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西方浄土は月だった!?

2020.08.27 08:42

http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/kokoro/gathirin.html  【月輪観】

心の中に月輪(満月)を観じて、それをしだいに拡大してゆき最終的には宇宙と一体となると観想するのが月輪観です。

細かく云えばその中で広観と斂(れん)観に分かれます。

阿字の周囲の月輪だけを見て、しばらくしたら目を半眼にして念じます。

次に月輪の残像を頭の中に浮かべながら、目を軽く閉じます。

再び半眼にして念じます。呼吸は鼻だけで行います。これを毎座何度か

繰り返し、目を閉じてもはっきりと丸い月が心眼に見えるようになれば

次に、その月を自分の胸の中に入れると観想します。月がぼやけたり

する場合は本尊を見て念じ直し、再び胸中に月を観想します。

ここまでが月輪観の第一段階です。

かなり観想を積んではっきりと見えるようになれば、今度はそれを

拡大したり(広観)、縮小したり(斂観)、自在にできるようにします。

つまり胸中に入れることにより、融合して本尊の月輪と自分の心月輪は

不二一体と観じて、胸中の心月輪がしだいに大きくして行くのです。

そして宇宙まで届いて光明世界に到ります。そこには月輪と宇宙が

一つになった理想世界があり、すがすがしい気持ちになります。

今度はそれを少しずつ小さくしてゆき、最後に自分の胸中に納めます。

しばらくの間明るく清らかなる無我の境地を観想できるようになれば

月輪観は終了で、いよいよ最後の仕上げとして阿字観に進みます。

http://www.e-kazokuso.com/gallery/gallery-1727-50730.html 【 西方浄土は月だった!?~映画『かぐや姫の物語』を見て】 より

かぐや姫が月へと帰ってゆく映画のラストシーン。

調べてみると、このシーンの元ネタは、知恩院の国宝【阿弥陀二十五菩薩来迎図】

ではないかと言われているようです。言われてみると、たしかに似ています。

阿弥陀二十五菩薩来迎図

この絵は別名「早来迎」(はやらいごう)とも呼ばれており、「来迎」とは紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れてやってくることつまり、この絵は亡くなった人を仏さまが迎えにくる図なんですね。

ですから、映画の「お迎えのシーン」は、かぐや姫にとっては月に帰ることでも、共に過ごした人々にとっては、かぐや姫を「亡くす」ことを意味していると思います。

劇中、姫を警護する人々が、バタバタと眠らされていく中、竹取のおじいさん・おばあさんが「姫、姫ぇ~」とかぐやの乗った雲を追いかけるシーン。

この生別とも死別ともとれる、涙なしでは見れない「別れのシーン」で、思い出したのは「愛別離苦(あいべつりく)」というコトバ

親子、夫婦など、愛する者と別れる苦痛や悲しみのことで、仏教の八苦のひとつです。

ところで、他のサイトやブログで、映画の感想を見ていると、かぐやを連れ去った月の住人は理不尽な仕打ちをする、ヒドイ奴らだという意見もあります。

どうなんでしょう。

上で書いてきたように、この別れのシーンは人間界におけるかぐや姫の「死」を意味しています。

「人の死」が自然の摂理のように、月の住人のかぐや姫が、月に帰るのは、運命・宿命のように、ボクには思えました。

むしろ、理不尽なのは、人間をふりまわす喜怒哀楽といった感情なのでは・・・。

映画の冒頭、

かぐやの初めてのヨチヨチ歩きに、おじいさんが泣いて喜ぶこと。中盤、貴族や御門が繰り広げる求婚劇を、翁夫婦が一喜一憂して見守ること。

そのひとつひとつが、最後の別れの悲しみを大きくしてしまいます。

その人間的すぎる心の動きこそ理不尽なものに思えてしょうがなかったです。

最後に別れが訪れることを、事前に分かっていたせいで、よちよち歩きにおじいさんが涙するシーンは、ていてちょっと辛かったです。

これは、葬儀の現場で、実際の「愛別離苦」をたくさん見ていることから来る、葬儀屋さんの職業病かもしれません。

そういう訳で、感情とはやっかいですね。

「かぐや姫の物語」は、その感情の良い面も悪い面も思う存分描いた見応えのある映画でした。

お時間のある方は、劇場に足を運ばれてはいかがでしょう。


https://pixy10.org/archives/40737460.html  【月見のイメージ好転。西行と山越阿弥陀図。】 より

平安時代初期には必ずしも印象が良くなかった月見。しかし平安末期になると反転しているのはなぜか?中秋の名月を詠わない古今集。月が不吉な竹取物語。平安末期を代表する歌人、西行(1118~90年)が、これでもか!というほど数の月の和歌を詠み、願はくは 花のしたにて 春死なんそのきさらぎの 望月の頃という願いの通り、桜が咲き誇る満月の日に亡くなる。このことに当時の文化人が度肝を抜かれ、「月」と「桜」のイメージが一変したのでは?

私の頭の中では今のところ、こんな整理の仕方になっている。

もうひとつ気になっているのが「阿弥陀信仰」。これは鎌倉時代に描かれた「山越阿弥陀図」と呼ばれる仏画。

阿弥陀如来が極楽浄土から臨終間近の信仰者を迎えにくる。そのご来迎の際に山を越えてやってくるという設定だ。

これが山の向こうから昇る「月」とイメージが重なった?阿弥陀信仰といえば死期を悟った藤原道長(966~1028年)が、九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、浄土を願いながら往生したといわれているのが有名。

そして仏教の世界観でのこの世の終わり「末法思想」。日本での1052年が末法元年と人々に恐れられる中、「南無阿弥陀仏」を唱えれば成仏できるという手軽さがウケ、阿弥陀信仰が一気に広まっていったと言われている。

このあたりのどこかの時代で、阿弥陀如来は山を越えてご来迎と考えられるようになり、

祈るような想いで月を見上げる感覚と結びつくのかも。