「夏目漱石と日露戦争」12 『三四郎』①「名古屋の女」
物語は、主人公三四郎が熊本の第五高等学校を卒業し、これから合格した東京帝国大学(一部文科)に入学するため上京する列車の場面から始まる。
「うとうととして目が覚めると女は何時(いつ)の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」
この女とは、この後途中下車した名古屋で「同衾事件」をおこし、『三四郎』研究史上「名古屋の女」と呼ばれている人妻のことである。実家に戻る途中だが、その事情を隣に座っている爺さんにこう話す。
「夫は呉にいて長らく海軍の職工をしていたが戦争中は旅順の方に行っていた。戦争が済んでからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また大連へ出かせぎに行った。はじめのうちは音信(たより)もあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。不実な性質(たち)ではないから、大丈夫だけれども、いつまでも遊んで食べているわけにはゆかないので、安否のわかるまではしかたがないから、里へ帰って待っているつもりだ。」
日本は、遼東半島を日清戦争の勝利で手に入れた。その遼東半島南部の最先端に位置する港が旅順、その東に位置するのが大連。しかし、遼東半島はロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、清に還付され、その後、満州方面に進出してきたロシアが、1898年の列強の中国分割の中で、旅順と大連を併せて租借することになる。ロシアは旅順に堅固な要塞を築き、日本との戦いに備え太平洋艦隊の根拠地とした(ただし、それ以前の根拠地だったウラジヴォストークが危険にさらされるのを防ぐため、少数の艦船は残した)。旅順は日露戦争最大の激戦地。第三軍(司令官・乃木希典)は155日間にわたる激戦の末に占領する(延べ人員13万人の第三軍のうち戦死者1万5390人、負傷者4万3914人、戦病者約3万人と、7割にものぼる大損害)。ポーツマス条約によって日本は遼東半島南部(旅順・大連)の租借権をロシアから継承することとなった。日本はこの地を関東州と称し、海軍基地及び関東軍司令部を置き、南満州鉄道とともに日本の大陸侵出の足場とした。
「名古屋の女」の夫は、日露戦争中は旅順で働き、戦後は大連に出稼ぎに行ったきり音信不通になっている。戦争は人々の移動を激化させる大きな機会だが、大連にも多くの日本人が流入した。大連在留日本人は、日露戦争直前の1904年1月に307人だったが、戦後の1906年末には8284人、1911年末には2万9775人と急増している。
女の話に同情を催した爺さんは、自分の話をして女を慰める。
「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。一体戦争はなんのためにするものだか解らない。後で景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価(しょしき)は高くなる。こんな馬鹿げたものはない。世のいい時分に出稼ぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。なにしろ信心が大切だ。生きて働いているに違いない。もう少し待っていればきっと帰って来る。――爺さんはこんな事を言って、しきりに女を慰めていた。」
日露戦争は、日本軍8万4000人という多くの戦死・戦病死者を出して終わった。この日露戦争を想起する国家としての記憶装置は「靖国神社」。それまでの秋の大祭を「会津降伏記念日」の11月6日とし、春季大祭をその半年前としていたが、日露戦争から12年後の1917年12月になって、春季例大祭を4月30日(1906年の「陸軍凱旋観兵式」。東京の青山練兵場において、日露戦争を戦った陸軍の凱旋観兵式が催され、明治天皇のご親閲を仰いだ。元満州軍ほか全国各部隊の代表3万1千名が参列)、秋季例大祭を10月23日(1905年の「海軍凱旋観艦式」。横浜沖で日露戦争を戦った海軍の凱旋観艦式が催され、、明治天皇のご親閲を仰いだ。艦艇161隻が参加)と定め、日露戦争の勝利祝賀式の日を祭祀の最重要の日とした。靖国神社の意義は、天皇が勝利を祝い、天皇と国家のために戦没した人々に感謝するものであり、そのための祭祀であることを明確に示す変更となった。
古絵葉書 陸軍凱旋観兵式紀念(日露戦役) 「二元帥六大将」の寛いだ様子で有名な写真
奉天の満州軍総司令部に山県元帥が現れ、ロシアとの講和が始まることを伝える場面。左から、第一軍司令官・黒木為楨(ためもと)大将、第四軍司令官・野津道貫(みちつら)大将、参謀総長・山県有朋元帥、満州軍総司令官・大山巌元帥、第二軍司令官・奥保鞏(やすかた)大将、第三軍司令官・乃木希典大将、陸軍参謀次長・児玉源太郎大将、鴨緑江軍司令官・川村景明大将
小林万吾「凱旋観兵式」聖徳記念絵画館
天皇が馬車に乗車して閲兵される光景を描いたもの
東城鉦太郎「凱旋観艦式」 聖徳記念絵画館
中央が明治天皇、その右に連合艦隊司令長官東郷平八郎、左に海軍大臣山本権兵衛
海軍凱旋大観艦式記念絵葉書,1905年(明治38年) 連合艦隊司令長官東郷平八郎
靖国神社 拝殿