宇都宮城の戦い
https://matome.naver.jp/odai/2154735426273218901 【宇都宮城の戦い】 より
宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。慶応4年4月19日と23日(旧暦。新暦は1868年5月11日、15日)、現在の栃木県宇都宮市にある下野宇都宮城で2度攻城戦が行われた。
宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために武蔵板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失した。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
1日、農民集団が宇都宮城に迫った同じ日に総督府は宇都宮への救援軍派遣を決定した。翌2日(24日)には東山道総督府軍大軍監香川敬三率いる兵200人が宇都宮に向かい、途中粕壁宿で下総流山に新選組が潜伏しているという報を受ける。至急有馬藤太らを流山に向かわせ越谷まで連行されてきた新選組局長近藤勇に香川は新政府側に下るよう説得するが近藤が拒否、香川らは止む無く近藤を板橋の総督府に送還することとなる。この後2手に分かれ一手を香川が率いて7日(29日)に宇都宮城に入城、日光を巡回すると共に、もう一手である祖式隊も途中結城から真岡を巡り世直し騒動は沈静化をみた。
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騒動後の12日(5月4日)、近藤を捕縛された新選組の隊士等下総市川の国府台大林寺に結集していた旧幕府側の歩兵隊約2,000人は、徳川政権の聖地日光廟(日光東照宮)で決戦を行うため北上を開始した。この歩兵隊は、当時最新鋭の火器[1]を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野壬生・鹿沼および真岡へと向かった。
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近藤勇
近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。
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大鳥圭介
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。
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評伝 大鳥圭介―威ありて、猛からず
土方歳三
土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年34歳
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幕府軍と官軍の動き
大鳥隊(旧幕府軍本隊)は15日(5月7日)に下総古河の諸川まで進軍、翌16日(5月8日)には下総国内で新政府軍と接触、これを退けて勢いに乗って北上、小山宿で宇都宮から南下して来た新政府軍・香川隊(彦根藩兵など)と交戦し、最新兵装と最新兵術をもってこれを敗走させた(小山の戦い)。当初入る予定であった壬生には既に新政府軍が駐留していたため壬生通り飯塚宿で反転、18日(5月10日)に栃木に入り翌19日(5月11日)には鹿沼へと転進した。一方の旧幕府軍別動隊(江上、辰巳、土方隊)は、松戸小金宿から水海道(現・常総市)、下妻(現・下妻市)、下館(現・筑西市)を経て、19日には真岡付近まで進軍していた。
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こうした旧幕府軍の動きに対し、新政府軍は前日の18日、小山での敗戦後に宇都宮へと帰還していた香川隊100人と、前宇都宮藩主戸田忠恕率いる宇都宮藩兵300人、救援に駆けつけた烏山藩兵100人の計人が宇都宮城の守備を固める一方、東山道総督府軍が宇都宮城攻城戦に向け緊急派遣した鳥取藩(河田景与率いる藩兵3小隊)、土佐藩(祖父江可成率いる藩兵迅衝隊5小隊と砲兵隊)、松本藩の各藩兵が下総古河に、薩摩藩(伊地知正治率いる藩兵五番隊と砲兵隊)、長州藩(藩兵第一大隊第二中隊)、大垣藩(藩兵2小隊)の各藩兵が同幸手に進軍して来ていた。
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第1次宇都宮城攻城戦
土方歳三率いる旧幕府方別動隊(兵数約2,000人)は、蓼沼村(現・上三川町蓼沼)の満福寺に陣を置き、19日未明、1,000人余が新政府軍主戦力が配置される街道を避け、間道を通って宇都宮城を目指した。午前4時頃、土方らは砂田村に到達、砂田を守備する彦根藩小隊を急襲した。宇都宮城救援軍の彦根藩兵ではあったが、先の小山の戦いで惨敗し隊長を失った記憶から士気も上がらず、やがて城内に撤退した。彦根藩兵を退かせた旧幕府軍は、勢いに乗って宇都宮藩主力の1番隊が備える簗瀬の背後に進撃、旧幕府軍の精兵がフランス式兵術をもって最新兵器を操るのに対し、折からの領内一揆を鎮圧するため疲弊している宇都宮藩兵は武具も旧式の火器装備しか持たず、善戦はしたがやがて宇都宮城内への撤退を余儀なくされた。
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土方らは簗瀬橋を突破し寺町にも放火した。この際、英厳寺の庫裏に軟禁されていた江戸幕府元老中板倉勝静を救出、板倉はこの後箱館戦争まで旧幕府軍として共に戊辰戦争を戦うこととなる。午後2時になっても、兵数、兵装ともに劣る新政府軍は旧幕府軍を宇都宮城から撤退させることができなかった。宇都宮城北側の峰明神山に座し、城下町を見下ろす二荒山神社には朝から宇都宮城下の戦闘を見物する民衆が集まったが、昼には旧幕府軍砲兵の最新式の山砲が着弾するようになり、やがて旧幕府軍が押し寄せ民衆は逃げ去った。間もなく二荒山神社は旧幕府軍に占拠され放火により黒煙に満ちたといわれる。
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幕府軍は宇都宮二荒山神社を占拠
宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ、-ふたらやまじんじゃ)は、栃木県宇都宮市にある神社。式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」。
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板倉勝静
板倉 勝静(いたくら かつきよ)は、幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。
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第1次宇都宮城攻城戦 続
戦闘翌日の20日(5月12日)、大鳥隊は本隊を宇都宮に向けて進軍させ、途中新政府軍と接触すること無く宇都宮城下に入った。これに呼応して土方ら別動隊も宇都宮城に向かった。もぬけの殻となった宇都宮城に入城した旧幕府軍は、焼け残った米蔵から3,000俵、本丸倉庫から金3万両を見付けたという。大鳥らは焼失を間逃れた修道館および三の丸の家老藩邸を本営とし、一方で城内に残された糧秣を焼け出された庶民にも分け与え、城下の庶民に乱暴な行いをしないよう兵士たちに触れを出している。
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第2次宇都宮城攻城戦
安塚の戦いが起きた22日午後、有馬藤太、大山弥助および野津七次(後の道貫)が率いる東山道総督府救援軍(薩摩藩兵、長州藩兵、大垣藩兵)約250人が壬生城に入り、救援軍先遣隊の河田隊と共に、翌朝の宇都宮城奪還戦を決定する。23日早暁、前日の旧幕府軍勢との戦闘で全約550人の手勢の3分の1から4分の1にあたる約100名の死傷者を出し雨中の戦闘で疲労困憊していた河田隊を残し、有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍した。一方の旧幕府軍も前日の戦闘で多くの死傷者を出しながらも、早朝から壬生道の要所要所に歩兵小隊を配し、宇都宮城下では二荒山神社に歩兵第七連隊、西の丸には伝習隊を配すなど、壬生道から攻め上がって来る新政府軍を要撃する準備を着々と整えていた。その際、旧幕府軍に呼応する会津藩兵や岩井の戦いで敗れ日光廟に向けて北上してきた歩兵隊も要撃隊に加えた。
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午後3時前、岩井の戦いに釘付けにされていた伊地知正治率いる新政府側救援軍は岩井の戦いを収め結城から急行、城南側から宇都宮城に攻め寄せた。また、壬生城を後発した土佐藩兵も合流し激しい戦いとなった。この戦闘で松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾を受けて負傷、戦線を離脱する。また新政府軍の砲兵隊が城西側の延命院および桂林寺に山砲を並べ、二荒山神社や宇都宮城を砲撃、旧幕府軍は結局多くの犠牲を出し八幡山方面から日光山に向けて退却した。
野津道貫
野津 道貫(のづ みちつら / どうがん、天保12年11月5日(1841年12月17日) - 1908年(明治41年)10月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。