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郷愁の詩人 与謝蕪村 ②

2020.08.24 07:52

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html  【郷愁の詩人 与謝蕪村】 萩原朔太郎  より

春の部

遅き日のつもりて遠き昔かな

 蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に咏嘆えいたんしていることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の咏嘆しているものは、時間の遠い彼岸ひがんにおける、心の故郷に対する追懐であり、春の長閑のどかな日和ひよりの中で、夢見心地に聴く子守唄こもりうたの思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ほかならないのだ。

春の暮家路に遠き人ばかり

 薄暮はくぼは迫り、春の日は花に暮れようとするけれども、行路こうろの人は三々五々、各自に何かのロマンチックな悩みを抱いて、家路に帰ろうともしないのである。こうした春の日の光の下で、人間の心に湧わいて来るこの不思議な悩み、あこがれ、寂しさ、捉とらえようもない孤独感は何だろうか。蕪村はこの悲哀を感ずることで、何人よりも深酷しんこくであり、他のすべての俳人らより、ずっと本質的に感じやすい詩人であった。したがってまた類想の句が沢山あるので、左にその代表的の句数篇を掲出する。

今日のみの春を歩いて仕舞しまいけり

歩行歩行ありきありきもの思ふ春の行衛ゆくえかな

まだ長うなる日に春の限りかな

花に寝て我わが家遠き野道かな

行く春や重たき琵琶びわの抱だきごころ

春の夜や盥たらいを捨る町はづれ

 生なま暖かく、朧おぼろに曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川みぞがわが流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行ったというのである。裏町によく見る風物で、何の奇もない市中風景の一角だが、そこを捉えて春夜の生ぬるく霞かすんだ空気を、市中の空一体に感触させる技巧は、さすがに妙手と言うべきである。蕪村の句には、こうした裏町の風物を叙したものが特に多く、かつ概おおむね秀すぐれている。それは多分、蕪村自身が窮乏しており、終年裏町の侘住わびずまいをしていたためであろう。

春雨や小磯の小貝濡ぬるるほど

 終日霏々ひひとして降り続いている春雨の中で、女の白い爪つめのように、仄ほのかに濡れて光っている磯辺の小貝が、悩ましくも印象強く感じられる。

片町に更紗さらさ染めるや春の風

 町の片側に紺屋こうやがあって、店先の往来で現に更紗を染めているという句であるが、印象としては、既に染めた更紗を、乾燥のために往来へ張り出していると解すべきであろう。赤や青やの派手な色をした更紗が、春風の中に艶なまめかしく吹かれているこの情景の背後には、如何いかにも蕪村らしい抒情詩があり、春の日の若い悩みを感ずるところの、ロマネスクの詩情が溢あふれている。

春水しゅんすいや四条五条の橋の下

 この句を読んで聯想れんそうするのは、唐詩選にある劉廷芝りゅうていしの詩「天津橋下陽春ノ水。天津橋上繁華ノ子。馬声廻合ス青雲ノ外ほか。人影揺動緑波ノ裏うち。」の一節である。おそらくは蕪村の句も、それから暗示を得たのであろう。唐詩選の詩も名詩であるが、蕪村の句もまた名句である。

春の海終日ひねもすのたりのたりかな

 だれも知ってる名句であるが、のたりのたりという言葉の音韻が、浪なみの長閑のどかな印象をよく表現し、ひねもすという語のゆったりとした語韻と合って、音象的に非常に強く利いてるのである。

橋なくて日暮れんとする春の水

 こうした春の郊外野景を描くことで、蕪村は特殊の画才と詩情とを有している。次の句もまたこれと同題同趣である。

春風や堤つつみ長うして家遠し

 この句は「春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく」の主題となってる。春風馬堤曲は、蕪村の試みた一種の新しい長詩であって、後に紹介する如く、彼のポエジイの最も純粋な主題的表現である。

春雨や人住んで煙けむり壁を洩もる

 蔦つたかずらの纏まとう廃屋の中から、壁を伝って煙が洩れてる。(人が来て住んだために。)その煙は空に融とけ合い、霏々ひひとして降る春雨の中で、夢のように白く霞かすんでいるのである。廃屋と、煙と、春雨と、好個の三画題を取り合せて、真に縹渺ひょうびょうたる詩情を描き出している。蕪村名句中の一名句である。

陽炎かげろうや名も知らぬ虫の白き飛ぶ

 この句の情操には、或る何かの渇情かつじょうに似たところの、ロマンチックの詩情がある。「名も知らぬ虫」という言葉「白き」という言葉の中に、それが現われているのである。某氏初期の新体詩に

若草萌もゆる春の野に

さまよひ来れば陽炎や

名も知らぬ虫の飛ぶを見て

ひとり愁ひに沈むかな

 と言うのがある。西詩せいしに多く見るところの、こうした「白愁」というような詩情を、遠く江戸時代の俳人蕪村が持っていたということは、実に珍しく不思議である。

白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと

 昔、恋多き少年の日に、白梅の咲く垣根の外で、誰れかが自分を待っているような感じがした。そして今でもなお、その同じ垣根の外で、昔ながらに自分を待っている恋人があり、誰れかがいるような気がするという意味である。この句の中心は「誰が」という言葉にあり、恋の相手を判然としないところにある。少年の日に感じたものは、春の若き悩みであったところの「恋を恋する」思いであった。そして今、既に歳月の過ぎた後の、同じ春の日に感ずるものは、その同じ昔ながらに、宇宙のどこかに実在しているかも知れないところの、自分の心の故郷ふるさとであり、見たこともないところの、久遠くおんの恋人への思慕である。そしてこの恋人は、過去にも実在した如く、現在にも実在し、時間と空間の彼岸ひがんにおいて、永遠に悩ましく、恋しく、追懐深く慕われるのである。

妹いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲きぬ

 万葉集の恋歌にあるような、可憐かれんで素朴な俳句である。ここで「妹」という古語を使ったのは、それが現在の恋人でなく、過去の幼な友達であったところの、追懐を心象しているためであろう。それ故に三味線草(ぺんぺん草)の可憐な花が、この場合の詩歌によく合うのである。句の前書には「琴心挑美人きんしんもてびじんにいどむ」とあり、支那の故事を寓意ぐういさせてあるけれども、文字の字義とは関係なく、琴の古風な情緒が、昔のなつかしい追懐をそそるという意味で使ったのだろう。この句もやはり前のと同じく、実景の写生でなくして、心象のイメージに托した咏嘆詩であり、遅き日の積つもりて遠き昔を思う、蕪村郷愁曲の一つである。

鶯うぐいすの鳴くやちいさき口開けて

 単純な印象を捉とらえた、純写生的の句のように思われる。しかし鶯という可憐な小鳥が、真紅しんくの小さな口を開けて、春光の下に力一杯鳴いてる姿を考えれば、何なんらかそこにいじらしい、可憐かれんな、情緒的の想念が感じられる。多分作者は、こうした動物の印象からして、その昔死別れた彼の幼ない可憐な妹(蕪村にそうした妹があったかどうか、実の伝記としては不明であるが)もしくは昔の小さな恋人を追懐して、思慕と恋愛との交錯した情緒を感じ、悲痛な咏嘆えいたんをしたのであろう。前掲の「妹が垣根」や「白梅や」等の句と対比して鑑賞する時、こうした蕪村俳句の共通する抒情味がよく解るのである。

行く春や白き花見ゆ垣の隙ひま

 この句もまた、蕪村らしく明るい青春性に富んでいる。元来日本文化は、上古の奈良朝時代までは、海外雄飛の建国時代であったため、人心が自由で明るく、浪漫的ろうまんてきの青春性に富んでいたのであるが、その後次第に鎖国的となり、人民の自由が束縛されたため、文学の情操も隠遁的いんとんてき、老境的となり、上古万葉の歌に見るような青春性をなくしてしまった。特に徳川幕府の圧制した江戸時代で、一層これが甚だしく固陋ころうとなった。人々は「さび」や「渋味」や「枯淡」やの老境趣味を愛したけれども、青空の彼岸ひがんに夢をもつような、自由の感情と青春とをなくしてしまった。しかるに蕪村の俳句だけは、この時代の異例であって、そうした青春性を多分に持っていた。前出した多くの句を見ても解る通り、蕪村の句には「さび」や「渋味」の雅趣がすくなく、かえって青春的の浪漫感に富んでいる。したがって彼の詩境は、「俳句的」であるよりもむしろ「和歌的」であり、上古奈良朝時代の万葉集や、明治以来の新しい洋風の抒情詩などと、一脈共通するところがあるのである。

菜の花や月は東に日は西に

 これも明るい近代的の俳句であり、万葉集あたりの歌を聯想れんそうされる。万葉の歌に「東の野に陽炎かげろうの立つ見えて顧かえりみすれば月傾きぬ」というのがある。

菜の花や鯨くじらも寄らず海暮くれぬ

 菜種畠なたねばたけの遠く続いてる傾斜の向うに、春昼の光に霞かすんだ海が見え、沖では遠く、鯨が潮しおを噴ふいてるのである。非常に光の強く、色彩の鮮明な南国的漁村風景を描いてる。日本画よりはむしろ油絵の画題であろう。

菜の花や昼ひるひとしきり海の音

 前と同様、南国風景の一であり、閑寂かんじゃくとした漁村の白昼まひる時を思わせる。

山吹やまぶきや井手いでを流るる鉋屑かんなくず

 崖下がけしたの岸に沿うて、山吹が茂り咲いている。そこへ鉋屑が流れて来たのである。この句には長い前書が付いており、むずかしい故事の註釈もあるのだが、これだけの叙景として、単純に受取る方がかえって好い。

行く春や逡巡として遅桜おそざくら

「逡巡しゅんじゅん」という漢語を奇警きけいに使って、しかもよく効果を納めている。芭蕉もよく漢語を使っているが、蕪村は一層奇警に、しかも効果的に慣用している。一例として

桜狩さくらがり美人の腹や減却す

人間に鶯うぐいす鳴くや山桜

 人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いているのである。「人間」という言葉によって、それが如何いかにも物珍しく、人跡全く絶えた山中であり、稀まれに鳴く鶯のみが、四辺の静寂を破っていることを表象している。しかるに最近、独自の一見識から蕪村を解釈する俳人が出、一書を著して上述の句解を反駁はんばくした。その人の説によると、この句の「人間」は「にんげん」と読むのでなく、「ひとあい」と読むのだと言うのである。即ち句の意味は、行人こうじんの絶間絶間たえまたえまに鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くというのでないと主張している。句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。しかしこの句の生命は、人間にんげんという言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、某氏のように読むとすれば、平凡で力のない作に変ってしまう。蕪村自身の意味にしても、おそらくは「人間にんげん」という言葉において、句作の力点を求めたのであろう。

海手うみてより日は照てりつけて山桜

 海岸に近い南国の風景であり、光と色彩が強烈である。蕪村は関西の人であり、元来が南国人であるけれども、好んでまた南国の明るい風物を歌ったのは、彼自身が気質的にも南国人であったことを実証している。これに反して芭蕉は、好んで奥州おうしゅうや北国の暗い地方を旅行していた。芭蕉自身が、気質的に北国人であったからだろう。したがってまた、芭蕉は憂鬱ゆううつで、蕪村は陽快。芭蕉は瞑想的めいそうてきで、蕪村は感覚的なのである。

畠はたうつや鳥さへ啼なかぬ山蔭やまかげに

 山村の白昼まひる。山の傾斜に沿うた蔭の畠で、農夫が一人、黙々として畠を耕たがやしているのである。空には白い雲が浮うかび、自然の悠々たる時劫じこうの外、物音一つしない閑寂さである。

柴漬ふしづけの沈みもやらで春の雨

 春雨模糊もことした海岸に、沈みもやらで柴漬が漂っている。次の句も類想であり、いずれ優劣のない佳句である。

よもすがら音なき雨や種俵たねだわら

うぐひすや家内揃そろふて飯時分めしじぶん

 春の日の遅い朝飯。食卓には朝の光がさし込み、庭には鶯うぐいすが鳴いてる。「揃ふて」という言葉によって、一家団欒だんらんのむつまじい平和さを思わせる。

鶯うぐいすのあちこちとするや小家こいえがち

「籬落りらく」という題がつけてある。生垣いけがきで囲われた藁わら屋根の家が、閑雅に散在している郊外村落の昼景である。「あちこちとする」という言葉の中に、鶯のチョコチョコした動作が、巧みに音象されていることを見るべきである。同じ蕪村の句で「鶯の鳴くやあち向むきこちら向」という句も、同様に言葉の音象で動作を描いてる。

鶯うぐいすの声遠き日も暮れにけり

 春の暮方くれがたの物音が、遠くの空から聴きこえて来るような感じがする。古来日本の詩歌には、鶯を歌ったものが非常に多いが、殆ほとんど皆退屈な凡歌凡句であり、独り蕪村だけが卓越している。

閣かくに座して遠き蛙かわずをきく夜哉かな

「閣」というので、相応眺望の広い、見晴しの座敷を思わせる。情感深く、詩味に溢あふれた名句である。

これきりに径こみち尽きたり芹せりの中

 塵芥に埋れた径こみち。雑草に混まじって芹が生えているのだろう。晩春の日の弱い日だまりを感じさせるような、或る荒寥こうりょうとした、心の隅の寂しさを感じさせる句である。

古寺ふるでらやほうろく捨てる芹せりの中

 荒廃した寺の裏庭に、芥捨場ごみすてばのような空地がある。そこには笹竹ささだけや芹などの雑草が生え、塵芥にまみれて捨てられてる、我楽多がらくたの瀬戸物などの破片の上に、晩春の日だまりが力なく漂っているのである。前の句と同じく、或る荒寥とした、心の隅の寂しさを感じさせる句であるが、その「寂しさ」は、勿論厭世えんせいの寂しさではなく、また芭蕉の寂びしさともちがっている。前の句やこの句に現われている蕪村のポエジイには、やはり彼の句と同じく人間生活の家郷に対する無限の思慕と郷愁(侘わびしさ)が内在している。それが裏街の芥捨場や、雑草の生える埋立地うめたてちで、詩人の心を低徊ていかいさせ、人間生活の廃跡に対する或る種の物侘しい、人なつかしい、晩春の日和ひよりのような、アンニュイに似た孤独の詩情を抱かせるのである。

 因ちなみに、この句の「捨てる」は、文法上からは現在の動作を示す言葉であるが、ここでは過去完了として、既に前から捨ててある意味として解すべきでしょう。

骨拾ふ人に親しき菫すみれかな

 焼場に菫が咲いているのである。遺骨を拾う人と対照して、早春の淡あわい哀傷がある。

春雨や暮れなんとして今日も有あり

「暮れなんとして」は「のたりのたり」と同工風[#「同工風」はママ]。時間の悠久を現あらわす一種の音象表現である。

梅遠近おちこち南みんなみすべく北すべく

「遠近おちこち」という語によって、早春まだ浅く、冬の余寒が去らない日和ひよりを聯想れんそうさせる。この句でも、前の「春雨や」の句でも、すべて蕪村の特色は、表現が直截明晰めいせきであること。曲線的でなくして直線的であり、脂肪質でなくして筋骨質であることである。そのためどこか骨ばっており、柔らかさの陰影に欠けるけれども、これがまた長所であって、他に比類のない印象の鮮明さと、感銘の直接さとを有している。思うに蕪村は、こうした表現の骨法を漢詩から学んでいるのである。古来、日本の歌人や俳人やは、漢詩から多くの者を学んでおり、漢詩の詩想を自家に飜案化している人が非常に多い。しかし漢詩の本質的風格とも言うべき、あの直截で力強い、筋骨質の気概的表現を学んだ人は殆ほとんど尠すくない。多くの歌人や俳人やは、これを日本的趣味性に優美化し、洒脱化しゃだつかしているのである。日本の文学で、比較的漢詩の本質的風格を学んだ者は、上古に万葉集の雄健な歌があり、近世に蕪村の俳句があるのみである。

女倶ぐして内裏だいり拝まん朧月おぼろづき

 春宵の悩ましく、艶なまめかしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されてる。「春宵怨しゅんしょうえん」とも言うべき、こうしたエロチカル・センチメントを歌うことで、芭蕉は全く無為むいであり、末流俳句は卑俗な厭味いやみに低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀すぐれた句を書いているのは、彼の気質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇はんちゅうを逸いっする青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。次にその類想の秀句二、三を掲出しよう。

春雨や同車の君がさざめ言ごと

筋すじかひにふとん敷しきたり宵の春

誰たが為ための低き枕まくらぞ春の暮

春の夜に尊き御所ごしょを守もる身かな

 注意すべきは、これらの句(最後の一句は少し別の情趣であるが)を見ても解る如く、蕪村のエロチック・センチメントが、すべてみな主観の内景する表象であって、現実の恋愛実感でないことである。この事は、彼の孤独な伝記に照して見ても肯うなずけるし、前に評釈した「白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと」や「妹いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲きぬ」やを見ても、一層明瞭めいりょうに理解され得るところであろう。彼のこうした俳句は、現実の恋の実感でなくして、要するに彼のフィロソヒイとセンチメントが、永遠に思慕し郷愁したところの、青春の日の悩みを包む感傷であり、心の求める実在の家郷への、リリックな咏嘆えいたんであったのである。

白梅しらうめに明ける夜ばかりとなりにけり

 天明てんめい三年、蕪村臨終の直前に咏えいじた句で、彼の最後の絶筆となったものである。白々とした黎明れいめいの空気の中で、夢のように漂っている梅の気あいが感じられる。全体に縹渺ひょうびょうとした詩境であって、英国の詩人イエーツらが狙ねらったいわゆる「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。しかしこうした句は、印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、従来の句に見られなかった異例である。かつどこかスタイルがちがっており、句の心境にも芭蕉風の静寂な主観が隠見している。けだし晩年の蕪村は、この句によって一ひとつの新しい飛躍をしたのである。もしこれが最後の絶筆でなかったならば、更生の蕪村は別趣の風貌ふうぼうを帯びたか知れない。おそらく彼は、心境の静寂さにおいて芭蕉に近づき、全体としての芸術を、近代の象徴詩に近く発展させたか知れないのである。そしてこの臆測おくそくは、蕪村の俳句や長詩に見られる、その超時代的の珍しい新感覚――それは現代の新しい詩の精神にも共通している――を考え、一方にまた近代の浪漫ろうまん詩人や明治の新体詩人やが、後年に至って象徴的傾向の詩風に入った経過を考える時、少しも誇張の妄想でないことを知るであろう。