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大事な「痛み」と不要な「苦しみ」

2020.08.20 03:45

Facebook・船木 威徳さん投稿記事  いま、なお、痛み、苦しみを覚えておられる方へ。

1年前  この日の思い出を見る

船木 威徳 2019年8月20日 · 【 大事な「痛み」と不要な「苦しみ」 】

2年前の2つの記事を統合しました。

私は、普段から、痛みは大事にして早く、苦しみから逃れるべきだと考えています。

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けがをしたときの痛み  慢性的な頭の痛み  がんがまわりの臓器をおかす痛み  肉親が病気だと知るときの痛み  子どもが抱える問題を知る痛み  自分が仕事を失ったときに感じる痛み  恋人と別れたときの痛み  親を亡くしたときの痛み  経済的な不安からくる痛み

私たちは、生きている限り、さまざまな痛みを感じています。痛みと共に生活しているといっても過言ではないくらいです。誰もが納得できることでしょう。

私の仕事は、その「痛み」、それは肉体的なものであっても精神的なものであっても それを薬でごまかすことではなく その痛みを「よいもの」として 受け入れ、原因を知ったり、痛みをさらに強くしている習慣や ものの考え方を見つけたりしながら『自分を変える行動をとる』のを助けることにあります。

薬を出して、仮にそのときに一時的に痛みから解放されてもその人の行動が変わることはないし、身体が、その人自身に発しているメッセージを理解して、生活習慣を変えたり、自分のためによい行動をとることもないでしょう。

私は、「痛み」そのものは、人間にとって「よい」ものだと考えています。

もちろん、痛みは避けたいです。つらいです。早く楽になりたいです。

ですが、もし、痛みがなかったら、どうなるでしょうか?

傷にばい菌が入り込んだことにも気づかない。内臓が詰まったり、腐ったりと、異変を早いうちに感じ取ることもできない。誤った判断、ふさわしくない行動から招いた結果をよく吟味することもできず自分の今後の行動をよいものにも変えてゆくことはできません。

私は、決して、「みんな、痛みなんて我慢しろ、乗り越えろ、薬なんて飲むな」と言っているのではありません。また、痛みを感じる理由が、いつもすべて明確に説明できるわけでもないことは充分承知しています。ただ、身体に感じる痛みにせよ、心が感じる耐え難い痛みにせよ、いったんは「私を守るため、私によいものを得させるための、『行動を変えさせる』きっかけとなりうるものなんだ」と、受け止めて欲しいと考えています。

・大事な私の身体に長い間、こんな無理をさせてしまっていた。

・大切なひとたちのことを考えることもなく あまりに自分本位に、ことを進めていた。

・本当に大切にしなくてはならないことを取り違えていた。などと、現に、いま気づくべきこと、そして、今、変えるべき行動や習慣に気づかせてくれるのは、誰もが、それぞれに感じる「痛み」です。

次に、「痛み」と混同されやすいものに「苦しみ」がありますが、「痛み」と「苦しみ」はまったく別です。

「痛み」はしっかりと自分自身で受け止めよいものとして、しっかり自分を見直すきっかけを与えてくれますが、「苦しみ」はそうではありません。「苦しみ」とは、なんでしょうか?

借金に苦しむ 親子関係に苦しむ 病気に苦しむ 受験勉強に苦しむ 仕事のノルマに苦しむ 夫婦関係、人間関係に苦しむ・・・。

私であれば、クリニックの開業当初は、やはり、売り上げ、利益が上がらない事実に「苦しみ」ました。

不眠で生まれて初めて睡眠薬を飲み血尿、血便は何度も経験しました。

便器がそのまま血で染まる、不安を超えた先の見えない苦しみはことばで他人に説明できないものですし思い出したくないです。

この「苦しみ」ですが、これは、先に説明した「痛み」と異なります。

決して、無関係なものではないのですが、できるだけシンプルに説明すると、「苦しみ」=「痛み」×「失うことへの執着」です。

何年も前のこと、私が9年間飼っていた、かわいいウサギが死にました。その日は、何度も何度も、生後2ヶ月でうちに来た日のこと、一緒に寝たり、私の食べていたポテトチップスを顔の横でせがんでいた時のことを思い出しては、涙が出てきました。

何万回ウサギの名前を呼んだでしょう。「苦しい」のです。

かつて、私のまわりをくるくる回っては追いかけあっていた相棒が急にいなくなったのです。さみしくてしょうがありませんでした。

私が見た、世界で一番かわいいウサギでした。

ですが、思うのです。

命あるもの、いつかは終わりの日が来ます。たくさん、一緒に遊び、たくさんのいい思い出をくれたのは事実で、それ以上でも以下でもないしその経験が消えるわけでもない。

悲しいし、苦しいけれど、ある期間、家族のメンバーとして、みんなで楽しい時間を過ごせただけでそれは幸せな記憶として、それでいいのだ、と、いまはそう思えます。

ところが、ここで、私がもし、「腕利きの獣医にみせなかったおれのせいだ」「薬を飲ませれば、もっと長生きしたはずだ」「私がいない時間、家族がもっとかわいがってやっていれば、元気でいたかも知れない」「~のせいだ、~が悪いんだ」と、すでに、もういないウサギに、来る日も来る日も、執着し続けたらどうでしょうか?どうなるでしょうか?

それは、「苦しみ」となり、私たちを確実にむしばんでいくのです。

ペットならまだいいかも知れません。

・別れた妻、夫が・・・・死んでしまった親が・・・・去ってしまった恋人が・・・・はずみでやめた仕事が・・・・失ってしまった友人が・・・・考えずに使い果たしたお金が・・・・あたりまえだった健康が・・・・何でもできたはずの強い身体が・・・

私たちの望まないかたちで、やってくるから「痛み」なんですが、その痛みに自分から、ずっとずっと、執着する。

そこに、「苦しみ」が現れ、さらに 私たちを追い込み、がんじがらめにしてゆきます。

もはや、自分の力では、その呪縛から逃れられなくなることも多いです。

その結果、新たな病気さえ、引き寄せてしまうのです。

「苦しみ」は、私たちが経験する必要のまったくないものです。

私は、人生にマイナスにしかならない、とさえ考えています。

では、どうするか?

「痛み」から逃げずに、じっくりと「痛み」を見つめ、考え、自分のためにいいものなんだと、心から受け入れる。

そして、ありったけの感謝を込めて、「手放す」のです。

この世にあるもので、正真正銘、「私のもの」なんて、実はひとつとしてありません。

妻や夫も恋人もそう、親もそう知識や経験、知恵やスキルもそう家だって、会社だって、地位だって、お金だって、財産や、趣味、友人も 行きつけのお店の知り合いも、全部、一時的に、この地上で与えられ、その管理を任されただけです。

「これは、おれのものだ、おれが苦労して手に入れたんだ、絶対誰にも渡さない」気持ちは分かりますが、そんなものは誰の手にも耳あかほどもないのです。

「そんなはずない」と抵抗したい気持ちは、わたしにも痛いほどわかります。

しかし、真実はシンプルです。悲しくても、寂しくても、痛みを受け入れて、そして、「一緒にいてくれてありがとう」と心を込めて、感謝して「手放す」。

「痛み」が私たちに与えられている意味を知り、それが、「苦しみ」へと不必要に変貌しないようコントロールする方法で、肝となる考えは、『手放す』ということに尽きると私は考えています。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり