次男と末弟の"おやすみなさい"
早くに両親を亡くし、三人きりになってしまった幼い兄弟に対してロックウェル伯爵は出来うる限りの好待遇で彼らを出迎えてくれた。
かねてからモリアーティ家とは親交があったこと、かつアルバートという優秀な人間であれば近い将来に伯爵としての地位を引き継ぐことは決定した未来であることが幸いしたのだろう。
目先の手間に捉われず、将来を見据えた高待遇は打算的で裏が読み取りやすい。
けれどそのおかげで何不自由なく生きることが出来ており、元孤児であるルイスにも不快な思いをさせることなく過ごせている。
それに加え、思いがけず師と決めた人間にも出会えたのだから感謝しかない。
アルバートは伯爵の厚意で三人それぞれに宛てがわれた自室の中、ウィリアムとルイスを招いて今日一日の報告を兼ねた団欒を過ごしていた。
「この屋敷での生活にも大分慣れた頃かな、二人とも」
「そうですね。住み良い場所だと思います」
「ルイスはどうだい?メイドに何か噂されたりしていないかい?」
「特にありません。皆さん良くしてくださいます」
「それは良かった」
アルバートはベッド、ウィリアムとルイスは置かれた椅子に腰掛けている。
毎夜アルバートの部屋に通っているため、気を利かせたジャックが簡易ではあるが背もたれの付いた椅子を置いてくれたのだ。
多少部屋は狭くなったが悪くないと、アルバートは幼い弟達を見て満足げに微笑んでいる。
「さぁ、もう夜も遅い。二人とも部屋へお戻り。ウィル、ルイスを送ってあげなさい」
「はい。行こう、ルイス」
「おやすみなさい、アルバート兄様。良い夢を」
「おやすみなさい、兄さん」
「あぁおやすみ、二人とも」
アルバートの寝室の隣がウィリアムの部屋、更にその隣がルイスの部屋だ。
大した距離でもないのだしわざわざ部屋の外まで見送るようなことはせず、アルバートは手を繋いで部屋を出る弟達を見送ってからランプの灯りを暗くした。
「ルイス、今夜は大丈夫かい?」
「大丈夫です、兄さん」
ウィリアムはルイスの部屋の前で足を止め、扉を開ける前に心配そうな声で言葉をかける。
孤児院にいたときから、ウィリアムとルイスはいつも同じ部屋の中で過ごしては眠りに就く日々を送っていた。
モリアーティ家に引き取られてからも、薄汚れた屋根裏の一室で二人一緒に寝ていたのだ。
貴族ゆえの思考なのかベッドは分けられていたが、院では同じベッドで休むことがほとんどだったし、それより前はベッドすらない中で抱き合いながら暖を取って休んでいた。
だからウィリアムとルイスにとっては同じ部屋で一緒に眠ることが日常だったのだが、ロックウェル家で暮らすようになってからは部屋を分けられてしまったのだ。
厚意からくる親切心だと分かっている。
だが、初めて部屋に案内されたときは思わず声を出して驚いてしまったものだ。
まさかルイスと離れた場所で過ごす日が来るとは思わなかった。
ウィリアムの口からは、ルイスと同じ部屋で構いません、という言葉が喉元まで出ていたのは記憶に新しい。
すんでのところで踏みとどまったのは、便宜上のルイスの立場が養子であることを思い出したからだ。
仲の良い兄弟だと思わせることには成功しているだろうが、そうだとしても養子に入れ込む貴族家次男というのは要らぬ噂の的になる。
ウィリアム同様驚いたように目を丸くしているルイスを振り返りながら、『ウィリアム』として正しい言葉を返した結果、二人の部屋は初めて分けられてしまった。
「それなら良いんだけど…あまり無理はしないようにね」
「だから、僕は大丈夫です」
心配そうに自分を見るウィリアムを見上げ、ルイスは大丈夫だと繰り返す。
握られた手をぎゅうと握り返して、自室の扉を開けて中に入る。
一緒に入ってこようとするウィリアムの胸を押し返し、部屋に入れまいと抵抗してから兄の顔を見上げて不服そうに唇を尖らせた。
「子どもじゃないのだから心配は無用です。今夜はちゃんと眠れますよ」
まだ僕達は子どもだよ、というウィリアムの言葉を聞き流し、ルイスはそのまま兄の体に抱きついてはおやすみなさいと声を出す。
何か言いたそうなその背中を押して廊下に出るよう促せば、ウィリアムは渋々足を進めてすぐ隣の部屋の扉を開けた。
ルイスはもう一度、おやすみなさい、と繰り返してから自室の部屋に入ってベッドへと向かう。
そうしなければウィリアムが自分の部屋に入らないことを知っているのだ。
ウィリアムは暗がりの中、月明かりに映える弟の髪の毛を見て、諦めたように部屋の中へと入っていった。
「…一人でも眠れます、大丈夫」
ルイスはお日様の匂いがする毛布に包まり、自分へ言い聞かせるように呟いた。
今はちょうど温かい季節だから、体が冷えて目が冴えてしまうこともない。
きっと眠れるはずだと、ルイスは頭まですっぽりと毛布をかぶって体を丸めて小さくなった。
「……………」
ルイスが毛布に包まってから一時間。
その間、眠るどころか少しの眠気すら一向に来なかった。
家庭教師による授業と秘密裏に行われる訓練で頭も体も疲れているのだから、眠くないはずはない。
病で伏せていた時期がある小柄なルイスの体は、尚のこと十分な休息を求めているはずだ。
だがそうだとしても、どうしても眠りたいとは思えなかった。
ルイスは一人の時間に慣れていない。
気付いたときにはウィリアムがそばにいて、いついかなるときもルイスは兄に守られ生きてきた。
離れて過ごした時間など、思い出すのが億劫なほど記憶の片隅に追いやられている。
いつだってルイスはウィリアムと一緒にいたのだから、一人の時間を持つことがなかったのだ。
だが今後の生活と計画を考えると、ウィリアムから離れて過ごすことに慣れなければいけない。
ロックウェル伯爵の厚意はそういった面でも大変に都合が良かったのだが、思いの外ルイスは孤独に弱かった。
端的に言えば、ルイス一人では上手く眠れないのだ。
いつもウィリアムと一緒にいて、いつもウィリアムと一緒に眠っていたのだから、ウィリアムの気配がない空間で眠ることがどうにも怖くて眠れない。
初めてこの屋敷に来たときはそれに気付いておらず、環境が変わって寝付きが悪くなったのだと思っていた。
そのうち眠れるだろうと楽観的に様子を見ていたが、眠れない日が続いた五日目にして気絶するように寝落ちたことと、それを心配して次の日からウィリアムが部屋を同じにして一緒に眠ってくれたときの安眠を踏まえ、ルイスは一人では眠れないのだという結論を得る。
一人では眠れないなど、本当に子どもじみていて嫌になる。
表向きは少し眠りが浅く不眠がちだということになっているが、出来ることなら本当の理由は知られたくない。
ウィリアムは夜遅くまで部屋で勉強しているのだから迷惑はかけられないと、ルイスはこの屋敷に来てからの数週間、良質な睡眠をほとんど取っていなかった。
「…眠いんだけどな…」
ただぼんやりと長い時間を過ごし、恐怖を感じながら明るくなるのを待つだけの夜。
そうして体力の限界が来た五日目には気絶するように寝てしまう。
あと三日もすればその日が来るのだから、そのときにしっかり眠れば良いとすら考えるようになった。
目元の隈は染み付いてしまったようで、ウィリアムが心配するのも無理はないと分かっている。
それでも子どもじみた事情を話したくはなかったし、自分のせいでウィリアムの勉強を妨げるのは嫌だった。
早く朝が来れば良いのにと、ルイスは起き上がって窓の外の月を見る。
満月ではないけれど形の良い三日月はとても綺麗だ。
今は黄金色をしているけれど、たまに赤く見えるときがあるのはどういう原理なのだろうか。
「ルイス」
「に、兄さん?」
ルイスが一人、月を見上げていると部屋の扉が開かれた。
警戒する間も無く聞き慣れた声が聞こえてきて、ルイスは上がった肩を下げて彼を見る。
ずっと起きていたせいで夜目が効いており、ウィリアムの姿はしっかりとルイスの瞳に映っていた。
靡く髪は今見ていた月と同じ色だとルイスが思っていると、ウィリアムは迷わずベッドへと足を進めてくる。
そうして座り込んでいたルイスの肩を抱き、月明かりに照らされた白い顔に残る暗い跡へと唇を寄せた。
ただでさえ健康に対して不安がある弟に浮かぶ、不健康を表すような青白い隈。
薄くなるよう祈りながら、ウィリアムは左右の目元に何度も何度も吸い付いた。
「にい、さん?あの、何か御用ですか…?」
「ん、そうだよ」
「な、なんでしょうか?」
ちゅ、ちゅ、ちゅ、と飽きることなくキスをされ、ルイスは戸惑いながらも声をかける。
こんな夜遅くに用があるなんて、よっぽど緊急なのだろうか。
ルイスは思わず身構えるけれど、ウィリアムから感じる雰囲気はとても穏やかで優しいものだったからすぐに気が抜けてしまった。
柔らかく温かい唇を感じていると、なんとなく眠くなってきたようにも思う。
「それがね、ルイス」
「はい」
「一人じゃ眠れなくて、ルイスと一緒に寝たいんだ」
「は…い?」
「一緒に寝よう、ルイス」
ようやく満足したようで、ウィリアムからもたらされたキスの雨がやむ。
ルイスは淡く微笑む兄の顔を視界に収めると、そのままベッドへと連れ込まれてしまった。
「え、に、兄さん?あの」
ウィリアムはいつでもどこでも寝てしまう。
もはや悪癖と言っていいほどに、脳が休息を必要とすればすぐに眠ってしまうのだ。
それでも安全が確保された空間に限局しているだけ良いのだろうが、ルイスが知る限りは鍵のかかった部屋やアルバートがいる空間ではよく眠りに落ちている。
勿論、ルイスがいる場面でも安心したように寝こけてしまうような人なのだ。
いつも一緒にいたけれど、ウィリアムはルイスと違って孤独を恐れていないらしい。
ゆえに一人では眠れないなど、はっきりした嘘だとわかってしまう。
何故そんな嘘を、とルイスが思案した結果、導き出された答えに思わず羞恥で顔が赤くなった。
「に、兄さん、もしかして」
「ん…おやすみ、ルイス」
「兄さん、あの」
先程までの心配そうな様子といい、突然やってきて隈の残る目元にキスを落としたことといい、今の言葉といい、ウィリアムはルイスが不眠ではなく一人で眠れないだけということにずっと前から気付いていたのだ。
そしてそれを隠そうとしているルイスを見兼ねて、辛抱出来ず夜遅くに部屋を訪ねてきてくれた。
だが直接言葉にするのはきっとルイスが嫌うだろうと、わざわざ主語を自分に置き換えて助けに来てくれたのだろう。
決して馬鹿にすることなく、かといってルイスの自尊心をあからさまに傷付けることなく、けれどもちゃんと見抜いているのだというアピールのため、ウィリアムは言葉を選んで頑固な弟に指摘した。
その優しさと少しばかり手厳しい兄としての忠告は、ルイスの心に十分響いたらしい。
気恥ずかしい思いはしているけれど、一人で抱え込まなくて良いのだと、いつでも兄を頼っていいのだと教えられたような気分だった。
いつかはウィリアムを守れるくらいに強くなりたいと思っているけれど、まだまだ今の自分は彼の庇護下にあるらしい。
「焦らなくて良いんだよ。時間はあるんだから」
「…兄さん」
ルイスの頭を自分の胸に押さえつけるように抱きしめて、ウィリアムは囁くようにその耳へとありったけの慈愛を込めた音を流し込む。
焦っていたつもりはなかったけれど、足手まといにならないよう早く一人前になりたいとは思っていた。
それが焦りになっていたのだろうか。
ルイスは慣れ親しんだ体温と匂いに目を閉じて、自分よりも少しだけ大きい兄の体を抱き返す。
とくんとくん、と聞こえてくる心臓の音が心地良くて、段々と思考が鈍くなっていくのを感じた。
眠いのに眠れなかった先程までとは違い、眠いから眠ってしまおうと思える状態だ。
触れたナイトガウンを握りしめ、ルイスは額をウィリアムの胸へと押し付ける。
「おやすみ、なさい」
「おやすみ、ルイス」
もう何度目にもなる挨拶を、今度は建前ではなく本音として声に出す。
一人では上手く眠れないけれど、ウィリアムと一緒ならばよく眠れる。
いつかは一人で眠れるようにならなければいけないが、少なくとも今はまだそのときではないのだ。
ルイスは自分を守り助けてくれるウィリアムの好意へ甘えるように、意識を眠りの底へと落としていった。
「…本当に、ルイスは一度決めたら曲げようとしないんだから」
頑固なところは僕に似たのかな。
ウィリアムは腕の中ですやすやと眠るルイスを見て呆れたように、けれどそれ以上の愛おしさを実感しながら、疲れた頭と体を休めるために自らの瞳を閉じた。
(おはようございます、兄さん)
(おはよう、ルイス。おかげでよく眠れたよ、ありがとう)
(いえ、あの…ありがとう、ございました)
(ふふ、何に対してのお礼かな?)
(その、意地を張ってしまってごめんなさい)
(うん)
(僕、一人だとよく眠れなくて…兄さんは心配してくれていたのに、嘘を付いてしまってごめんなさい)
(今まで一人で眠ったことがないからね。これから慣れていくよ、大丈夫)
(はい…)