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ヤマト発見

2020.10.24 14:05

http://sekainonakanowatashi.blog42.fc2.com/blog-entry-42.html  【ヤマト発見】 より

私たちのヤマトは中央アジアに現存する!

1) 失われた10部族と日本

 前号までに書いたが、北王国イスラエルの「失われた10部族」のうち、王家であるエフライム族が最初に日本に到達し、天皇制と神道を作った。歴史的にも、イスラエル王国の滅亡が紀元前722年、神武天皇即位が紀元前660年であり、時間の流れも矛盾しない。そして4~5世紀には、秦氏が日本にやってくる。秦氏は、多大なる文化的貢献をし、いわゆる日本らしさを作った氏族である。養蚕、機織、灌漑、治水、冶金などの技術、そして雅楽などの日本芸能、和紙、日本酒もそう、祇園祭を始めたのも彼らである。そしてエフライム族が作った神道を発展させ、神社を整備した。伊勢神宮の創建にも尽力したのは前述した。稲荷神社はイエス・キリスト神社、八幡神社や八坂神社はヤハウェ神社であった。それらの神社だけでも日本のほとんどの神社を占める。その秦氏も「失われた10部族」であり、ガド族、ルベン族、そしてマナセ族であった。イスラエルからクリミア半島を経由して、シルクロードを東に進み、中央アジアのキルギスではマナセ族の一部がその祖先となった。

2) 秦氏の故郷、弓月国

 秦氏の故郷は、中央アジアのカザフスタン~シンチャンウイグル自治区の一部にあたる、弓月(中国読みクンユエ)という国である。この国の存在は中国の古代史書「資治通鑑(しじつがん)」にも記されている。弓月国は、シルクロードの北方ルート上に属しており、バルハシ湖の南、イリ川付近にあった。そこは早くからキリスト教化されており、秦氏もユダヤ教からキリスト教(古代東方キリスト教=景教、ネストリウス派キリスト教)へ改宗したのである。

 そののち、中国の皇帝たちは周囲の征服した多くの民族を使役し、次々と万里の長城の建設にあたらせた。 中央アジアの人々も、例外ではなく万里の長城建設に駆り出された。 その苦役に耐えかねた多くの人達が、朝鮮半島や日本に逃げたことは、好太王の碑文や「後漢書、東夷伝」に記されている。弓月国の人々も、万里の長城の苦役に耐え切れず、満州を経て朝鮮半島から日本へ逃れてきた。首長の弓月君は、120県(1県=100人)近い大集団を率いて日本に大移住を行った。天皇にとっては、秦氏の技術・資金力や高度な文明の導入は魅力的なものであり、一方、秦氏も天皇に感謝し、よく仕えた。おそらく時代は経ていたとはいえ、同じ「失われた10部族」の血である。お互いすでに、相通ずるものがあったに違いない。

3) ヤマトゥ発見!

 弓月国は、カザフスタン内にあり、東の一部がシンチャンウイグル自治区にかかる。天山山脈のすぐ北側に位置し、南にはキルギスタンが接する。

 昔、この地は、クルジア(Kuldja)=弓月城と呼ばれたが、今でもシンチャンウイグル自治区の中に、クルジアと呼ばれる町は存在する(正式にはYiningという町)。

 そのクルジアのすぐ東南50km位のところ、イリ川上流に「ヤマトゥ」という小さな村がある。英語では、Yamat, Yamata, Yamatuなどと表記される。現在、この地名を地図で発見するのは容易ではないが、私は調べ上げた。ここである。しっかりと検索でも出てくるのである。

 ヤマトゥは、当時の秦氏が、そこに住んでいた時に、自身を呼んでいた呼称であろう。中国人たちは「弓月」と言ったが、彼らは「ヤマトゥ」と呼んでいた。Japanと日本のようなものである。それに「ヤマトゥ」とは、ヘブル・アラム語で、「ヤー・ウマトゥ」であり、「ヤハウェの民」の意味でもある。

 秦氏が日本にやってきたのは4世紀頃であったと考えられている。日本でもちょうどその頃、大和時代が始まり、「大和、山門、倭(やまと)」と呼ぶ時代となったのは、偶然ではあるまい。秦氏が自らの故郷を偲ぶ名前を、日本に付けたのであろう。

 さらに地名の話は続く。その「ヤマトゥ」のさらに東南200km位のところには、驚くことに「ナラ」がある。秦氏が多く住んだ奈良のあたりには、外来語のような地名が多いが、その奈良もこの中央アジア、弓月からとったものなのかもしれない。

 ちなみに奈良県の三輪山の近く、その北東の巻向山の一峰は、万葉集の時代から「弓月ヶ嶽」と呼ばれている。しかもこの一帯には、聖書の「処女懐胎」とそっくりの逸話さえも残っている。

 また同様に秦氏が多く住んだ、九州北部にも弓月国を偲ばせる名前が多い。福岡県には、山門郡大和町という地名、佐賀県には肥前アルプスとも呼ばれる天山山地がある。

 話は変わるが、日本人の名字は数が多いことで知られる。その中で、「ヤマ(山)」が使われる名字も数多い。これも、ヤマトゥから来た可能性がある。特に、山本さん、ヤマモトゥさんなんて、発音が近い気がする。「弓」がつく名前もいくつかある。私がすぐに思いつくところでは、「弓削(ゆげ)」さん、「真弓」さん、「弓田」さんなど。

4) ニホンという呼び名

 ヤマトゥだけではない。8世紀には日本という呼称がすでに使われていたが、そのニホンをヘブル語で書くと、驚くべき事実が隠されている。ヘブライ語のフォントは面倒なので省略するが、ヘブル語のニホンは5文字で、その真ん中の3文字が、神の御名ヤハウェが入っている。前と後ろの残りの2文字はヘブル語アルファベットの「ヌン」であり、それには「忠実な、忠実な相続者」の意味がある。つまり、ニホンという呼び名には、神ヤハウェを中心とし、その周りを忠実な者たちが取り囲むという、国家理想が込められたものであるといえる。

 ヤマトゥ、つまりヤハウェの民であった失われた10部族の秦氏は、故郷で果たせなかった国家理想の夢を、ニホンという第2の故郷で果たそうとしたのである。そして現在に至るまで、日本の皇室は世界でも稀な長さで「エフライムの杖」として続いており、天皇は「祭祀王」として、毎日、世界の平和を祈り、祝福を与え続けている。いつか未来、ユダの杖とエフライムの杖が、一本にまとめられるときまで・・・。秦氏の夢、失われた10部族たちの夢は、イスラエルからはるか遠い、この東方のさいはての国、ニホンにおいて、今、現実のものになり、繁栄を続けているのである。

 最後に、これはわたしの勝手な空想である。ユダの杖とエフライムの杖が、一本にまとめられるときとは、日本からユダヤの至宝、失われた「契約の箱」(アーク)が発見されるときではないだろうか? 一部の事情を知る、影の存在の者たちにとっては、わかっていることなのかもしれないが、「そのとき」、つまりは「終末の時」が来るまで、決して人々に見つからないように隠し続けているような、そんな気がしてならない