ユニテリアンとは何か
https://blog.goo.ne.jp/humon007/e/cf6a01926abd393c6e02f08b30338eee 【ユニテリアンとは何か】 より
橋爪大三郎は、日本ではルター派の教会に属しているが、米国ではユニテリアンの教会に属している。ユニテリアンはほかの教会と二重に所属していても問題はない。
ユニテリアンでは、キリスト教の大枠を維持しながらも、キリスト教の本質だと考えられていた三位一体説や、イエス・キリストは神の子であるというドグマ(教義)を排除している。
ユニテリアンの大きなポイントは、教派縦断的で、ほかの宗派と同様にイエスが救いであること。ただし、神秘的、超越的な救いではなく、イエスを偉大な先生と考える。ユニテリアンにとってのイエスは、『論語』が伝える孔子に近い。
三一論や神の子であるイエス・キリストという伝統的な考え方を排除していくと、ユダヤ教やイスラム教に近くなってくる。伝統的なドグマを排除していけば、キリスト教ではなくなってしまう。とはいえ、ユニテリアン教会に通う人びとの考え方や行動は、従来のキリスト教徒とほとんど同じだ。
橋爪が通うユニテリアン教会は、もともとプロテスタントのカルヴァン派の教会だった。150年ほど前に、ユニテリアンの考え方をする人びとが多くなった。議論の結果、ユニテリアン教会に看板を掛け替えると決議した。カルヴァン派の信徒たちは、それなら自分たちは出て行く、とすぐ近くに同じ名前の教会を建てた。似た名前の教会が二つ近くにあることになった。
なぜユニテリアンという宗派が生まれたのか。
19世紀、キリスト教徒は、イエス・キリストの存在を実証できるか、奇蹟や啓示を証明できるか、という実証主義の波にもまれた。
19世紀は、科学が楽天的に信じられていた時代だった。自然現象に加えて社会現象など、さまざまな対象に科学の方法が向けられていった。宗教も例外ではなかった。「史的イエス研究」もそうだ。聖書を人間がつくり出した文章と考えて、その成立の経緯や論理構造を化学的な方法で解明していった。
当時の健全な一般市民が、共通して納得できるのは科学、哲学、歴史学だったから。しかし、科学、哲学、歴史学を通してイエス・キリストの存在を証明しようとしたが、できなかった。神の子の可能性もあるが、もしかしたらただの人間だったかもしれない、と。イエス・キリストとは何だったのか、という疑問だけが残った。
その議論を通じてすべての人間が共通して納得できたのは、人間でアルということだ。だから、ユニテリアンも、イエス・キリストを人間だと考えた。むろん、神だと信じている人がユニテリアンのメンバーになってもいいけれど、ほかの人にその考えを強制しない、という約束がある。だから、ユニテリアン教会のメンバーには、キリスト教徒でない人もいる。
イエス・キリストは、まことの神でまことの人だから、まことの人と考えているのなら構わない。そして偉大な先生でも、ただの人でもいいが、ただしイエスは救い主である、という態度だ。
ユニテリアン教会では、ジーザスという名前はあまり耳にしない。ゴッドという言葉もあまり聞かない。Aさんがゴッドを信仰して、Bさんがブッダを、Cさんが人智を超えた超越的な何かを信じて、Dさんが唯物論者だとしても、互いが互いの信仰を尊重していればいいという考え方だ。
それがひとつの宗派なのか・・・・実際、米国では、ユニテリアンをキリスト教ではないと考える人のほうが多い。
https://www.wordoflife.jp/bible-792/ 【ユニテリアンとは?】 より
ユニテリアン…[英語]Unitarians.この名で呼ばれる人々は一定の信条を持たず,信仰内容に多様な面が見られるが,キリスト教正統教理の中心である三位一体とキリストの神性の教理を否定し,神の単一性(unity)を強調,自由と理性と寛容とを尊重する点で共通している.宗教団体としては宗教改革時代に組織されたが,モナルキア主義者,アリウス主義者は,その先駆者であったと言ってよい.ジュネーブで焚殺刑に処せられたミカエル・セルヴェトゥス(1553年没)は,三位一体論を払拭することでユダヤ教徒やイスラム教徒のキリスト教への改宗を促進できると考えていた.同様な主張は,ハンガリー,ポーランドにも見られた.<復> 17世紀のオランダや英国で,教会に大きな影響を与えたソッツィーニ主義はユニテリアン主義と言うことができる.ソッツィーニの影響を受けて,三位一体論には聖書的根拠を見出すことができないと考え,サミュエル・クラーク(1729年没)のようにアリウス主義の立場に移行する者が英国教会に多く見られた.ただし1813年まで,三位一体の教理の否定は死罪に当るものとされたので,多くの者は公然と否定して処刑される危険を避けて,三位一体について説教したり教えたりしないようにしていた.多くの長老主義者も,ウェストミンスター信仰規準に表現されている正統主義の立場を離れ,単純素朴と言われた″聖書的″キリスト教へ移っていった.リチャード・プライス(1791年没),ジョウゼフ・プリーストリ(1804年没)等のバーミングハムのグループは,キリストの神性,聖書の霊感等の基本的教理をも否定するに至った.ここから,新しい哲学,科学的理念が導入され,理性や経験が重んじられるようになった.さらに,英国教会から分離したテオフィラス・リンジ(1808年没)によって,ユニテリアンのもう一つの流れがロンドンに組織されていた.彼は新しい礼拝様式を導入し,父なる神にのみ礼拝をささげた.イエスを尊びはしたが,聖書を正しく理解するならば礼拝において,イエスと父なる神とは全く区別されなければならないと主張した.しかし,ドイツの聖書批評学の影響を受けた彼らは,聖書の権威から離れて,新しい宗教的権威を見出さなければならなくなる.1791年,トマス・ベルシャム(1829年没)によって,最初のユニテリアン協会が全国規模で組織された.この時以来,ユニテリアンという名称が,特定の教派とその神学的立場を表す用語として英国から始まり,米国でも広く用いられるようになった.<復> 英国では,ユニテリアンに二つの思想的流れを見ることができる.一つは,神の実在より人間的宗教を強調し,政治的にはラディカルな立場をとるもの,もう一つは,神秘的傾向を持ち,キリスト教の神的性格を強調するものである.後者の流れにおいて,ユニテリアン教会の神学と霊性を深めるために大きな貢献をした人物として,ジェイムズ・マーティノー(1900年没)が知られている.彼はマンチェスターのニュー・カレッジの学長を務め,哲学的有神論を唱導し,ヴィクトリア王朝時代の思想と宗教の調和をはかり,人々の関心を集めた.禁酒運動の指導者でもあった.<復> 19世紀の終りには,理性の役割がさらに強調されるところとなり,ユニテリアンは,議会,福祉,教育,知的生活の改革に深くかかわったが,20世紀に入り,後退の道をたどった.<復> 同様な傾向は米国でも見られ,多くの会衆派教会が,カルヴィニズムの教理を退けて,アリウス主義的傾向を深めた.ウィリアム・エラリ・チャニング(1842年没)は,ボストンの会衆派教会の牧師として,三位一体,キリストの神性,全的堕落,代替的贖罪をことごとく否定する説教を行い,同様な立場に立つ教職者の協議会を組織した.1825年にこの協議が発展的にアメリカ・ユニテリアン協会となった.チャニングは奴隷制廃止運動の指導者としても活躍し,キリスト教会を過去の腐敗から解放し,人間性の完成を目標とするものに改めようと努めた.同様の活動をさらにラディカルに行った会衆派の牧師,セオドア・パーカーの果した役割も大きい.彼らの主張は,アメリカの知識人たちには,プロテスタントの成長要因と考えられた.神の単一性の強調は,この運動における多くのスローガンの一つにすぎないものとされ,新しい知識に対する開放的態度,社会改革に対する熱心,他宗教に対する同情的接近等が,独立戦争後の科学的楽観主義者たちをキリスト教化するのに大きな力となったと言われる.しかし,20世紀に入り,ユニテリアンの影響は著しく低下したと言われる.彼らのメッセージが,特に今世紀後半のアメリカ人社会の動きに連動しなくなってきたことが要因とされている.キリストの福音の核心を見落したユニテリアン主義のメッセージが,後退と混乱の中から再生を目指すアメリカ国民に希望をもたらすものとなり得なかったのはごく自然なことであった.1961年に万人救済主義者(ユニヴァーサリスト)と合同で設立されたユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会は,すでに教派的独自性を失うものとなっており,今後の教団としての再生を非常に難しくしていると言う.<復> わが国にユニテリアンを紹介したのは,小説家・政治家であった矢野文雄(1931年没)であり,ユニテリアンを国教とする提案を行っている.1887年米国より宣教師A・M・ナップが派遣されており,1889年,日本ユニテリアン協会が組織された.福音主義・正統主義の立場を拒否するユニテリアン・グループの,キリスト教会に与えた混乱には決して無視できないものがあった.しかし,彼らはやがて社会主義運動へ大きく傾き,安部磯雄,村井知至らが活躍した.1911年,内ケ崎作三郎が牧師となり,統一基督教会と改称されたが,関東大震災後,教派としての活動は停滞していると言われる.戦後は,日本自由宗教連盟の設立に加わり今日に至る.→三位一体・三位一体論争,キリスト論,キリスト論論争,万人救済説.(橋本龍三)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)