南シナ海「九段線」に法的根拠はない③
1947年6月12日、中華民国の海軍部、国防部、内政部の会議で合意がなされて、政府は問題のU字型ラインの内側にあるものすべてについて領有を主張することとし、また海上の正確な国境については、のちに現行の国際法に基づいて他国と協議することにした。つまり国境は画定されなかったのだ。これが、のちの南シナ海の「戦略的あいまい」政策の始まりだった。
さらに島嶼の新旧名の対照表が1947年12月1日に正式に発表され、これらの島々は同時に海南特別行政区の管轄に組み入れられた。おなじころ内政部は「南海諸島位置図」を印刷、これは1948年2月、新しい「中華民国行政区域図」の付図として内政部によって正式に刊行された。新しい名称がすべて記載されたのはもちろん、10年前に白眉初が初めて描いた例のラインも描き込まれていた。・・・(11に分かれた)このラインの意味について公式な説明はなかったが、地図の制作者のひとりである王錫光は、この破線は中国の領土――つまり、中国領だと主張されている島々――とその隣国との中間線を描いたものにすぎない、と語ったそうだ。(p91)
共産中国は、中華民国政府の地図と領海のラインをそのまま採用した。しかし1953年、独立のために戦う同じ共産国のベトナムに対しては特別の配慮を示し、中国とベトナムを分けるトンキン湾の線を二本消して、11本の線を9本に減らしている。これが「九段線」の始まりとなる。ただし、トンキン湾で、この二国間の国境が最終的に定まるのは1999年になってからだった。
この「九段線」は、それから60年後の2014年に中国国内で印刷された最新の地図では、台湾の東部に新たに10本目の線が引かれ、「十段線」(台湾では「舌頭状10段虚線」と呼ぶ)となっている。「一つの中国」の主張のもと、台湾を取り込んだ国境のラインは当然、台湾の東側に引かれるべきだというのが、共産中国の考え方だ。そして今、共産中国の指導者がもっとも気を病んでいるのは、台湾の総統が国民党から民進党の蔡英文主席に変わり、台湾の新政権が南シナ海に対してどういう立場をとるのか、という点で、とりわけ蔡英文総統が中華民国の「十一段線」の主張を放棄することはないか、に注目しているという。(台湾民報「由南沙群島「曾母暗沙」的謬誤談起」)
以上、見てきたように、「九段線」や「U字ライン」をめぐる変遷をたどると、南シナ海の領有権を主張する中国には、われわれを納得させるに足る主張の根拠はなにもないことが分かる。古来、この海域を行き来して交易や漁業を行い、文化や技術を伝え合ってきたのは、シナ世界の民族とはまったく違うオーストロネシア語族に属する「海の民」ヌサンタオの人々であり、かれらは明らかにインド文化の影響を多く受けていた。
ロバート・D・カプランのいうとおり、古代からの文化の交流を考えると、南シナ海は「インド太平洋」の中心というほうが正確で、フランスが古代チャンパ王国の地域を指して「東南アジア」ではなく「インドシナ」と呼んだのは正しかったのである。(『南シナ海が”中国海“になる日』講談社α文庫)
また「万里石塘」の伝説が示すとおり、シナ世界の人々は、陸地を離れて沖合い遠くまで船出する勇気はなく、海の向こうの知識・情報は、海を渡ってシナ大陸までやってきたヌサンタオの人々から聞きかじった情報に過ぎなかった。古代より漢字という記録手段をもつシナ世界にとって有利なのは、漢文による記録はどこよりも古くどこよりも多く残っており、あるいは「邪馬台国」の記録のように、漢籍の記録しか残っていないケースも多い。ヌサンタオの人々から聞き取って記録した文書を持ち出し、「南シナ海の島は自分たちが最初に見つけ、漢字の名前をつけたのだから、自分たちのものだ」と詭弁を弄し、こじつけを無理押しすることもできた。
しかし、実際の南シナ海の島々の名前の多くは、中国人であればすぐに分かるとおり、漢語本来の響きではなく外国語由来のものが多いことに気づく。つまり、彼らが実際に航海して、島や環礁の位置を確かめて名前をつけたのではなく、ポルトガルやオランダの船乗り、英国の探検家らが作成した航海図を参照して勝手に命名したのである。アヘン戦争以来の「屈辱の100年」のなかで、列強諸国によって国土のあちこちが簒奪され、遠く海の向こうでもいつの間にか環礁の島々や海域の分捕り合戦が始まっていた。乗り遅れたらたいへんだ、という焦りのなかで、とりあえず、すべてを囲い込んでしまおうと安直に考えた結果が、白眉初の「十一段線」やU字型ラインの発想だったのではないか。(続く)