戦争に関する“日本の過去と未来”の縮図となった遺族会見|令和二年『全国戦没者追悼式』
【社会報道】 皇紀二六八〇(令和二)年に日本国政府(総理:安倍晋三)は皇居外苑「日本武道館」にて『全国戦没者追悼式』を挙行した。式典の前には、追悼の辞を述べた遺族代表で昭和十三年生まれの八十二歳・杉山英夫(戊寅)、最年長者で二年生まれの九十三歳・長屋昭次(丁卯)と最年少者で十二歳・井田雪花の三名が遺族代表として会見に臨んだ。
最年少者は今回の式典に「曽祖父が平和な世界を望んでいると感じたので、参加しようと思いました。」と発言。母は、幼少期より曾祖父の話を聞かせていた。母も戦争を経験していない世代。実際の写真に見える精巧に描かれた絵を見せながら、母は「これはママのお爺ちゃんの写真に見える絵が描かれているんだよ。戦争で亡くなったけれども、お爺ちゃんは警察官だったんだって。」と幼い頃から娘に戦争の教育を行ってきた。
実際に、最年少者が戦争を実感し始めたのは小学一、二年生の頃から。「戦争を私は知らない世代です。争いの無い平和な世界の願いを次の世代に引き継いで行けるように努めたい。」と前置き。「一度、小学六年生の時に戦争について、学校で勉強しました。まだ戦争で学びきれていない所があると思ったので、もっと戦争について勉強したいと思います。」と八月十五日を切っ掛けに、戦争の学びを深める意志を、十二歳は示した。
遺族代表は「会場も五千人、六千人遺族の方が入っている気持ちでもって真心こめて、追悼の言葉を述べたい。」と参列が叶わなかった五千人以上の遺族達を代表する旨を伝えた。
最年長者は「最年長ということで。この後ここに来る事は無いと思いますので、最後の思い出にしっかりと慰霊したい。」と前置き、当時は体が弱かった兄が亡くなった知らせを聞き、「大変失望しました。生活は非常に苦しかった。」と振り返った。亡くなった兄に対し、「恨めしいというより可哀そうだ、という気持ちの方が多かったです。私達、兄弟は兄の分も頑張って生きなきゃ行けないと結束して生活を闘ってきた。」と語った。
小学生から兵に志願したかった。十六歳で東京・立川の陸軍・航空学校に入学。当時、北海道から東京まで一人で移動した。「今考えれば無謀ですけどね。家族を連れて行けなかった。終戦後、社会人として働きました。二年半の軍隊生活は良い面、悪い面あるが決して私の生活の上では無駄ではなかった。」と語った。
今回の遺族会見を通して、祖父母や両親から子に対し、過去に日本国を守るべくして闘った当時の若手・若者の勇姿を語り継ぐ事が非常に重要である、とハイムは感じた。戦後、核家族化が進む中で、戦争の話を親族から聞く機会が大幅に減った。
『戦争をしてはいけない。』
人命が関わる為、この戦後世代の主張を若手・若者は理解している。だが「何故、戦争がいけないのか」「実際に私達の先祖・先達はどうだったのか」を上の世代が語ってくれなければ、若手・若者が知る機会は、自ら学ぶ以外に無いだろう。特に、自身の家について親族が語らなければ、情報が途切れ、先祖の功績が未来永劫、消えて無くなる。
自身の生命の元を辿れる内に、辿る事をお勧めする。
撮影記事:岡本早百合