東京のプリンスたち | 01 栁 俊太郎
「俺が死んだら、葬式でエルヴィスを流してほしい」
1959年、東京。安保闘争のさなか、当時の10代の若者はエルヴィス・プレスリーに熱狂していた。ポマードをつけリーゼントを真似て気取り、お酒を飲み語らい、各々の未来を憂いたり、複雑な時代を無軌道に刹那のなかに生きようとしていた。そんな時代に生きる高校生たちの姿を深沢七郎が鮮やかに描写した短編小説が『東京のプリンスたち』だ。
2016年、東京。
今の若者にとって当時のエルヴィス・プレスリーに取って変わるような圧倒的な時代のヒーローは不在だ。
それぞれの場所で新しいシーンが形成されるが盛り上がりが一段落したころ、また次の小さな渦が巻き起こり、その芽が育ちきることなく、人々の関心は次の物事へと移動していく。そしてそれぞれのシーンは大きく広がることなく消費されていく。僕らもどこかでそんな現状をうんざりし始めている。
けれど悲観的な話ばかりではない。ヒップホップシーンからはKANDYTOWN、ビートメイカーのSeihoやAlbino Soundらの活躍や、バンドシーンからSuchmosやD.A.N.の台頭など確実に新しい“何か”が始まりそうな予感がしている。
東京のシーンのど真ん中に躍り出ようとしている若者たちがたくさんいて、それぞれのやるべきことを理解している。SILLYでこれまで取り上げてきたようなお店も人も、各々の立ち位置で淡々となすべきことを行なっている。これが2016年の東京のカルチャーのラフドラフトといったら乱暴だろうか。
そんな時代だからこそこれからの東京を切り開く“本物”になりうる若者たちの葛藤や、これからにかける思いが入り混じざった言葉と表情を切り取ってみたいと思った。
2016年の『東京のプリンスたち』。その第一弾として選んだのは俳優の栁 俊太郎。
主演を務めた映像作家・石田悠介のショートフィルム作品『HOLY DISASTER』で彼が『もっと自由になれよ』と耳元で囁かれるシーンがある。スクリーンのなかでタバコを手に加え、苛立ちと愁いを帯びた表情で虚空を見つめていた彼は何を思い日々を過ごしているのか。
なお、撮影は写真家の小林光大が指定した東京のはずれにある工事現場付近で行い、インタビューは往復のミニバンのなかで行った。
栁 俊太郎/1991年5月16日宮城県出身。雑誌集英社「メンズノンノ」2010年より専属モデル に。2012年に奥田庸介監督映画「東京プレイボーイクラブ」にてスクリーンデビュー。現在4DX短編映画「雨女」(清水崇 監督)が公開中。
「役者の世界は地獄だよ」
メンズノンノのモデルとしてキャリアをスタートさせた栁 俊太郎。俳優として今の事務所に所属するきっかけは誌面上で浅野忠信氏にスタイリングしてもらったことからだ。
「もともと浅野さんにすごく憧れがあって、メンズノンノの撮影で浅野さんがスタイリングしてくれる企画を実現してくれたんです。そこで『役者をやりたいと思っているので、浅野さんの事務所に入れてください』って伝えたら、さらっと『いいよ、社長に伝えておくよ』と言ってくださって。それがきっかけで今の事務所に入ることができたんです。
でも同時に『役者の世界は本当に地獄だよ。よっぽど覚悟をしないといけない』と言われたんですけど、『それでもやります』と伝えました」
そのとき、19歳。憧れの世界に入るきっかけを与えられた栁 俊太郎は、右も左も分からないまま、俳優としてのキャリアをスタートさせていくことになる。
映画みたいな生活
「僕の事務所は私生活も全部それぞれの裁量権があるタイプの事務所で。自分で意識して影でも自分自身を磨いていく努力をしないといけないんです。
事務所に入りたてのころ、事務所の人から『映画みたいな生活を送らないといけない』といわれて、僕は少し勘違いをしてしまうんです。
僕はリチャード・リンクレイター監督の『バッド・チューニング』という映画が大好きで。
それもあってか『映画みたいな生活を送らないといけない』というのを『常に自分の部屋がカメラに撮られていても大丈夫なように、面白い絵が撮れるようにしておかないといけない』みたいに解釈をしてしまって。
自分の部屋をいつだれがきてもOKなコミュニティールームみたいな感じにしたんです。友達がその友達を連れてきて、ミュージシャンの仲間もたくさん出入りするようになって。朝起きて隣にだれがいるかもわからないような生活でしたね。
しかも、たまたま防音壁の部屋だったのでドラムとギターベース、キーボードそしてアンプも全部買ったりして、スタジオみたいにしたんです。そこでセッションが始まるみたいな感じもあって、面白かったです」
そうした暮らしで家に出入りしていた仲間に、KANDYTOWNのメンバーの姿もあったという。
「ミュージシャンって俳優と違って、その人自身がもろに作品に出るじゃないですか。僕は現場に行って、芝居して違う人物になりきるけど、彼らは自分自身を作品に投影させていく。ある意味では、彼らの私生活そのものが、芝居をしている風に見えなくもないときがありました」
参考:「かっこよければいい。ただそれだけ」KANDYTOWN | 02
彼の目にはミュージシャンの生き様が映画の登場人物そのものに見えたりしたのかもしれない。そうした放蕩な暮らしを3年ばかり続けたある日、心に変化が訪れる。
「当時、刺激を受けたのが、役者の仲間じゃなくてそういうやつらだったんです。そんな風に自由に過ごした時期が3年続いたんですけど、次第にいろんな現場で、役者の人と話を聞いたり演技をする機会が増えていくなかで、ふと突然『もう少しひとりぼっちで過ごす時間が必要だな』って思うようになったんですよ。それでそいつらとバイバイしたんです」
自分自身と役柄との距離
さまざまな現場で役者としての自分自身を模索するなかで、自分の立ち位置ややるべきことを見つめ直そうと思ったのだろう。
「今の僕の世代にものすごく“上手い”演技をする人もいるし、そういう人たちのことはすごくリスペクトしています。けど今の僕はすごいテクニックがあるというわけでもない。そのなかでこの世界で勝負をしていくのであれば、もっと自分の内側からにじみ出るものとか、別の場所で築いてきた“らしさ”を出さないといけないなって思ったんですよね。きっとそこを評価してくれる人がいるんじゃないだろうかと」
まさに先に挙げた映画『HOLY DISASTER』で、栁 俊太郎扮する主人公の役柄が栁 俊太郎自身とだぶって見えた瞬間がいくつもあった。彼の表情や背中や佇まいから、今の東京に生きる男の子のささくれだった心情や寂しさが象徴的に垣間見えたのだ。……と熱く語り始めると、笑ってくれた。
「あれは面白い現場でした。おっしゃる通り、自分自身に置き換えたときに共感できる部分が多かったですね。それまでは殺人者の役などが多いこともあって、自分との距離感が遠かった。それでもなんとかその役柄に共感できる部分を見つけていくみたいな作業をしてくんですけど。この役柄は身近に思えて、捉えやすかったですね。まぁ、自分自身とその役柄が近いからいいとか遠いから悪いとかいう話でもないですけど。
しかも共演した大柴裕介さんは、僕が本当に駆け出しの頃、メンズノンノの撮影で一緒になって。すげぇかわいがってくれてたんですよ。その頃はまさか一緒に芝居する日が来るとは思っていなかったので、感慨深かったですね」
モヤモヤを抱えること自体が演技にいきる
奇しくもこの取材日は彼の24歳の最後の1日だった。撮影最後のカットが終わるころ、24歳がもうすぐ終わるということを教えてくれた。「24歳って2PACが死んだ年齢だから、それより長く生きているのが不思議だなぁ」と笑う彼にどんな1年だったかを聞いてみる。
「厄年だったんですけど、特に悪いこともなかったですね。24歳は日本文化に興味を持ったので、ひとりでいろいろと研究できた1年でした。体験で茶道に華道、滝修行。あとは陶芸と飴作り、和紙作り、座禅もやりました。日本文化ってすごくスピリチュアルな要素があって、面白かったですね。
というのもそれまで生活を映画みたいに作り込んでいたし、常に人と一緒にいたから、本当に自分が考えていることがよくわからなくなったんです。でもそういう体験を通じて、自分の深いところに降りて向き合う方法みたいなものを少しだけ理解できた気がしますね。果たして、これが正解なのかはまだわからないんですけども。
でもどんなに自分と遠いと思える役柄でも、深い部分では自分自身とのつながりがあるって気づけましたね。芝居するうえでそういう風に深いところに潜るのは時々怖くもあるんですけど。
きっと浅野さんが『役者の世界は地獄だよ』って言っていたのは、人間の深いところに潜って考えないといけない仕事だからじゃないかって思うんです。それが僕の解釈で本当に浅野さんの考えているところまで近づけているはわからないんですけど」
芝居をする上で、普段の生活や自分自身で培ったものが演技に生かされると話すが、今どのようなことに心がけて日々を送っているのだろうか。
「それがぜんぜん分からないんですよね。生活のなかで何をやれば良いのか分からない。というかモヤモヤとした気持ちを常に抱えていて。でもそういう風に模索して『わかんねぇ』って感じが良いんじゃないのかなって思いますけどね。その感覚がきっと大事で、自分自身の深いところに潜ってみて、小さな違和感に気付いていられるようであれば良いんじゃないかなって思うんですよね」
時代を動かす若者に影響を与える存在でありたい
決して饒舌なタイプには思えなかったが、意外にも自分の考えをできるだけ誠実に自分の言葉にしようと向き合ってくれた。それは仕事にかける強い思いがあるからだろう。
「ただ僕はこうみえて実は気にしいで疑り深い。言葉を選んでインタビューで話しても、自分が考えていることの2割くらいしか言えないんです。しかも話しながら『もしかしたら思っていることと全然違うことを言っちゃったかもしれない』『本当にそう思っているか?』みたいな自問自答をしてしまう。次お会いしたときに今とまったく違った考え方に変わっているかもしれないし。
ただ24歳最後の今、僕が考えていることや思いは写真の表情に出せたと思います。それはしっかりと残るべきものになっているなんじゃないかな」
そろそろICレコーダーを止めるタイミングだろう。最後に東京で活躍する同世代の役者に焦りを覚えることがあるか、そしてこれからどんな役者になっていきたいと考えているかを聞いてみた。
「自分自身はまだ胸を張って自分の代表作といえるものがそこまでなくって。同年代の役者でも染谷将太さんや池松壮亮さんがそういう作品にたくさん出会っているのはすごくいいなと思います。ただ、自分にもそういう作品に出会うタイミングいずれは来るだろうなとは思います。そしてそのときの準備はできてきていますね。タイミングが来たときに奢ったり、焦って失敗したりはしないようにしたいですね。
僕は10代のころから、自分はカルチャーを動かす人間になりたいって思っていたんです。たしか村上龍が言った言葉に『いつの世も時代を動かすのは、若者だ』みたいな言葉があって。僕は自分が影響を受けた『青い春』のような若者のバイブルとして語り継がれる作品に携わって若者に影響を与えられたらいいなって思いますね。あ、そうだ俺の友達の音楽聴いていいですか?」
携帯をカーステレオにつないで、BGMにKANDYTOWNの未発表の音源を流し、黙りこくる。あまりに不躾な質問をしすぎただろうかと思った矢先、嬉々として「ここの最後のYUSHIの詩がヤバいんすよ」「彼らに出会って、僕ヒップホップ聴くようになったんすよね」と無邪気に話してくれる。
気がつけば外は真っ暗になり、東京のビル群のネオンが光っていた。車窓から切り取られた東京の街を眺めながら、車内の全員がカーステレオの音に耳を傾けていた。
静かな決意を胸に、栁 俊太郎は来るべきときを虎視眈々と狙っている。KANDYTOWNがカーステレオから今の東京に生きる自分たちのスタンスを主張していた。それぞれに影響を与え合いながら、東京のシーンは着実に胎動している。
photographer:Kodai Kobayashi / 小林 光大