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「固定して変わらないもの=我」は存在しない(無我)

2020.08.21 12:55

http://takeshogo.com/2018/11/22/muga2/  【固定した「我」を追求し、見失った現代】より

「諸法無我」

この言葉は仏教の教えの際だった特徴を表す「旗印」となる言葉の一つだと言われます。

固定した変わらないものを「我」といって、「そんな、固定した変わらないものは無い」と教えている言葉です。

コップもテーブルもイスも時計も…あらゆるものは、一時的に因縁が揃ってそのように見える「状態」を私たちがそう呼んでいるだけ。固定したコップもテーブルもイスも時計も、存在しない。これが「無我」ということです。

なるほど、固定しているように見える色々な物も、一時的に因縁組み合わさって出来上がっているだけだから、因縁が離れたならば、跡形も無くなってしまう。

だから「本当は固定していない」ということは確かに言える。

 だけど、そんな「物質」の構造を科学は解明し続けて、その最小単位が「原子である」と突き止めているのではないか。そうしたら「原子」は、固定した「我」に当たるのではないか。このようにも考えられそうですけど、どうでしょうか。

こういうミクロの世界の知識に明るい人はよく知られていることですが、「原子」って、もう物質の最小単位ではないみたいですね。

「原子」を構成しているさらに小さな粒子があるらしく、今知られている最もミクロな粒子を「素粒子」と呼ばれて言われます。

「量子力学」と言われる学問分野で、この素粒子の研究が進められているそうなのですが、この「素粒子」の正体がまたとらえどころのないもののようです。

曰く「普段はどこに存在するかが確率論でしか言えず、観測するまでは、位置や速度などの状態を確定できない」だそうです。「観測(見る)」が加わると、存在が確定する。

だけど、「観測」していない間は、存在が確定していない。どこにどう存在するのやら、確定できない。そういうものが素粒子だということです。

いやいやいや、「観測」しようがしまいが、存在するものは存在するでしょ。と言いたくなりますよね。だけど冗談で言っているわけではなく、実験を重ねた結果の結論が、「観測するまでは、存在が確定しないのが素粒子」という非常におぼろげなものだそうなのです。

私も専門の勉強をしたわけではなく、ちょっと本で読んだぐらいの知識なのですが、そういうものなのだそうです。

私たちの主観とは関係なしに、客観的に物質は存在する。この当たり前に信じていたことが、ミクロの世界の最先端まで行くと揺らぎ始めるというのです。

 固定した変わらない「我」の存在を求めて原子まで行き着き、さらにまたミクロの素粒子の世界へ入ると、ますます「固定した変わらない存在」というものが見当たらないのですね。

ペンも椅子もテーブルもない世界とは素粒子レベルまで突き詰めても、固定した「我」は存在しない。ということは、この世界は客観的、絶対的に存在するものではないということです。私たちの感覚だと、宇宙という世界がまずあって、その中に地球という星があり、その上に私やあなたやみんなが乗っかって生活している、こんなイメージだと思います。

この世界観は、どちらかと言うとキリスト教の考え方に近いと言えます。聖書の中に、「神が世界を創造した」というくだりがあることは有名ですよね。まず神が創造した世界ありき、なのです。そしてそこに今度は、神が私たち人間を作って住まわせたというわけです。

 神に作られた「世界」、神に作られた「私たち」、神に作られた「動物や物」それは「創造主」によって造られた、固定した「我」というべきものです。そんな固定した「我」というものは存在しない、と説く仏教の世界観は、キリスト教の世界観と全然違います。

仏教では、一人一人がそれぞれ違う世界に生きていると教えます。私は私の世界に生きていて、あなたはあなたの世界に生きていて、他の人たちもそれぞれ違う世界で生きているということです。どうしてそんなことが言えるのか、詳しくお話ししたいと思います。

これを見てみてください  「これは何でしょうか?」と聞いたなら、誰でも「ペン」と答えると思います。

だけど、何万年も前の原始時代の人にこれを見せたらどうでしょうか。

彼らにとってそれは「ペン」ではないでしょうね。それなりに固くて短い棒。木の実を採るのに使えそうな道具、といったところでしょうか。なぜなら、彼らには「紙に文字を書く」という「行為」がないからですね。私たちの生活にはペンを使って紙に文字などを書くという「行為」があります。だから、私たちにとっては疑問の余地もなくそれは「ペン」なのです。

犬や猫にとっては、それはペンではありません。彼らにはとうてい「書く」という行為は存在しえないからです。

考えてみると、私たちが世界を認識するときは全て自分の行為によって意味付けをしていますよね。

 これを見て、私たちが「椅子だ」と言えるのは、私たちに「腰掛ける」という行為があるからです。犬や猫でには「腰掛ける」ことはできないでしょうから、「椅子」ではないでしょうね。チンパンジーにとっては、かろうじて椅子っぽくなっているかもしれない。虫になると、全く椅子ではないでしょう。私たちに「腰掛ける」という「行為」があるからこの物体は「椅子」なのです。

 これも同じですね。

この平らなところで作業をしたり食事をしたり読書をしたり、という私たちの「行為」があるから、これは「テーブル」なのですね。そういう「行為」のない他の生き物たちにとっては「テーブル」など無いというわけです。

 独立した「ペン」も「椅子」も「テーブル」も、存在しない。私たちに、「書く」、「腰掛ける」、「作業、食事、読書などをする」という行為があっての「ペン」、「椅子」、「テーブル」なのです。そして、それらの物で構成されているこの世界は、人間だけの世界です。

人間以外の動物たちは、全く違った世界で生きています。彼らは一体、どんな世界で生きているのでしょうね。人間には、まず想像できません。 

私たちにとって当たり前の色々な行為が彼らには無い。先ほど話した「書く」も「腰掛ける」もない。「時間を守る」も「物を買う」も彼らにはありません。

逆に、人間にはなく、彼らだけの行為もありますね。虫は、「飛ぶ」という行為、「壁に貼り付く」という行為があります。そんな行為の持った彼らの世界を、私たち人間に想像できるはずもありません。

「行為」と「世界」は、切り離せない関係ですね。「行為」が変われば「世界」は変わる。これは必然のことです。

あなたの行為が生み出す世界

仏教では、一人一人の「世界」は、一人一人の「行為」が生み出していると教えます。「行為」のことを仏教では「業(ごう)」と言いますので、行為で生み出されている私たち一人一人の世界を「業界(ごうかい)」と言います。

人間と他の動物では、行為(業)は大きく違いますので、当然「世界」も全く異なります。だけど人間同士でも、それぞれ「行為」は違いますよね。私とあなたがこれまでしてきた「行為」は、だいぶ違うはずです。もちろん「同じ人間の出来うる範囲での行為」であり「同じ時代の同じ文化圏の習慣の上での行為」でもあるので、共通点も多いでしょうけど、細かく見ればやっぱり違います。だから、同じ人間の世界と言っても、私の世界とあなたの世界は異なるのです。

仏教が、一人一人が違う世界で生きている、と教えるのは、「世界」とは「行為(業)」が生み出している「業界」であり、その「業」が一人一人違うから、「業界」はそれぞれ違ってくるということです。

そして、私たち一人一人の「行為(業)」が変われば、それはそのまま「世界」が変わるということです。固定した変わらない「世界」は無い。だから、「世界」も「現実」も、自分の意志で変えていけるものです。それと同時に分かることは、「行い」はごまかせないということですね。自分が何をするか、何を言うか、何を思うか、それがそのまま自分の世界を動かします。

固定した変わらない世界は無い。私の生きている世界は、自分の行いが生み出す「業界」である。この「無我」の教えの深い理解が、「どうせ自分はこんなだから…」という現実の固定化から脱却し、自分の行いを変えて現実を動かす出発点となるのですね。

今回は、「固定した世界」は存在しないという話を無我という教えからお話ししました。では、「私自身」についてはどうでしょうか。無我の教えからは、「固定して変わらない私」というものも存在しないということになります。それはどういうことなのか、次回、お話ししたいと思います。