虹を指さす禁忌の話
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/zatu/17.html 【虹を指さす禁忌の話】 より
子供の頃、霊柩車を見たりお葬式の家の前を通るときには親指を隠せ、という言い伝えというか、噂のようなものがありました。どうして隠さなければならないのか、隠さないでいるとどうなるのかは分かりません。七夕の日の古い習俗で、花の汁で爪を赤く染めた指で犬を指さしてはならない、さしたら犬に噛まれる、というものがあるそうですが、指をさすと、やはりよくないことが起こるのでしょうか。
犬に限らず、人間をも指さしてはいけない、とは世界的に言われていることのようです。
指で物を指すのは相手に失礼なこと、敵意を示すことで、そうすると相手を不愉快にするし、報復されるかもしれない、という考え方が根底にある気がします。
指さしてはいけない、と言われているものは、日本全国に色々とあります。例えば、壱岐や宮崎の大字島では、たけのこを指さしてはならない、と言われていたそうです。指さしてしまった場合、壱岐ではさした者の指が、大字島ではたけのこが腐るそうです。面白いのは、沖縄の国頭では「墓を指さすと手や指が切れてしまう」と言われていることで、これは「霊柩車を見たりお葬式の家の前を通るときには親指を隠せ」という日本本土の俗信に通じるものかと思います。――そう。親指を隠さないでいるとどうなるのか。指が腐って切れ落ちちゃうのですね、きっと。ああ怖い。
さて。指をさしてはならない、さしたら指が腐る、と言われているモノのうち、最も有名で広く知られているものは、なんといっても”蛇”でしょう。「蛇を指さしてはならない」という言い伝えを聞いたことのある方は、かなりおられるのではないかと思います。
うっかり蛇を指さしてしまったら、指を噛むとか噛むマネをするとか、指に唾をつけるとか、手刀で指を切る素振りをするとか、「お前の指は腐れ指、わしの指は金の指」と呪文を唱えるとか、人に指を踏んでもらうとか、そういったことをすれば腐り落ちるのを回避できます。ここで腐れ落ちると言われているのは恐らく第二指、”人さし指”のことなんでしょうけれど、岩手県九戸郡では「悪夢を見る者は親指を噛んで寝ればよい」と言われていて、親指を”ヘビガシラ”と呼ぶそうで。霊柩車やお葬式の前で隠す指が親指である点を彷彿とさせます。……まぁ、親指を隠せば自然とこぶしを握ることになって、全部の指を隠す形になりますしね。
このように、蛇は指さしてはいけないモノのうち最も有名・多数派・スターです。けれど、ほぼ同じように言われていて、しかも日本全国に広まっているモノが、実はもう一つあります。
――それは、虹。
「虹を指さすと指や手が腐る。切れて落ちる」
そう言われているのは、主に沖縄地方でなのですが。日本本土でも、広く「虹が出たら、手刀か鎌で虹を切る素振りをすること。(でないと虹に追われる)」と言い伝えられており、虹をあたかも生物として捉えているようですし、蛇を指さしてしまったときの対処法と どこか似ています。
なお、虹を刀で切る仕草をするまじないは、東南アジアにもあるようです。そうすると雨が降らないそうで。メラネシアのバンクス諸島の子供たちは、虹が出るとその端を切る遊びをします。もしも短くできたなら、雨は降らなくなると言います。イギリスやフランスでも、近代まで、虹が出ると子供たちは「虹を消す」と唱えるまじないをしたそうです。
虹は、沖縄では雨呑み者アミヌミヤーと言うそうです。雨呑み者は赤まだらの蛇で、その蛇が天の泉の口を塞いで水を呑んでしまうので、下界に雨が降らなくなる、と伝えられていました。奄美大島では、はっきりと天の長虫ティンナギャと呼びます。長虫とは、蛇のことです。
虹と蛇を同一視する考え方は、実は日本全体はもとより、全世界的にみられるものです。蛇は虹のように長くて足無しだし、うろこは虹色にきらめくし、イメージ的によく合っていたのでしょう。日本語の”ニジ(古くはヌジ)”という言葉自体、蛇類を表す古語”ナギ(ナジ)”に通じるという説があります。また、”虹”という漢字には虫偏がついていますが、この虫は蛇を表しているとも考えられます。(セミを表す、という説もあります。セミは太陽・生命の象徴です。)
蛇は、世界中の神話伝承に頻繁に現れます。時には災厄の象徴であり、時には豊穣――蛇(竜)神が人間に子供を生ませる伝承は実に数多い――を与える存在として描かれます。同じように、虹は吉凶、両方の意味で捉えられていました。中国では、虹が現れると戦乱になるとか女が淫蕩になると虹が出るとか言って忌みましたが、他方では虹(竜)に感じて聖王を孕む話も多いのです。(中国少数民族や南米などでは、虹は不注意な女を妊娠させる、性器から入って病気にすると言う。ここでの妊娠は凶兆になります。伝承で、蛇に産まされる子供が時には聖人とされ、時には鬼子として堕胎されるように。)
人々が虹を単なる自然現象であると識り、美しいものだと安心して鑑賞できるようになったのは最近のことで、かつて虹は美しいが正体不明で不思議なもの、それゆえに不気味で畏怖すべきもの、禍々しいものでもあったのでした。
虹蛇は雨を操ります。日本や朝鮮半島(韓半島)には、「朝の虹は大雨になる、夕方の虹は晴れる」という言い伝えがあります。(ちなみに、台湾のパイワン族では逆の模様。朝虹は旱魃、夕虹は雨。)
虹そのものが雨に関わる自然現象なのだから当然ですが、昔の人たちは、この正体不明の怪しいモノが現れるとき、雨が降り始めるか降り止むことに経験則的に気付いていたのでしょう。先に、沖縄では虹は赤まだら蛇で天の水を飲み干して旱魃を呼ぶとされていたと書きましたが、同様の考え方は世界中にあり、虹は天から降りてくる蛇・ワニ・牛やロバの頭をした怪物(竜?)で、下界の水に頭を突っ込んで、ガブガブと飲み干してしまうと言われていました。そして天に昇っていき、雨を降らせるのです。
虹は天から降りてきて水を貪欲に飲み干してしまう者であり、天に立ち昇って水を降らせる者でもある。吉と凶、双方の面を持つ存在なのでした。
双方の面、といえば。
虹には二つの頭がある、という考え方があります。虹は弓状に曲がって両端が地面に着いていることが多いですが、中国の殷の甲骨文字では、虹は弓状に曲がって両端に角の付いた頭のあるモノ、として刻まれており、双頭の竜として考えられていたことが分かります。中国ではこのイメージは根強く、現代に至っても生き残っているそうです。
中国四川省のミャオ族に伝わる話。
昔、一人の水娘がいた。大変美しかったので求婚者が絶えず、ついには殺傷沙汰の騒ぎになった。水娘はこれを嘆き、雲に乗って昇天し、天に嫁入りした。
残された両親は嘆いた。水娘は母が余りに嘆くのを見て、こう言った。
「私が下界にいると流血沙汰になります。ですから春、皆が忙しい頃に、こっそり降りて行きますね。その時には紅・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色の服を着ていきます。帰ったら、絶対お母さんの酸辣菜の漬物を食べて、お父さんの掘った竜井の水を飲まなくちゃ」
こうして、毎年三月になると水娘は帰ってきた。腰をかがめて、一方の頭は母の甕の中に突っ込んで漬物を食べ、もう一方の頭は父の竜井にもぐりこんで水を飲んだ。他の人々から見れば虹だったが、母にとっては紛れもなく娘だった。
のちに水娘の母が死ぬと、水娘は両親を想って涙を落とした。春、虹のたつ頃に降る細雨は、水娘の落とす涙なのである。(『銀河の道 虹の架け橋』 大林太良著 小学館)
虹である双頭の蛇は、他にも東南アジア、ペルーやメキシコでも見ることができます。ちなみに、西欧では双頭の蛇を”アムピスバエナ(双方へ進む者)”と呼び、大変な猛毒を持つ獰猛な まだら蛇と考えていたようですが、特に虹と関連がある感じはしません。
ところで、中国や北中央アジアの諸民族、東南アジアには、虹がロバや牛、鹿の頭を持った怪物である、と伝えているところがあります。恐らく、竜のことをさしているのでしょうが……。鹿や牛はしばしば水神とされている点とも繋がっているかもしれません。水神と月は深く関わりますが、虹と月もよく関わりあって表されます。多くの民族で月は女子供をさらうと言われますが、同様に虹も女子供をさらうと言われます。ギリシア神話で、ゼウスが牛に変じて王女エウロペを誘拐しますが、これも月が女を誘拐する話であり、虹が女を誘拐する話であるといえるかもしれません。牛は月に関わる動物であり、ゼウスは雷神です。虹は、しばしば雷神の弓と考えられています。雷と雨と虹はセットの自然現象だからです。
虹の正体に関する伝承は、他にも帯やネックレス、ヴェールといった神の装身具・旗であるとか、英雄神(雷神)の巨大な弓であるとか、異界へ渡るための橋とか、男女のいさかいで飛び散った血が変化したとか、色々な説があってまとまってはいないのですが、これらのイメージの幾つかが融合していることもあります。悲恋の果てに血を飛び散らせて死んだ女性が赤い蛇となり、恋人をさらって昇天して虹になったとか、虹の橋を渡って、異界から怪物・精霊・神がやってきて、地上で水を呑むとか汲むとか水浴びするとか。『羽衣』系の伝承では、天女(女神、祖霊)は必ず水場に舞い降りて水浴しますが、もしかしてこれと虹が水を呑むという伝承は関連するのかもしれません。虹は、しばしば女神の装身具とも考えられているからです。織女が織っていたという錦雲の衣とは、まさに虹の衣だったのではないでしょうか。実際、朝鮮半島(韓半島)の神仙譚では、天女は虹に乗って渓谷に降りてきて水浴をする、というイメージが普遍的であったようですし。
さて。指さす禁忌の話に戻りましょう。
虹が蛇である、という考え方が世界中にあるように、実は、"虹を指さしてはならない"という俗信も、世界中にあります。
>>世界の虹を指さす禁忌の例
どうして虹を指さしてはならないのでしょうか? 指さす行為は"攻撃"の意思だろう、とは先に書きました。インドネシアには、「若くて小さな南瓜を指さしてはならない」という禁忌があるそうです。南瓜が死んでしまうから、と。このように指さしが攻撃であって、虹が蛇だと考えた場合、獰猛な蛇に攻撃したら、逆に攻撃し返されるから、と考えることができます。なので、蛇に噛まれるより先に自分で指を噛んだり、噛むふりをして「痛い」と叫んだり、指を踏んだりして痛めつければ、既に攻撃を受けたという形になって赦してもらえる、と。
けれども、虹は必ずしも蛇と同一視されているわけでもありません。世界の例を見れば、"指さしてはならない"虹は神や精霊、時には悪霊や妖怪とされていることも多く、指さしの禁忌が伝わる地方との重なりで見れば、むしろ虹を蛇以外のものとして見る地方の方が多いのです。
沖縄の久高島では、虹を「手の切れるものティー キラー」と呼び、指先からだんだん腐って切れて落ちる、として指さすことを禁じます。というのも、虹は神であるので、それを指さすことは不敬に当たる、というのです。
つまり、聖にしろ悪にしろ、虹は呪力を持った神霊的存在、または神霊的存在が渡っている道・橋であるため、それを指さしてはならないようなのです。指さしたら"祟られる"というのが最も適切な表現である気がします。
しかし、どうして指をさすと不敬になるのでしょうか。ただ攻撃することになるからということ以外にも何かがある感じがします。
なんとなくですが、指さしには単なる攻撃的意思だけではなく、性的な意味があるように、世界各地の事例を見ているうちに思いました。今でも、中指を立てたり拳の中から親指を突き出すという手の形は性器を象徴し、"性交"を意味しますし……。"性力"旺盛な虹蛇に向かって"指を立てる"のは大変危険なこと。そして、神霊に向かって"指を立てる"のは大変失礼なこと。そんなイメージがある気がします。
万一虹を指さしてしまった場合の対処法は、日本に限らず他の国でも色々あるのですが、「噛む、地面に指をこすりつける、穴を掘る、自分の肛門・へそに指を突っ込む」というものがあるのは、やはり性的なニュアンスがあるように思います。
神霊の渡る橋である、と考えられたとき、虹は死者と関わります。死者の魂が虹を渡ってあの世に旅立つからです。この「死者が出たから虹が立つ」というイメージが逆転して、「虹が立つと死者が出る」と恐れられることはしばしば起こります。虹蛇のイメージと融合して、虹の端(頭)の下に行くと虹に食われると言われたり、果ては虹が降りてきて人を殺す、とさえ言われます。
ベトナム山地のモン・クメール族には、こんな伝承があります。
昔、虹ベルラン・カンは天に住む吸血妖怪の夫婦だった。夫はとても長い歯で、妻の乳房はへそまで垂れていた。血に飢えると、夫婦は天から地上の人間を釣り、天に居ながらにして血を全部吸ってしまうのだった。
ある日のこと、人間の若者が虹に一騎打ちを挑んだ。虹は激昂して地上に降りたが、戦って殺された。のちに虹夫婦は甦ったが、それからは人間を捕獲して血を吸うようなことはしなくなった。
時々、夫婦は水田の水で喉の渇きを癒すために空から降りてくる。二重の虹がかかっているとき、上の大きな方が夫、下の薄い方が妻である。その色は、かつて殺した人間や動物たちの血の色をしている。
今でも、事故死があれば、虹が人を襲ったのかもしれないと、生贄を捧げて虹の血の渇きを和らげる。太陽や月に丸い虹の暈かさが出ることがあるが、これが出るとその指す方向に死人が出る。
虹を指さすと、ハンセン病になるかもしれない。それは、虹がさした指をダメにしてしまうからである。(『銀河の道 虹の架け橋』 大林太良著 小学館)
虹は死者、それも普通でない死に方――自殺、殺人、溺死、毒死、墜落死、産褥死に関わる、不吉な兆しです。不幸な死に方をした亡霊――または、人に不幸な死に方を運ぶ悪神は、地上に降りてきて水を飲みます。霊と水はどうしても切り離せない関係のようです。また、虹が死体を食べるとか、虹が死体から生まれるという考え方もしばしば見られます。沖縄の俗信で、墓を指さしてはならないといわれていること、日本本土で霊柩車やお葬式の前では親指を隠せといわれていることが、ここで一つに繋がったかと思います。
虹は、雨をもたらす聖なる神であり、また、人を暴力的な死に追い込む邪なる魔物でもある。同様に、月・太陽・星・雷・天なども、長時間見つめたり数えたり、指さしてはならないと伝える国がちらほらと見受けられます。中国では広く、星辰は禍福を授ける神なので、指さすと耳が割れたり口がただれたり、ひどい時は命をなくすと言われていました。虹を含む大自然の存在は人の禍福を左右する畏怖すべき存在であって、けっして傷つけてはならないのです。
参考文献
『銀河の道 虹の架け橋』 大林太良著 小学館