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虹の上をとぶ船―絵の声を聴く

2020.08.23 04:47

https://note.com/hayatokumagai/n/n9d4be9791014  【巨きな絵のみなもと】

まずはじめに、巨きな絵を描いていくうえでくりかえし立ち返ることとなった、大切な四つの"源泉"について書いてみようと思う。

それらが実際にいつ、どのようにして巨きな絵へと結びついていったのか、自分でもはっきりとは憶えていない。

けれどそれぞれの作品が、巨きな絵にもたらした影響は別々のことがらのようで、すべてがその根底において密に結びあっているのは、確かなのだと思う。


Ⅰ 虹の上をとぶ船―絵の声を聴く

「羽音やひづめの音をあとにのこしてとおくへいく」

坂本小九郎「虹の上をとぶ船—八戸市立湊中学校養護学級の版画教育実践」より

ジブリの映画「魔女の宅急便」のなかで、画家の少女ウルスラが描く一枚の絵。その元となったことでも知られるこの版画は、1956年からおよそ四半世紀にわたり、青森・八戸にある中学校の養護学級において生み出された「虹の上をとぶ船」シリーズに代表される、幾つもの巨大な木版画群のうちのひとつだ。

緻密に彫り込まれたペガサスと牡牛の、悠然と宙を駆け巡るすがた。それらをやさしく受けとめるかのようにかがやく巨大な月。一連の美しいイメージは、ひとたび観たら忘れられなくなるほどの鮮烈な印象をのこす。

「虹の上をとぶ船 完結編」

坂本小九郎「虹の上をとぶ船—八戸市立湊中学校養護学級の版画教育実践」付録ポスターより

一枚あたり3〜4人で数ヶ月かけてつくられたというこの版画は、実際の大きさはおよそ畳一枚分(1×2m)に匹敵し、原画が縮小された写真をながめているだけでも、その凄みがひしひしと伝わってくる。

隅々まで彫り込まれた絵の細部をみていくと、樹の陰影や象の量感など、立体性をたくみに表現したところもあれば、人物の単純な造形にみられる平坦で稚拙とされるような表現まで、さまざまな在りようがみられる。

そのいずれもがかけがえないものとして共存しあい、そのことによって神話的な世界が生まれているということが、この版画の持つ何よりの魅力なのだと思う。

各々の存在によって放たれる光が均されることなく、個々のかがやきのままに愛されてしまう場所。それは効率重視のシステムに支配されてしまった現代社会のおおくの場面においては、半ば妄想とされ、置き去りにされてしまう発想なのかもしれない。

けれどこの版画たちを観ていると、そのような弱々しくもろい思いが、言葉の行き届かないどこか深いところで、そっと肯定されるような気がする。

「虹の上をとぶ船 総集編Ⅱ」作品解説

坂本小九郎「虹の上をとぶ船—八戸市立湊中学校養護学級の版画教育実践」より

この比類なき版画たちの創造を、長いあいだ教師として見守り続けてきた坂本小九郎は、一連の版画教育とその実践を「虹の上をとぶ船—八戸市立湊中学校養護学級の版画教育実践」という一冊の画集にまとめ、出版した(現在は絶版となっている)。

そこには子どもたちがつくった版画と物語が、教師による作品解説と実践の随想というかたちで、圧倒的な文字量によって書き尽くされている。何よりもおどろくのは、教師が書きあらわした膨大な文章のうちのどの言葉をとっても、その一つひとつに詩心の籠もった息づかいが感じられることだ。

「子どもは、どんな稚拙なイメージも安心して描ききっています。その稚拙で素朴なイメージは、喜々としてペガサスと太陽の光芒のもとに生命の賛歌をかなでています。いかなるイメージも追い出したり排除したりはしません。個性をもったありのままの存在として生きています。」

子どものなした創造をこのようにたたえたかと思えば、自らの仕事については「教師はみずからの仕事を否定するところから出発しなければならない」という言葉にあるように、一貫して厳しいまなざしを注いでいる。

私の25年の教師という仕事のなかで10万点以上の子どもの表現物を見てきたわけであり、描かせてきたわけです。そのなかで、子どもたちも活かされたと思える表現物は、ほんのひとにぎりです。これくらいおそろしい仕事はないと思うのです。このおそろしさを考えるなら、どうして教育実践を美談として書くことができましょう。

教師である自らは、創造主として中心にいる存在などではなく、「産婆」のようにただ傍らに寄り添い、その手助けをする媒介者なのだということ。

そのような思想を擁立してゆく途上にあってなお、「ほとんどが砂のように指のあいだからもれていってしまった」という悔恨を深く抱きつつ、それでもなお絶えることのない、子どもの創造に参与することへの切実きわまりない思いが、この類い稀な画集を生み出した原動力のひとつなのだと思う。

矛盾や不条理のなかを歩み尽くそうとする、このひとりの教師のどこまでも人間的なすがたは、つくり手である自分にとっても、私淑すべき存在であるように映った。

版画のラフスケッチと解説

坂本小九郎「虹の上をとぶ船—八戸市立湊中学校養護学級の版画教育実践」より

巨大な版画の制作は、名刺サイズの小さなカードに描かれた、落書き同然の絵からはじまる。

小さな紙芝居でもつくろうか、と呼びかけるようにして行われたというこのささやかな遊びは、一つひとつは数点のモチーフが描かれたきわめて素朴なスケッチでありながら、幾人もの子どもたちでそれらを互いに見せあい合流させてゆくことで、次第に大きな絵になっていく。小さな川の流れがいつか大河へと辿りつくように、あの迫真に満ちた大作へと、めざましい飛躍を遂げていく。

「小さなカードの絵は、まさに子どもたちのイメージの種なのです。土にまき、土をかぶせ、水をかけ、太陽のあたたかさをあててやりさえすれば、かならずみごとな表現になったり、生命をもったものに成長するのです。」

最終的な版画へと至っていくその過程を語るなかで、教師は「はじめにイメージありき」という印象深いことばをも残している。それは明晰な言葉ありきの世界だけでは決して捉えきれない原理が、世界のなりたちにはじめから内在していることを示唆するものであるように思う。

それは自分の制作において、いつからか大切にしていた「絵の声を聴く」という姿勢とも、そのまま共鳴するものであるように感じられた。

描くことは、自分ごとを超えていくいとなみだと思う。

自らが主体となって絵を描くのではなく、絵が自らをとおして描くをしている、ということ、そのような在りようをどこまでも信じていった先に、「絵の声を聴く」は自然と現れてくる。

そのなかにあってはよい絵が描けたときほど、それが自分のお陰、自分の手柄であるなどという風には考えられなくなってしまう。

「虹の上をとぶ船」は、描くことで育まれていった自分の絵にたいする思いをどこまでも深めていくことで、いつか通じていけるかもしれない、ひとつの極点のようにしてある光だった。

それは巨きな絵を描くという困難な航海のなかで、水平線のかなたに小さくともたしかに点る灯台のようにして、凪のときも嵐のときにも、あたたかく旅を見守りつづけてくれたのだった。

(略)