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宮澤賢治

2020.08.30 08:11

Facebook・清水 友邦さん投稿記事。

宮澤賢治が生まれたのは8月27日です。

賢治の母イチは午前4時ごろ陣痛、実家の宮沢家で7時に出産しています。

賢治が生まれる2ヶ月前の明治29年6月15日に東北では死者1万8158人をだした三陸大津波が発生しています。

賢治の生まれた8月27日の5日後の31日午前5時、真昼岳(岩手・秋田県境)を震源とする「陸羽大地震」(マグニチュード7.2)が起きました。母イチは生まれたばかりの賢治をかばうように上体をおおい、念仏を唱えていました。

陸羽大地震によって岩手の水田は亀裂・陥没で稲の成熟が遅れ田畑とも収穫が半分になりました。

その後も岩手は凶作が続き明治35年は米の収穫が三割 明治38年は米の収穫が半分まで落ち込んでいます。

明治末から大正初期の東北農村は、日露戦争による増税と凶作によって非常に疲弊していて、それにたびたび天災による凶作に襲われていました。

そのような時代に賢治はこの世に誕生したのです。

賢治の母方の祖父宮澤善治は雑貨商で巨万の富を築いていました。

賢治の父親の家は古着と質屋をしていました。生活が困窮した農民の家財道具を担保に金を貸したその利子で暮らしていました。

凶作のたびに飢餓に苦しむ悲惨な現実に身を置く農民と対極に担保を取り上げる非情さで財を成したのが宮澤一族でした。

賢治は家に質を入れに来る貧しい人々を見ては「かわいそうだ。世の中が不公平だ。父の家業が嫌だ。」とおいおい泣いたと言います。

宮澤家の長男の賢治はそんな貧しい人々から搾取する家業をつがねばならない自分の身の上を嫌悪していました。

賢治は詩「春と修羅」で自分を修羅といいました。

父親に反発しながらも経済的に依存せざるをえない自分の立場に葛藤して修羅の道と呼んだのです。

父親との確執、家業を継ぐこと、体の病気、賢治は精神的に不安定でした。

そんな時に仏教に出会いました。

生まれもしない、死にもしない、永遠に変わることのない仏の光の世界、それは賢治の言葉で言えばマコトの世界です。

修羅場から脱出する方法は

修羅という眠りから目覚めて、悩み苦しむ自分の修羅をまるごと全部あるがままに受け入れることでした。

自分の行為を今ここに在る、大いなる光に明け渡すのです。

「なにもかにも透明だ水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」(種山ケ原)

 「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません」(めくらぶどうと虹)

 いまここの光は永遠の光です。まことのひかりにすむ本当の自分はいつまでもほろびることがありません。