今日はより一層かわいい。
「ルイス、明日は何か予定があるのかい?」
ここ数日、ウィリアムは学会に提出する論文の仕上げのため部屋にこもりきりであった。
論じる内容は頭の中に次から次へと湧いて溢れてくるのに手が追いつかないのは厄介なことだと、そう考えながら他者の反論など一切受け付けない完璧な作品が完成したのはつい先程のことだ。
溜まった疲れを癒すように、愛しい弟が淹れる香り高い紅茶と作り立てのアップルパイを堪能する。
そうして目の前に座るルイスの顔を見れば、ここしばらくともに過ごせなかった時間の分だけ嬉しそうにはにかんでいた。
その表情はウィリアムの胸を的確に擽る心地良さを持っていて、抱えていた疲労が途端に淡く癒えていくのを実感する。
ウィリアムがルイスを可愛いと思うのは今に始まったことでもないが、それでも実感せずにはいられないのだ。
たった一人の弟は、ウィリアムの目から見れば他の誰よりも何よりも可愛らしい。
忙しさがようやくひと段落ついた今、彼とともに他愛もない日常を過ごしたいと思うのは自然な欲求だろう。
「明日ですか?特に予定はありません。何か御用でしょうか?」
ウィリアムからの問い掛けに間髪入れず返したルイスだが、彼はたとえ明日に重要な予定が入っていたとしても、ウィリアムのためならば構わず全てをキャンセルしてしまうだろう。
ルイスの優先順位はいつだって自分であることをウィリアムは知っているし、それを熟知しているからこそ声をかけたのだ。
ルイスの口から自分を優先する言葉を聞くだけで、ウィリアムの独占欲は堪らなく満たされる。
「それは良かった。明日、一緒にロンドンまで出掛けようか」
「アルバート兄様の元へ帰るのですか?」
「夜にはね。昼間は街を少し歩こう。ここしばらく部屋に缶詰状態だったから、気分転換にルイスと歩きたい気分なんだ」
「分かりました」
ウィリアムとともに過ごす時間が嬉しいようで、ルイスの顔は先程まで見せていたはにかむような表情ではなく隠しきれない笑みが浮かんでいた。
どこか浮き足立った雰囲気すら感じられきて、寂しい思いをさせていたのだと思い知らされるようだ。
ウィリアムとてルイスの気配を感じるだけのこの屋敷の中、一人黙々と机に向かっている時間は充実していながらもどこか寒々しい気分を抱いていた。
ルイスもルイスでウィリアムの邪魔にならないよう最低限しか声をかけてこなかったし、おかげで予定よりも早く論文を書き終えたのも事実だ。
けれど、寂しい気持ちを抱かないはずもなかった。
ルイスはウィリアムに依存的であるよう、ウィリアム自身が徹底して教え込んできたのだから当然だ。
兄を思い寂しさを耐えて過ごし、こうして時間を同じに出来ることを心待ちにする。
そんな弟の分かりやすい姿を見て、可愛いなぁと思うのは兄として当然の心理だろう。
存分に構ってあげたいし、構いたいと思う。
ウィリアムは目の前で明日に思いを馳せてうきうきとしているルイスを見て、からかうように声をかけた。
「ふふ。久々のデートだね」
いつも一緒にいるのだから今更デートごときで照れる関係でもないはずなのに、ウィリアムの言葉を聞いたルイスは大きな瞳を見開いて一瞬置いた後、真っ白な頬を薄く染めた。
合っていた視線が不意に外されて綺麗な赤に自分が映らなくなったことは悲しいけれど、照れているルイスの姿はそれ以上の価値がある。
外した視線の先には食べかけのアップルパイがあり、こんがり焼けたパイ生地をじっと見つめてはチラチラとウィリアムに目をやって気にかけている。
デートという単語だけで羞恥を感じている初心な様子はとても可愛らしい。
口元にくすりと笑みを浮かべたウィリアムは身を乗り出してルイスの顎に指をかけ、逸らされた視線を合わせるように自分の顔と向き合わせる。
大きな瞳がときめくように揺らぐ様子を見やり、一際甘い表情を浮かべながらルイスにだけ聞こえる声量で囁いた。
「ルイス、明日は二人きりで街を歩こうか」
「は、い」
「僕は論文の提出があるし、せっかくだから駅で待ち合わせよう。午後一時、ダラム駅の改札前で落ち会おう」
「分かりました」
論文の提出くらい付き合うのに、と言いたい気持ちがその表情に乗っているけれど、ウィリアムの提案を遮ることなくルイスは了承する。
ウィリアムからの特別な命令に逆らうことなど、ルイスには出来るはずもないのだ。
それに同じ家に住んでいるのにわざわざ外で待ち合わせて出掛けるなど、まるで恋人同士の戯れのようである。
今までに経験がないせいか、それとも久々に堪能する二人きりの時間を想像したからか、ルイスの胸が疼くようにときめいた。
それを表すように頬と目元は赤く染まり、瞳には期待が込められ輝いている。
ウィリアムは可愛い弟の可愛い表情を堪能するべく、身を乗り出したまま互いの額を合わせて赤い瞳を見つめていた。
大学の事務を通して分厚い書類の束を提出し、ウィリアムは駅まであと数分だろう場所で馬車を止めるよう御者に指示を出す。
先に待っているであろうルイスの元へは自分の足で向かいたかった。
ルイスとの約束の時間までまだ余裕があるけれど、きっと彼は早くに着いて自分を待っているだろうことは予想が付く。
待機ではない、初めてする待ち合わせというものを、ルイスはどのような様子で待っているのだろうか。
昨日の様子から察することは出来るけれど、実際この目で見ておきたかったのだ。
ウィリアムはルイスに負けず劣らず浮き足立ったように歩みを進め、さぞ可愛い姿を見せてくれるだろう弟を想いながら期待に満ちた瞳を煌めかせた。
「ルイスは…あぁ、いた」
のどかなダラム駅のロータリーに近寄り、広場に足を踏み入れる前に視線を彷徨わせて目的の人物を探す。
今朝自分が巻いてあげたネクタイを身につけ、背筋を伸ばして姿勢正しく立つ品の良い紳士。
線は細いけれど高い身長のおかげで細身のスーツがよく似合っているなと、遠目から見ても様になる綺麗な弟を目に収めてウィリアムは満足げに頷いた。
傷跡を隠すように俯く癖と、患っていた心臓を庇うように左手で右手を支える癖はもう治らないのだろう。
けれどそれがルイスらしさを表しているようで、安心するのも事実だった。
すぐに駆け寄って声をかけようか、それともあまり遠目から見ることのない姿をもう少し堪能していようか、コンマ数秒思い悩む。
足を止めることなく、けれども確実に速度を落として歩いていると、俯いていたはずのルイスが顔を上げて周囲を見渡していた。
待ち合わせ相手である自分を探しているのだろうことは明らかで、ウィリアムは思わず街路樹に紛れるように姿を隠してルイスに見つからないよう距離を取る。
隠れる必要などないし、ルイスが自分の姿を見つければ華やぐように笑ってくれることは分かっていたけれど、ふと湧いた好奇心のままに行動してしまった。
ウィリアムは自分の行動に苦笑しながら視線をルイスへと向けてその様子を観察する。
赤い瞳が特徴的な顔を動かしながらきょろきょろと辺りを見回しては、目的の人が見つからなかったのが一目で分かるように落胆した様子でまた俯く。
幼い頃、迷子になったルイスが懸命に自分を探している姿が思い出される光景だ。
あの頃と違うのは、今この状況がウィリアムの気紛れな思い付きだということが分かっているところだろうか。
不安も焦りもなく、ただ早く会いたいのだという感情ゆえに気持ちが逸っている。
ルイスは一度俯いた顔をしばらく地面に向けていたかと思いきや、またすぐ顔を上げてウィリアムを探している。
そうして見当たらない姿にまたも落胆して、兄弟の揃いで購入した懐中時計で時間を確認していた。
ウィリアムも同じものを取り出して時間を見れば、約束の時間まであと五分という時刻が示されている。
いつから待っていたのだろうか。
今朝まで一緒にいたというのに、待ち合わせ時間よりも随分と早く来てしまうほど自分に会いたかったのだろうか。
否定する証拠を集める方が難しいほど、答えは明白だった。
ウィリアムは自分を求めてそわそわと立ち尽くすルイスの元へ、今度は姿を隠すことなく歩みを進めていく。
「ルイス」
「兄さん!論文の提出、お疲れ様でした」
「待たせたかな。ごめんね、遅くなってしまって」
「いえ、僕も来たばかりです」
少し離れた距離から、ウィリアムは俯いていたルイスに声をかける。
すぐに上がった顔には歓喜の表情が浮かんでいて、その表情を引き出したのは他ならぬ自分なのだという優越感がウィリアムを満たす。
ウィリアムが近くで様子を窺っていて、そわそわと登場を待ち望んでいたことを知られているなど思いもしないルイスは小さな嘘をつく。
恋人同士の定番であろうやりとりは、二人の胸にティーンを思わせるようなときめきを与えていた。
「切符は用意してあります。列車は待機しているようなので乗ってしまいましょう」
「ありがとう。行こうか」
ウィリアムは少し後ろ、いつもの位置に立つルイスの腕を引いて真横に立たせる。
見開いた瞳に微笑みかけて、デートだから、と囁けばまたも頬は淡く染まり、ルイスはウィリアムのすぐ隣を歩いていく。
養子として常に自分を起たせてくれるルイスのことは好ましいが、たまの休日くらいは表向きの立場を忘れ、ただの兄弟として隣に立ってほしいと思うこともあるのだ。
そんなウィリアムの思いに気付いているのかいないのか、ルイスは同じ位置から兄と同じ景色を目に収める。
そうして二人は並んで切符を切り、案内された車両に乗り込んでは向かい合わせに腰を下ろす。
ここからロンドンに行くまで、そしてロンドンの街を出歩いている最中は誰に構うことなく二人きりだ。
「ルイス」
「…何でしょう、兄さん」
いつも感情を見せないよう意識しているはずのルイスが、まるで子どものように拙い隠しごとをする。
愛しい弟が、ウィリアムとともに出かけられる喜びを抑えきれずに全身で歓喜を表現しているのだ。
これを可愛いと表現しないのなら、この世の全てに可愛いものなど存在しないだろう。
ウィリアムはうきうきとしているルイスを愛おしげに見つめ、合った視線をきっかけに名前を呼ぶ。
視線を交わすのも、名前を呼ばれるのも、ともに出掛けるのも初めてではない。
けれどここ最近の忙しさを考えると久しぶりなのは事実で、その一つ一つがとても嬉しいようだ。
浮かれた様子とはにかんだ笑みが可愛くて、ウィリアムは正面に座る弟をじっと見つめては蜜のようにとろんと甘く呼びかける。
「今日、楽しみだね」
「…はい。楽しみです」
「せっかくだし、揃いのタイでも新調しようか」
「良いですね。贔屓の店に行ってみましょう」
久々の逢瀬を楽しもうと声をかければますます喜びに満ちた表情で返される。
だが、愛おしい気持ちを隠さずウィリアムがその顔を見つめていると、さすがに気恥ずかしくなったのか、ルイスからはあからさまに視線を逸らされてしまった。
昨日も同じようなことがあったなと思いながら、今度は無理に顔を合わせるようなことはしない。
その代わり、照れて視線を逸らせるルイスをただひたすらに見つめていく。
そんなウィリアムの視線が居た堪れないのか、ルイスは落ち着きなく視線を彷徨わせては窓の外を見ることでなんとか気持ちを落ち着けていた。
(…あの、兄さん)
(何だい?ルイス)
(……あまり、こちらを見ないでいただけますか)
(どうして?)
(じっと見られていては落ち着かないと言いますか…その、恥ずかしいので)
(照れているルイスもかわいいよ)
(…兄さん)
(いつもルイスはかわいいけれど、今日はより一層かわいいね)
(兄さん…!)
(ふふ)