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宇都宮城 (亀ヶ岡城)

2020.08.30 10:24

https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/li-mu-xian/yu-dou-gong-cheng  【宇都宮城(うつのみやじょう) (亀ヶ岡城)】

【感想】 宇都宮のビル街と対照的に時間が止まったような清明館(表記番地)の建てられている一帯が、宇都宮城本丸跡(西側部分)で、宇都宮城址公園となっている。

高さ5m以上はある土塁、幅15m以上はある内堀、土塀及び北に清明櫓、南に富士見櫓の二層櫓が木造で復元(平成十九年)されている。漆喰の白が真新しく眩しく、当日は名物餃子まつりの会場となっていた。

【案内】 本丸西通りに面して駐車場が用意されている[マップコード39 481 165*54]。東の「おほり橋」を渡って行った本丸は「城址公園」となっている。

西側の駐車場や公園一帯が二の丸跡である。

【歴史】 宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、前九年の役(1051~62年)に際し、藤原宗円(宇都宮氏の祖)は源頼義・義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当神社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。康平六年(1063年)藤原宗円によって宇都宮城が築城された。

以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。この頃の宇都宮城は中世城郭だったといわれる。

戦国時代初期には宇都宮城で17代当主宇都宮成綱が実権を掌握するために、芳賀高勝を謀殺し、宇都宮錯乱とよばれる大きな内紛が起こりその戦場となったという。

戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏の侵攻を受け一時はその一派によって占拠された。天正十八年(1590年)の小田原征伐ののち秀吉による宇都宮仕置が行なわれたが、このときに宇都宮城は安堵された。

しかし慶長二年(1597年)秀吉による突然の改易により、二十二代宇都宮国綱は廃された。

直後、浅野長政が入り、慶長三年(1598年)には蒲生秀行が18万石で入った。その後大河内氏、奥平氏と続いた。

元和五年(1619年)本多正純が入り、宇都宮城と城下の改修を行い現在の宇都宮の礎を作った。天守は造らず、二重二階の清明櫓で政務を行ったが、正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和八年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。

その後奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が入れ替わった。江戸後期安永四年戸田忠寛が入り、以降戸田氏7代が6~7万石で治め幕末を迎えた。

慶応四年(1868年)四月戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は城下の町並(3千戸のうち2千戸が焼失)ともども焼失した(宇都宮戦争)。


http://ashigarutai.com/shiro006_utsunomiya.html  【宇都宮城】

清明台櫓

本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺で画かれている。広さ3間(5.9M)×3間半(6.9M)と記録されている。櫓のある場所の土塁は、他の部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれている。

富士見櫓

本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺で画かれている。広さ3間(5.9M)×4間半(7.9M)と記録されている。その名の通り、周りに高い建物がなかった江戸時代において、遠く富士山の姿が望めたと考えられる。

復元された本丸の堀は、17世紀前半に造られたと考えられ、古い文献には幅12間(21.8M)と記されている。発掘調査では、堀の最大幅27M、深さは最大7Mあったことが確認されている。

別名 亀ヶ丘城 築城年代 康平6年(1063)

縄張・種別 ---/平城 築城者 藤原(宇都宮)宗円

遺構 空掘・門跡 etc...

復原 櫓2基・土塁・堀

攻城年月日 2007/8/9

【構 え/歴 史】※宇都宮市教育委員会文化課のパンフレットより

宇都宮城は、平安時代後期に築かれたといわれている。鎌倉時代以後は、宇都宮氏の居城であった。宇都宮氏はこの城を本拠地にして、二荒山神社の祭祀を行い、周辺を支配していた。

北朝時代から戦国時代は、宇都宮城とその周辺も度々戦いの舞台となり、戦国時代の終わりには、後北条氏の攻撃によって、城下町が焼かれた。このころの城は、敵の攻撃に備えるため、深い堀と高い土塁を持つ堅固な構えになっていたという。

500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされた。江戸時代になると徳川譜代大名の居城となったが、その中のひとり本多正純は、城と城下町の造り変えを行った。東西・南北とも1KMに近い大きな城となった。最大の特徴は、将軍が日光参詣に行くとき宿泊したということである。将軍の行列はとても人数が多かったので、城下町もたいへんな賑わいとなった。現存する絵図には、本丸に大きな建物が描かれているものがあり、将軍が泊まる御殿だといわれる。

その後、戊辰戦争で建物の大半が焼失し、堀も次第に埋められた。

【釣り天井事件】

宇都宮城主であった本多正純が、日光社参から帰る将軍を、カラクリ仕掛けの天井を作って暗殺しようとしたという事件のこと。もちろん創作話。正純が突然城を取り上げられ、出羽(秋田県)へ配流されたことからこのような話になったらしい。