因果な商売でもあるような・・・
家で暮らしていたのに病気や怪我で入院する。リハビリも行い、家へ帰るためになんとかその思いで頑張る。退院の許可が出て家へ帰れるかと思ったら、グルー プホームへの入所となる。そして介護が必要な状態ということで老人保健施設に移ってしまう。次はようやく家で暮らせると思ったら、いろいろな事情で「生活 の場」である特養ホームへの入所となる。家へ帰れる思いだったのが、どんどん家から離れてしまう。
介護が必要になる、生活の場そのものを変えなければならないとうことを余儀なくされ、いろんな施設での介護を受け、最後の場である特養へ入居する、そして私たちが迎える。
高齢期は喪失の連続といわれる。仕事を失い、大切な人を失い、役割を失い、お金を失い、健康を失う。そして暮らしてきた場も。いろんなものを失い、いろん な施設で受けた介護の結果、最後が特養である。そういう最後の場であるということをあらためて考えさせられた。その特養で私たちは、どの様な介護をもっ て、その方の暮らしを支えていけるのだろうか。
利用者本位としての特養への入所とはを考えなくてはならないような気がする。本人に代わって特養の入所をすすめてきた家族は、入居が決まると本当に嬉しさ を表にする。しかしその一方で親を、本当は自分が見なければならなかったのに「ごめんね、すまないね、おふくろ」と自責の念が心の隅からはなれない。
家族も失ったのである。枯葉が一枚一枚落ちていくように記憶がなくなっていく。息子である私のこともわからなくなる。落ちていく枯葉を拾うたびに、大切な人を大切にできない自分をせめてしまう。
少なくとも家族は特養に入居して、これからどの様な生活が待っているのか、再び特養(家)という場を本拠に暮らしを築きあげていくことを期待し願ってい る。いつかは死というものが待っているがその日が明日とは、今日とは思っていない。しかし、私たちは特養に入居した時点で、すでに今を生きている人として 受けとめている。もしかしたらその日が今日くるかもしれないと。
この大きな差を、日々の介護によって自然なことなんだ、安心の源なんだと思えるように、家族自身も準備ができるように、そして家族として自分の選択は間違っていなかったんだと、思えるような介護をしなければならないと感じた。
利用者本人にとっては「どこで暮らす」かは充分に大切なことなのかもしれない。しかし、私たちはその大切なところを受け止めることしかできない。どこで暮 らすかを受け止めつつ、「誰と」「どの様に」「共に」「暮らして」いくかに力を注がなくてはならない。人間は知らない他人のためには涙は出ない。ホームの お年よりが亡くなると職員は涙する。そして止まらない。介護を通じたその人との関係性がそこで生まれ、大切な人を大切に家族に代わって行なってきた証のよ うでもある。
そして涙する間もなく次の入居者の方の準備をすすめなければならないこの仕事は因果な商売でもあるような、そんなことも感じてしまった。