朧・朧月(おぼろ・おぼろづき)
http://haiku-kigo.com/article/140988117.html 【朧・朧月(おぼろ・おぼろづき) (春の季語:天文)】 より
星朧 谷朧 海朧 庭朧 草朧 鐘朧 灯朧 朧夜(おぼろよ)朧の夜 朧月夜 月朧
朧月(おぼろづき)
● 季語の意味・季語の解説
春の夜の、水分の多いしっとりした空気の中では、様々なものがぼんやりとにじんだように見える。そのような状態を朧(おぼろ)という。
星朧、谷朧、海朧、庭朧、草朧、鐘朧、灯朧などと、色々な語とくっつけて用いることも多い。
美しき学校あらば草朧 (摂津幸彦)
特に、ぼんやりとやわらかい光を放つ月は、朧月(おぼろづき)として俳句によく詠まれる。
くもりたる古鏡の如し朧月 (高浜虚子)
なお、多くの歳時記は、朧月を独立した季語として扱っている。朧月の出ている夜は朧夜(おぼろよ)と表現される。朧月夜を略したものと考えればよい。
朧夜の手に消えさうな泪壺 (加藤知世子)
ところで、朧のほかにも、水分の多い春の大気の状態を指す語に霞(かすみ)があるが、霞は昼、朧は夜を詠むのに用いる。
● 季語随想
にじむような月の光りが湖面に落ちているある春の夜、私は、自然と次のような俳句を詠んだ。
助手席に香り残れる朧かな
しかし、この句を私は作品として残すことができなかった。なぜなら、この句を詠むずっと前に、次のような句を詠んで既に発表してあったからだ。
助手席に香りの残る初夏の朝 (凡茶)
この「初夏の朝」の句は俳句を始めて間もない頃の作品で、今読み返すと若さゆえの生意気さを感じる。しかし、この句、ようやく俳句がわかり始めてきた頃に、句会で皆さんから高い評価をいただいた思い出の句だけに、今もなお愛着がある。
だから、なおさら「初夏の朝」を「朧かな」に替えただけのような句を作品として残すわけにはいかない。
でも、実を言うと、「朧かな」の句も、描いた情景は悪くないものに思えている。
そこで私は、「朧かな」の句を、俳句から短歌へと変身させて、己の胸の中にこっそり残すことに決めた。俳人が短歌を詠むなど、これまた生意気な話であるが、朧夜の艶めかしい空気の中では、こんなささやかな浮気を楽しんでみたくもなる。
助手席に香り残れる朧夜の遠回りして帰る湖沿ひ (凡茶)
湖沿ひ=うみぞい。恥ずかしいので歌人の目には触れないことを祈る。
● 古今の俳句に学ぶ季語の活かし方
私の暮らす町の高台には、市民のための小さな野球場があります。ある朧の夜、その野球場の夜間照明が、にじむような光りの帯を夜空に立たせていました。次の俳句はその時の感動を詠んだものです。
高台に球場の灯の朧なり (凡茶)
その夜、私は野球場の灯に、やさしさと艶めかしさのようなものを感じました。実際、多くの俳人たちが、朧・朧月を詠むことで、やさしさ、もしくは、やんわりとした艶を、作品ににじませています。
辛崎の松は花より朧にて (松尾芭蕉)
歌枕にもなっている辛崎(唐崎)は琵琶湖畔にある。
その湖畔の松は、花よりも朧の中で趣が増すという句意。
味噌豆の熟ゆる匂ひやおぼろ月 (中村史邦)
熟ゆる=にゆる。
指貫を足で脱ぐ夜や朧月 (与謝蕪村)
指貫=さしぬき。はかまの一種。
白魚のどつと生まるるおぼろかな (小林一茶)
浮世絵の絹地ぬけくる朧月 (泉鏡花)
朧三日月吾子の夜髪ぞ潤へる (中村草田男)
吾子=あこ。わが子のこと。
汝もまた獨りか仔猫月おぼろ (瀬戸内寂聴)
汝=なれ。 獨り=ひとり。
これらの句と比べると、次の俳句は少々生々しく感じられます。
くちづけの動かぬ男女朧月 (池内友次郎)
ただ、この句を、昭和の初期に、作者が留学先のパリで詠んだものであると知った上で鑑賞すると、その味わいがよくわかります。
最後に私の俳句をもう一句紹介しておきます。
自信作です。
僧の首湯船に並ぶ朧かな (凡茶)