宇都宮仕置と宇都宮城
https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_06.pdf#search='%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%9D%B1%E5%8C%97' 【】
「宇都宮仕置と宇都宮城 ①」
豊臣秀吉の全国統一
これまで鎌倉時代のことを見てきましたが,ここで,時代を下って安土桃山時代の出来事を見てみましょう。
百年以上続いた戦国時代も終わりに近づいた天 正18(1590)年,すでに中部~西日本を支配下におさめていた豊臣秀吉は,小田原(神奈川県小田原市)に本拠を置く北 条氏を滅ぼしました。北条氏は,当時関東地方の大部分を支配していた有力な大名でした。そのため,まだ秀吉に従っていなかった関東地方・東北地方の大名たちも,つぎつぎと秀吉のもとにやってきて服従を約束したので,ここに秀吉による全国統一が完成しました。
秀吉は小田原から鎌倉を経て会津黒川(福島県会津若松市)に向かいましたが,その途中宇都宮城に約 10 日滞在し,関東・東北地方の大名の配置を決定する「宇都宮仕置」を行ないました。「仕置」とは,当時のことばで,征服した土地の支配体制を決定することをいいます。豊臣秀吉による全国統一という歴史の大きな節目で,宇都宮城が大きな役割を果たしたのです。
それでは「宇都宮仕置」とはどういうものだったのでしょうか。(
「宇都宮仕置と宇都宮城 ②」
秀吉の小田原征伐
豊臣秀吉は,1580 年代になると,大坂城(大阪府大阪市)を築いて本拠とし,東海・北陸地方から九州・四国地方に及ぶ広い範囲をその支配下に納めていました。
そのなかで,小田原(神奈川県小田原市)に本拠を置く北 条氏が秀吉に従わない最大の勢力になっていました。秀吉は,北条氏と真田氏の対立に介入し,両者が攻防を繰り返していた上野国(群馬県)の境界画定を行いました。その際に,沼田城(群馬県沼田市)を北条氏に,名胡桃城(群馬県月夜野町)を真田氏に与えたのです。
沼田城と名胡桃城は利根川を挟んだ目と鼻の先にあり,いずれは衝突が起こることは火を見るより明らかでした。天 正17(1589)年沼田城にいた北条氏の家臣・猪俣邦憲は,名胡桃城を攻め落として城 代・鈴木主水を自害に追い込みました。
秀吉は,北条氏が境界画定に背いて真田領を侵略したとして,全国の大名を動員して北条氏を攻撃することになりました。これを「小田原征伐」と呼んでいます。
「宇都宮仕置と宇都宮城 ④」
宇都宮仕置
ここからは,福島大学の小林清治先生の研究成果を参考に見ていきましょう。
豊臣秀吉は,天正18(1590)年 7 月 17 日小田原を出発し,鎌倉(神奈川県鎌倉市)・江戸(東京都)を経て,7 月 26 日に宇都宮へ到着しました。この後,8 月 4 日まで滞在し,関東・東北の大名を次々と引見して,その処分を行っています。
秀吉は,「東北地方は言うまでもなく,蝦夷島(北海道)までも処分を行う。自分のもとに来ない大名は,ことごとく滅ぼしてしまうつもりだ。」と強い決意を述べています。
すでに小田原で秀吉に会っていた出羽国米沢(山形県米沢市)の伊達政宗,出羽国山形(山形県山形市)の最上義光,陸奥国(青森県)三戸南部信直など,東北地方の有力な大名も,宇都宮であらためて秀吉に会い,領地の決定をされるとともに,人質を差し出すなど数々の指示を受けています。
一方,出羽国秋田(秋田県秋田市)の安藤実季,陸奥国小高(福島県小高町)の相馬義胤などは,小田原へは行かなかったのですが,宇都宮で秀吉に会って服従を誓い,領地の領有を認められました。
つまり,戦場である小田原へ駆けつけることなく,宇都宮で秀吉に会うことによって大名としての地位を認められたのです。これは,宇都宮へ来るかどうかが処分の重要な判断基準になっていたことを示しています。
「宇都宮仕置と宇都宮城 ⑤」
宇都宮仕置の明暗
のちに江戸幕府の初代将軍となる徳川家康は, 江戸を本拠地として関東地方を領有することを,すでに小田原で豊臣秀吉から内示されていましたが,7 月 29 日に宇都宮であらためて秀吉に会い,最終的な指示を受けています。
その後 8 月 1 日に江戸に到着しましたが,この日が後世「8 月 1 日の江戸打ち入り」と呼ばれ,家康が公式に江戸に入った日として認識され,江戸幕府の記念日になっていくのです。
したがって,宇都宮仕置は,その後の江戸時代の幕開けにとっても,記念すべき意味をもつものといえるでしょう。
一方,宇都宮に来なかったために,領地を取り上げられ,取潰てしまった大名もいます。
下野国北東部を支配していた戦国大名・那須資晴は,小田原へ行かなかったばかりか,宇都宮までわずか一日の距離である下野国烏 山(烏山町)にいたにもかかわらず,病気のために秀吉に会いに来ませんでした。
秀吉は会津に向けて出発する間際まで待っていましたが,ついに領地没収を命じたのです。
このように,宇都宮に来て秀吉に忠誠を誓うことが,大名として存続できるかどうかの分かれ道になったのです。
「宇都宮仕置と宇都宮城 ⑥」
重要視された宇都宮
豊臣秀吉は,8 月 4 日に宇都宮を発ち,会津に向かいました。白河(福島県白河市)を経由して 9 日に会津黒川(福島県会津若松市)に到着。
ここでも東北地方の大名の配置などの処置を行い,8 月 13 日に同地を発って帰途につきました。会津田嶋(福島県田島町)から山王峠を越えて,宇都宮に一泊,東海道を通り,京都(京都市)には 9 月 1 日に凱旋しました。
宇都宮では帰途にも,下総国古河(茨城県古河市)の古河公方家(室町幕府将 軍の足利氏の一族)や安房国館山(千葉県館山市)の里見義康などに関する処分を行なったと考えられます。
秀吉が小田原(神奈川県小田原市)から会津へ向かうにあたって,「会津まで行くことが望ましいが,それが無理ならば,宇都宮までは必ず行かねばならない。」という考えがあったといいます。全国統一の総仕上げとも言うべき関東・東北地方の処置において,なぜ宇都宮がこれほど重視されたのでしょうか。
秀吉が鎌倉(神奈川県鎌倉市)へ立ち寄った際に,鶴が岡八幡宮で鎌倉幕府の創設者・ 源 頼 朝の像に「あなたは名門の生まれである。しかし,自分は一介の庶民の生まれであるにもかかわらず,天下をとることができた。」と語りかけたといいます。これは,秀吉が関東・東北地方の支配にあたって,頼朝の業績を強く意識していたことを示しています。
「宇都宮仕置と宇都宮城 ⑦」
秀吉と二荒山神社
豊臣秀吉は,前九年の役の 源 頼 義や,「奥 州征伐」のときの源頼朝が,宇都宮に立ち寄り,二荒山神社に戦勝を祈願したという事実をよく知っていました。
源頼朝は文治5(1189)年奥州征伐のため 7 月 19 日に鎌倉を出発,7月 25 日に宇都宮に到着し,二荒山神社に参拝して戦勝を祈願しました。
また,奥州藤原氏を倒して東北地方を支配下に納めた後,平泉からの帰途にも 10 月 19 日に再び参拝し,戦勝のお礼をしています。
秀吉も,頼朝の木像と鶴岡八幡宮で対面した後,頼朝と同じ 7 月 19 日に鎌倉を出発した可能性が高く,それほどまでに,東北地方の平定に際して頼朝の事績を強く意識していたと考えられます。
「会津まで行けなくても宇都宮までは必ず行く」という秀吉の考えは,関東地方の支配も東北地方の平定も,宇都宮まで行かなければ不可能であるという彼の強い思いに基づいていたのです。
「宇都宮仕置と宇都宮城 ⑧」
発掘調査の結果から
宇都宮城本丸跡(現・宇都宮城址公園)の発掘調査の際,かつてスケートセンターが建っていた場所から,掘 立 柱建物(礎石を用いず,柱の根元を地中に埋め込んで建てる建物)の跡が発見されました。この建物は,非常に太い柱を用いた大きなもので,相当な身分を持った人が使用したと思われます。
ここは,戦国時代には大きな堀があった場所で,16 世紀の後半ごろに,その堀を埋めて建物を建てたと考えられます。そして,江戸時代のはじめの 17 世紀前半には,建物はなくなり,土塁(城を守る土手)が築かれています。つまり,16 世紀の終わりから 17 世紀のはじめの,ごく限られた時期にこの建物が存在していたことがわかるのです。
立派な建物を,一時的とも言える使用のためにわざわざ建てたのはなぜなのでしょう。この建物があった時期は,豊臣秀吉の「宇都宮仕置」と一致します。宇都宮城内には,秀吉が滞在し,東北・関東地方の大名を引見した建物があったはずです。
もしかすると,この建物がそのうちの一つだったのかもしれません