。
そのとき、彼女が読んでいた本もディッケンズの同じ本『荒涼館』だった。
これを村上春樹はこう記している。
「平日の朝、閑散としたショッピング・モールの、閑散としたカフェの隣あった席で、二人の人間が全く同じ本を読んでいる。それも世間に広く流布しているベストセラー小説ではなく、チャールズ・ディッケンズの、あまり一般的とは言えない作品なのだ。」
そして、この話は思わぬ展開を見せる。彼と彼女は親しくなり、彼女は彼を求めるようになるが、彼はゲイであり彼女とのセックスを受け付けることができない。彼は告白してそのことを詫びると、彼女も彼に告白させたことを詫び、彼女の行動は、最近乳がんが見つかって、近々に再検査をすることになっていることも要因の一つであったことを告げる。
話は、それで終わらない。彼は、自分がゲイであることを告白して以来10年も疎遠になっていた姉に電話をする。喫茶店で出会った女性の耳にあったほくろが、同じ箇所にほくろのあった姉を思い出させてくれたからである。久々に出会った姉とお互いの近況を話しているとき、姉が突然、自分が乳がんの切除手術をしなくてはならないことを告げるのである。
偶然は、一つだけなら、ただの偶然で済まされてしまう出来事かもしれない。しかし、偶然が二つ重なれば、人は誰も、それが何かのメッセージなのではないかと、思わざるを得ないだろう。
この話が、作者の作り話であったかどうかはここでは問題ではない。当然、幾分かの脚色はあるだろうが、実際にこういったことがあったのだろうとわたしは思う。こういったことは、実際に誰にでも起こりうることだからである。事実、わたしにも同じような出来事が、何度か起きていた。だから余計に、この話には惹かれるものがあったのだ。
考えてみれば、偶然が重なることの不思議さをことさらにクローズアップして考えることもないのかもしれない。わたしたちが、いま、ここに存在していることも、わたしに妻がいて、娘がいて、友人がいることも、すべては偶然が重なって起きたことに違いない。
もし、わたしの母が、父と出会っていなかったら。もし、妻になる女性が同じアルバイト先にいなかったら。もし、友人がわたしと同じ年に生まれていなかったら。この「もし」は永遠に繰り返すことができる。
しかし、それらすべての「もし」には、わたしたちには見えない必然が潜んでいないとは誰にも断言することはできないだろう。
わたしたちがいま、ここに存在していることこそが、奇跡のような偶然の結果に過ぎないのだとしても、その奇跡がありふれた日常を支配していることもまた事実なのだ。そして、その奇跡を生み出したものの正体を「愛」とか、「恐怖」とか、あるいは「意識」とわたしたちは名付けてきたのではないだろうか。
上の小説の中で、村上春樹は示唆深い言葉を書きつけている。
それは、どうしたらよいのかわからなくなったときのルールとして、調律師によって語られた言葉である。
「かたちのあるものと、かたちのないもの、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ」
鳥羽、垂直の旅
詩人はいつでも、かたちのないものに目を凝らしているのだろうか。かたちのあるものを凝視しているときも、そのかたちの背後に流れているかたちのないものを感じているのだろうか。なぜなら、いつでも詩人というものは、かたちのないものにかたちを与えるために言葉を紡ごうとするものだからだ。
鳥羽1
何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ
本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない
私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い
この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!
(谷川俊太郎 詩集『旅』(1995.11)より「鳥羽I」)
旅の途中、谷川俊太郎は鳥羽の海岸に座り、静寂の中で白昼の光を浴びている。
そのとき、かれは谷川俊太郎という詩人ではなく、偶然にいま・ここに降り立って海を眺めている一人の偶然の旅行者に過ぎない。
ただ、彼の旅はどこかで、地図上を水平に移動する旅ではなく、時間の中を垂直に移動するものに変わったようでもある。
そして「私は造られそしてここに放置されている」と感じている。
「私」を造ったものを「私」は見ることができない。
ただ、「私」を造ったものが造った「私」以外のものを見ることはできるかもしれない。
こちらからは見えるけれど、あちらからは見えない。あちらからは見えるけれどこちらからは見えない。
わたしたちが住んでいるのはそういう非対称的な世界である。
そして、それを見るためには、「私」は「私」であることを忘れなければならない。
この詩人は、そう告白しているように思える。
見えないものとの対話
このエッセイシリーズを開始したとき、わたしの頭の中に薄ぼんやりとではあったが、かたちのないもの、よくわからないこと、見えないものに向けて語りかけている人について書いてみたいという思いがあった。
だからタイトルを「見えないものとの対話」としたわけだが、実際のところ、それは対話にはならない。呼びかけてはいるけれど、そこには明確な応答はないからである。
例えば、わたしの書斎のデスクの脇には、死んだ父母の写真が架かっている。二人で並んでいるけれども、別々の日に、撮ったものを並べて配置してあるだけである。友人の画家に頼んで、この額を作ってもらったのは、なんとなく父母に話しかけたくなることがあるだろうと感じていたからである。
ときおり、「こんなとき、どうするよ、おやじ」と呼びかけることがある。答えが戻ってこないのは誰だってわかっているけれど、誰にもこんな呼びかけを死者にすることはあるだろう。
わたしは、偶然に父親と母親の長男として、南東京の場末に生まれ、三十年近く一緒に暮らし、結婚して家を出て、また介護のために実家に戻った。生きて父母に接していた時間は六十五年という短い時間だ。もちろん、それが長いか短いかは人それぞれだが、ある年齢をまたぎ越した段階で、わたしには六十五年はとても短く思えるようになった。
昭和二十五年以前に父母は出会い結婚し、蒲田から池上線の千鳥町駅と久が原駅の中間にある家を間借りして工場を始めた。その昭和二十五年以前は、わたしがこの世界に存在していなかった。当たり前といえば、当たり前の話である。
自分の死後のことをときおり考えることがある。これまではそれをうまく言葉にすることができなかったが、今ならかなり明確にそれを答えることができる。つまり、わたしがいなかった時代と同じように世界が続いていくということである。
わたしがまだ存在していなかった戦前昭和の写真を見ていると、そこに人々が普段通り生活しており、喜怒哀楽があったことに、不思議さとともに妙な安堵感を覚えることがある。
あまりに当たり前過ぎて、あらためて考えることなどしないのだが、かれらはわたしに無関心であるということだ。昭和二十五年の夏に、一人の赤ん坊が生まれるかもしれないことなど、誰も考えてもいない。これだけは、どんな偉業を成し遂げた人間であっても等しい当たり前の出来事である。
先のことは何もわからず、見えてもいないけれど、過去にも、これから先にも、同じような出来事が繰り返されることだけはわかっている。もちろん、地球が滅亡すれば話は別だが、そんなことは滅多におこることではない。
今、わたしは父母がいない時代を生きている。それでも、わたしの中に父母はありありと存在しており、今でもときおり写真に向かって話しかけている。父母の方からは、わたしは見えないだろう。しかし、わたしの方からは父母の姿は見えているのである。そして、これもまた当たり前のことなのだ。
だが、わたしたちの世界に、こうしたことが連綿として続いていることには、やはり何か一筋縄ではいかないものがあるような気持ちがしてくる。そして、なんでも良いから大声で叫びたい気持ちになる。
シリーズの終わりに、よく意味がわからないけれど、一筋縄ではいかないわたしたちの生きている世界に触れている恋唄を、ひとつ紹介して筆をおきたいと思う。
子守唄のための太鼓
二十世紀なかごろの とある日曜日の午前
愛されるということは 人生最大の驚愕である
かれは走る
かれは走る
そして皮膚の裏側のような海面の上に かれは
かれの死後に流れるであろう音楽をきく
人類の歴史が 二千年とは
あまりに 短かすぎる
あの影は なんという哺乳動物の奇蹟か?
あの 最後に部屋を出る
そのあとで 地球が火事になる
なにげなく 空気の乳首を噛み切る
動きだした 木乃伊のような恐怖は?
かれははねあがる
かれははねあがる
そして匿された変電所のような雲のなかに かれは
まどろむ幼児の指をまさぐる
ああ この平和はどこからくるか?
誰からどのように愛されているか
大声でどなった
(清岡卓行 詩集〈氷った焔〉から 「子守唄のための太鼓」全文)