中秋の名月をめぐる日本の歴史・文化
https://pixy10.org/archives/post-5510.html 【中秋の名月をめぐる日本の歴史・文化】より
「中秋」の由来
旧暦での季節の分け方は、 春…1月、2月、3月 夏…4月、5月、6月 秋…7月、8月、9月
冬…10月、11月、12月 そしてそれぞれの季節に属する月をさらに、 初(孟) 中(仲)
晩(季)の3つに細分化。よって旧暦の8月が「中秋」となる。
月を見ることは不吉だった?
月見の習慣は古代からあった訳ではないようだ。竹取物語には、月を眺めては悲しむかぐや姫に、「月を見ることは不吉なことだからやめなさい」と制する人がいた、という記述がある。
「春の初めより、かぐや姫、月の面白う出でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。ある人の『月の顔を見るは、忌むこと』と制しけれども、ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣きたまふ。」
「月」は発音から「憑き」を連想させ、何かに取り憑かれるような印象があったのかもしれない。そういえば英語にも”moony”や”lunatic”といった「月」と「狂気」の結びつけがあり、月は元来、怪しい。
中秋の名月よりも九月十三夜の月を愛でる記録に残る日本で初めての月見の宴は919年とされる。
しかし中秋の名月(八月十五夜)ではなく、九月十三夜の月見。
九月十三夜の月を愛でる慣習は中国にも朝鮮にもない日本独自のものらしい。
「八月十五日、九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。」(徒然草239段)
兼好法師によると八月十五日、九月十三日ともに、占星術の二十八宿に基づく月見に適した日らしい。
日本では旧暦八月十五日というと秋雨前線や台風の時期。
翌月の方が月見に適した気象条件だから、ということだろうか。
銀閣寺は九月十三夜の月の運行に合わせて設計された足利義政の建てた慈照寺、観音殿(銀閣)は、九月十三夜に月見の宴を開くための建物だったという説もある。
※大森正夫「京都の空間遺産」より1489年の九月十三夜の月の軌道を再現すると、
18時ちょっと前に銀閣の縁側から山から昇る月を眺め、18時半に銀閣の2階へ上がり窓から池に映った月を眺めるといった月見が楽しめるのだという。
また十五夜の時は起こらない現象として、十三夜では月影が池の浮石にピッタリと重なる趣向が見られる。義政が十三夜の月をこよなく愛した証と言えるだろうか。
月を詠んだ和歌が増えるのは平安末期から
勅撰和歌集で月を題材にした和歌の割合を調べると、平安末期から鎌倉初期に急増していることが分かる。
この頃に月見の習慣が一般的になっていくのだろうか。
最後にこの時期の代表的な歌人、西行が詠んだ中秋の名月。
西行「山家集」には中秋の名月が8首、九月十三夜が3首収録される。
【秋はただ 今宵一夜の 名なりけり 同じ雲居に 月はすめども】
中秋の名月ただ一夜のみが秋の名に値すると賞賛し、
【うちつけに また来ん秋の 今宵まで 月ゆえ惜しく なる命かな】
来年の秋もまたこの月を見たい!中秋の名月のためにこの命が惜しく感じると詠んだ。
https://pixy10.org/archives/34016273.html 【月の満ち欠けにめぐり逢いを見る(新古今和歌集)】 より
「恋・桜・月」は日本文化形成に不可欠な3点セットだった。でも「月」が日本人の心の問題になった時期は遅く、おそらく平安時代後期のあたりから、というのがこの記事。
日本はいつから「月」に目覚めたのか?新古今和歌集(1216年)の月の歌を調べていると、
「月」で「めぐりあい」を詠んだ和歌が目についた。ざっと10首ばかり抜き出してみると、
【思ひ出では 同じ空とは 月を見よ ほどは雲居に めくり逢ふまで】
【めぐり逢はむ 限りはいつと 知らねども 月な隔てそ よその浮雲】
【いくめぐり 空ゆく月も 隔て 契りし中は よその浮雲】
【忘れじと いひしばかりの 名残とて その夜の月は めぐり来にけり】
【照る月も 雲のよそにぞ ゆきめぐる 花ぞこの世の 光なりける】
【めくりあひ 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜はの月かな】
【昔見し 雲居をめぐる 秋の月 いま幾歳か 袖に宿さむ】
【思ひきや 別れし秋に めぐり逢ひて またもこの世の 月を見むとは】
【月を見て 心うかれし いにしへの 秋にもさらに めぐりあひぬる】
【雲晴れて むなしき空に 澄みながら 憂き世の中を めぐる月かな】
海外では古くから「めぐる月」が「死と再生」に結びつき、月の神が「不老不死」と関連する神話が数多い。でも日本では「めぐる月」は13世紀から? なんだろうこの遅さ。
https://pixy10.org/archives/40720505.html【中秋の名月を詠わない古今集。月が不吉な竹取物語】 より
日本ではいつ頃から中秋の名月を愛でていたのか?「古今和歌集」(905年)の秋の巻を開いてみて、あれ?中秋の名月を詠った和歌が一首もない上に、秋の巻・全145首のうち、月の歌はたったの7首だけ。※歌番号…184,191~195,289,312
【木の間より もりくる月の 影見れば心づくしの 秋は来にけり】
ちなみに私はよみ人しらずの一首(184)がスゴく好き。「心づくしの秋」になぜか食欲の秋を連想するから(笑)というのはいったん置いといて、もともと西行が生きた12世紀頃までは、
勅撰和歌集での月を題材にした和歌は多くはないんだ。
日本最古の物語「竹取物語」。
890年代に書かれたとされ、古今和歌集とほぼ同年代。かぐや姫は月が主題ではない上に、
「春の初めより、かぐや姫、月の面白う出でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。ある人の『月の顔を見るは、忌むこと』と制しけれども、ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣きたまふ。」
かぐや姫が月を眺めては悲しんでいるようだから、「月を見ることは不吉なことだからやめなさい」と制する人がいた、という記述がある。
もしかすると「月」は発音から「憑き」を連想させ、何かに取り憑かれるような印象があったのかもしれない。
そういえば英語にも"moony"や"lunatic"といった「月」と「狂気」の結びつけがあり、月は元来、怪しい。だから古今集には月の和歌が少ないのかもしれない。
怪しさから美しさへのイメージの反転はどこで起きるのか?
やっぱり西行なんだろうな、と私は考えている。
https://pixy10.org/archives/40673653.html 【西行、中秋の名月を詠う(山家集)】より
西行の「山家集」を探してみると、中秋の名月を題材にした和歌が8首あった。
【秋はただ 今宵一夜の 名なりけり同じ雲居に 月はすめども】
中秋の名月ただ一夜のみが秋の名に値すると。この日の月が特別だったことがよく分かる一首。
【天の川 名に流れたる かひありて今宵の月は ことに澄みけり】
秋の天の川は特に澄んでいると有名だが、今宵の月もまた格別に澄みわたっているよ。
南東に月。南から南西にかけて天の川が流れる。もちろん毎年、澄んだ月が見られるというわけではなく、天候に恵まれない年もある。次はそんな一首。
【月見れば 影なく雲に つつまれて今宵ならずば 闇に見えまし】
月を空に探しても、雲につつまれて姿が見えない。今宵が十五夜でなかったら、あたりは一面闇だろう。月の光が大切な明かりだった頃ならではの一首。最後に西行らしい一首を紹介しておしまい。
【うちつけに また来ん秋の 今宵まで月ゆえ惜しく なる命かな】
来年の秋もまたこの月を見たい。月のためにこの命が惜しく感じるよ。西行「山家集」
https://pixy10.org/archives/post-3679.html 【中秋の名月よりも九月十三夜の月を愛でる】 より
以前、古今和歌集に中秋の名月の和歌がないことに気がつき、竹取物語に絡めて、当時の月のイメージが原因では?と考えた。
付け加えるなら、そもそもこの頃の日本には月見の習慣なく、唐では八月十五夜に月見をしているらしい、という認識だったようだ。
日本で初めての月見の宴は九月十三夜
記録に残る日本で初めての月見の宴は919年、古今和歌集の編纂を命じた醍醐天皇の時代に催された。だがなぜか中秋の名月(八月十五夜)ではなく、九月十三夜の月見。
九月十三夜の月を愛でる慣習は中国にも朝鮮にもない日本独自のものだとか。遣唐使を廃止し、国風文化を重んじた時代らしい選択といえるのかも。
なぜ満月ではなく十三夜の月?
旧暦8月は現在の暦で9月にあたり、日本は秋雨前線や台風の時期。おそらく気象条件から翌月の月見が適していると判断したのだろう。だが十五夜ではなく十三夜の月を選んだ理由は定かではない。
徒然草の239段には、「八月十五日、九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。」中国の占星術の二十八宿に基づく月見に適した日と兼好法師が説いている。
ただ国立天文台のWebサイトによると、これは計算間違えのようだ。
旧暦9月は現在の暦で10月にあたる。十五夜の月が南の空に昇る真夜中まで見届けるとなると寒い。だから1時間半ほど前倒しの十三夜がちょうどよかったのかもしれない。
西行、九月十三夜の月を詠う
西行「山家集」には、中秋の名月が8首、九月十三夜の月が3首ある。
中秋の名月の和歌については以前まとめたので、ここでは九月十三夜を詠った和歌を1首。
【雲きえし 秋のなかばの 空よりも月は今宵ぞ 名におへりける】
雲のない空に浮かぶ中秋の名月よりも、今宵九月十三夜の空にあおぐ月の方が名月にふさわしい。
銀閣は九月十三夜の月見のため?
大森正夫「京都の空間遺産」によると、足利義政の建てた慈照寺、観音殿(銀閣)は、九月十三夜に月見の宴を開くための建物だったのではと。
1489年の九月十三夜の月の軌道を再現すると、18時ちょっと前に銀閣の縁側から山から昇る月を眺め、18時半に銀閣の2階へ上がり窓から池に映った月を眺めるといった月見が楽しめるのだという。
また十五夜の時は起こらない現象として、十三夜では月影が池の浮石にピッタリと重なる趣向が見られる。私が勝手に「引き算の美学」と総称している、
不足の美、未完の美、余白の美といった日本文化のキーワード。
九月十三夜の月見がはじまった平安時代には意識されなかっただろうが、
日本文化史における美学の英雄である足利義政にとっては、
引き算の美学ゆえの十五夜よりも十三夜だったに違いない。