カットグラスの水差し
カットグラスの水差し(21 x 13,5 cm、持ち手含まず)、イギリス製、1820〜40年頃。厚手の重たい水差し。安定感があり、口の大きさも丁度良く、花活けにはもってこいです。
ローソンで売っている黒糖蒸しパンに最近ハマっている。ぶどうとクルミが入っていて美味しい。これを食べながら、フレンチプレスのコーヒーを口に含むときが小さな楽しみである。コンビニのパンは体に悪いので食べないようにしていたのだが、これはきっと体に悪いものは余り入っていないだろうと、勝手に言い聞かせて毎日食べている。昨日はデパートの肉売り場で牛レバーを買い、塩と胡椒で焼いて食べた。たまにはこんな元気の出そうな物を食べないと矢張り夏はバテるようだ。僕は食には余り拘りはないし、あれこれ食べたいとも思わない。昔アイルランドに住んでいたときは、美味しいパンとチーズとパスタとギネスくらいあればそれで一生生きていけると思ってもいた。ただ、この偏食が祟り今は時々痛風の発作に悩まされている。同じような人は多いと思うが、一旦ある食べ物が気に入るとそればかり続けて食べる癖がある。カレーも好きだ。毎日カレーでもいい、朝昼晩全部。おにぎりも好きだ。鍋で米炊いて握る。僕は非常に子供っぽいところがあり、今でも他人の握ったおにぎりが食べられない。自分以外の人が握った、という先入観がもうダメなのだ。例えば、大勢でピクニックとかに行って誰かが握って持って来たおにぎりを皆んなで食べる、というときなども僕はお腹が空いていても絶対に食べない。自分の母親のも昔から余り好きではなかった。まあ、ピクニックに誘われることなど二十年に一回もないので心配無用だが。こんなふうに食べ物の話しをダラダラと書くのは詰まらないと思うし、きっと読んでいても退屈だと思う。寿司屋には余り行かないが、一番好きなのはかんぴょう巻きだ。味覚が自分の懐具合に適応した結果かもしれないが、トロとか聞いてもすぐ忘れるような珍味よりかんぴょう巻きがいい。金沢に長いこと住んでいるのに魚の名前も余り覚えられないし、近江町の市場に行っても、昔からエビとかカニとかは怖くて直視出来ないので視界に入らないように只管下を向いて歩く。子供の頃も理科の図録にあるエビ、カニの写真を見ると悪寒がする程だった。ゴキブリと変わらないくらいあのゲジゲジの姿には恐怖を覚えるのだ。
最後まで下らない話しで今日は終わりそうだ。今日の朝「そらあるき」臨時号に掲載するエッセーを書いたので、そこで今日の真面目エネルギーを使い果たしたのかもしれない。この間、朝日新聞に芥川賞受賞者の若い男性の受賞記念エッセーが掲載されていたが、余りにも酷くて、書いた奴にも載せた奴にも腹が立ちどうしようもなかった。まあ、あんな恥知らずな若者は早々にろくな物など書けず消えていくだろう。そう言えば、富山出身のもう一人の女性のエッセーも酷かった。二人とも何にも語ってない。何も語らず紙面を無駄にし、読者の時間を無駄にし、自分は原稿料を貰う、と言うそのセコさに腹が立つ。
こういうすれた物書きの端くれは先ず、書き手としての誠実さ、について真剣に考えたらいいと思う。まあそんな頭がどこかに残っていればだが。芥川でも安吾でも太宰でも誰でもいい。明治、大正期に生まれた作家の書き手としての誠実さを眺めてみるといい。広津和郎なんかを読むといい。兎に角、こんなすれた心持ちの人間が「作家」と呼ばれていることにバカらしさを覚える。かんぴょう巻きでもほおばっているほうがまだましだ。