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粋なカエサル

「夏目漱石と日露戦争」16 『現代日本の開化』

2020.08.23 00:52

 漱石は現代日本の開化の特徴を「外発的開化」とした上で、「それが心理的にどんな影響を与えるか」を次のように説明する。


「日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新しい波が寄せるたびに自分がそのなかで食客(いそうろう)をして気兼(きがね)をしているような気持になる。新しい波はとにかく、今しがたようやくの思(おもい)で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁(わきま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。食膳に向かって皿の数を味(あじわ)い尽すどころか元来どんな御馳走が出たかハッキリと目に映じないまえにもう膳を引いて新しいのを並べられたのと同じことであります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。」


 「現代日本の開化は皮相上滑りの開化」だから、国民は「空虚の感」、「不満と不安の念」を懐かざるを得ないという。しかし、漱石はリアリスト。観念的な理想主義者ではない。


「しかしそれが悪いからお止(よ)しなさいというのではない。事実已むを得ない。涙を呑んで上滑りに滑ってゆかなければならない・・・」


 漱石は近代日本の非運を正確に見抜きつつ、明治初頭の日本に、別の選択肢がありえたと考えていたわけではない。では「西洋が百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏(そしり)を免(まぬ)かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移」はできないのか?漱石は、それをやろうとすると「由々しき結果に陥る」、つまり「神経衰弱になる」と言う。そして「どうも日本人は気の毒といわんか憐れといわんか、まことに言語道断の窮状に陥った」、「どうすることもできない、実に困ったと歎息するだけ」という「きわめて悲観的の結論」に至る。


「どうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申したとおり私には名案もなにもない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化してゆくがよかろうというような体裁の好いことをいうよりほかに仕方がない。」


 では、「内発的に変化してゆく」ためには何が必要か?『現代日本の開化』から3年後の1914年11月25日に学習院で行われた講演『私の個人主義』が参考になる。その前半で、漱石は自分史を語っている。大学を卒業し教師として世の中に出ても「腹の中は常に空虚」だった。「この世に生まれた以上なにかしなければならん、といってなにをして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧に中に閉じ込められた孤独な人間のように立ち竦(すく)んでしまった」。イギリスに留学しても状態は変わらない。「なんのために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって」きた。その時にはじめて文学とはどんなものであるかに気付く。


「その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途(みち)はない・・・今までは全く他人本意で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂(ただ)よっていたから、駄目であった・・・自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽(ふけ)りだした・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってからたいへん強くなりました。・・・今まで呆然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図してくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。」


 『こころ』を持ち出すまでもなく、漱石は「自己本位」に基づく「個人主義」の危うさについても気づいていた。『私の個人主義』の後半でそれが展開される。しかし、内発的発展をとげ、神経衰弱に罹らずに他者とも充実した関係を築いていく上で「自己本位」に基づく「個人主義」の重要性はもっと強調されてもいいように思う。今も古びない日本人の重要テーマだろう。


書斎の漱石 1914年12月

漱石と長男純一(右)と次男伸六(左) 1914年12月

「青島の戦い」(1914年10月31日 ~ 11月7日)でドイツの東アジアの拠点青島要塞を砲撃する日本軍