「源義経北行伝説」の謎
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5036/ 【史実と伝説が渾然一体となった 謎めいた源義経の人物像】「源義経北行伝説」の謎 第1回 より
長い逃避行を終え、奥州平泉の高館で非業の最期を遂げた義経。しかし、東北から北海道に至る各地には、死んだはずの義経が立ち寄ったという伝説が数多く残っている。時に英雄として、時に悪人として、時に女性を惑わす色男として、様々に残る「北行伝説」の実像に迫る!
理想的に脚色された源義経 源義経は、生存中からすでに幾多の謎めいた風聞や憶測にいろどられていた。突然の登場、あまりに鮮やかな数々の武功、栄光とその絶頂からの転落、逃走のすえのあっけない最期。それだけが義経の史実といっても過言ではない。
同時代史料をひも解けば、後白河法皇の皇子で仁和寺にあった守覚法親王は「源廷尉(義経)ただなる勇士にあらざるなり。張良の三略、陳平の六奇、その芸を携えその道を得た者」と賞讃(『左記』)、時の摂政九条兼実は義経が鎌倉方との関係悪化で西国に落ちるさまを見届け、「義経らの所行は実に義士と言うべきか。」「武勇と仁義においては後代に佳名をのこすものか」と嘆美している(『玉葉』)。
鎌倉時代もなかばを過ぎて『吾妻鏡』が編まれるころには、義経の史実と伝説はその区別がつけがたいほど混然としていた。兄頼朝との劇的な邂逅、合戦での活躍、涙の腰越状、そして衣川での自刃から首実検まで、これらのどこまでが事実であったろう。
義経の劇的な事跡は『平家物語』や『義経記』、あるいは能や幸若など中世文学や芸能にとって格好の題材として一層魅力的・理想的に脚色され、ついにはわが国における英雄の典型にまつりあげられた。
近世にいたっては、文学・芸能・絵画などを中心にまさに百花繚乱の様相を呈し、その人物像はさらに多様化する。世に云う「判官贔屓」の感情は、それらの膨大な蓄積が数世紀にわたって醸成したものであり、かつまたその伝説が全国に染みわたり生活にはいり込み、身近な存在としてあり続けたがゆえのものであったろう。
つまり、今日われわれが知る源義経の人物像あるいはその生涯というのは、「(あまりに伝説的な)史実の義経」であると同時に、いわば「(大衆が求めた)伝説の義経」が不可分に混在しあったものなのである。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5047/ 【義経の伝説が生まれた背景にある 「あまりにも静かな最期」】 「源義経北行伝説」の謎 第2回 より
淡白過ぎる英雄の死が語られぬ余白を想起させた。とりわけ義経の末路は、史実の上では都に残された同時代のわずかな記録に、それも鎌倉からの伝聞として見えるだけで、詳細を知りうる手だては皆無と言っていい。都から遠く離れたみちのく平泉でのことであり、また義経を自殺に追いやった藤原泰衡以下奥州藤原の一族もほどなく滅亡して何一つ記録を残さなかった。
だから後世に編まれたものとはいえ、『吾妻鏡』の簡潔な記述に頼るほかないのである。
そこには、文治五年(一一八九)閏四月三十日のこととして、「今日、泰衡が義経を襲撃した。これは朝廷の命に依ったものであり、頼朝の仰せに従ったものである。泰衡は数百騎の兵を従えて藤原基成の衣川館にいた義経と合戦に及んだ。防戦した義経の家人らは全滅して義経は持仏堂に入り、妻二十二歳と娘四歳を殺害した後自殺した。」としるされている。
義経の最期は、さほどの粉飾もなく一言一句淡々としており、後世の『判官物語』などで語られているような派手なドラマは存在しない。
五月二十二日条には、義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着した旨がしるされて「首級は追って進上」とあった。六月十三日には、腰越浦にて行われた首実検がしるされている。立ち会ったのは和田義盛、梶原景時のほか二十名、義経の首級は黒漆の櫃に納められ美酒に浸されてあった。平泉からの使者であった新田冠者が従者二人に櫃(ひつ)を担わせている様を見て、立ち会った者達はみな涙を拭ったという。物言わぬ首級のこととはいえ、義経が歴史の舞台にあらわれた最後の場面であった。
ここに英雄の不死伝説が入り込む余白が生じた。自殺の日から首実検までの日数、首級の真贋等々、疑い出したらきりがないのである。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5048/ 【義経伝説のエンディングは 「衣川の戦い」で分岐する】「源義経北行伝説」の謎 第3回 より
義経の末路に関する伝説は大きく二つに分けられる。一つは、衣川での死亡を前提として発展したもので、『義経記』はその代表といえよう。奥州衣川、高館合戦におけるその死にざまは、大衆の涙を誘うよう執拗に美化された。そこには弁慶の立往生などもえがかれる。
能「八島」では、死してなお成仏することなく修羅のちまたの戦さ場を駆けめぐる。『太平記』では、壇ノ浦に沈んだ宝剣を奪い取るべく、大森盛長の眼前に楠木正成ともども義経も亡霊となってあらわれる。また、地獄に堕ちた義経が古今の武将をあまた従え閻魔庁に押し入る『義経地獄破り』、さらには腰越浦での首実検の折に口中より発見された恨みの「含状」なども加えられよう。
そして末路伝説のいま一つの流れが、衣川に死せず生き延びたとするいわゆる「生脱説」である。平泉を脱出した義経が弁慶はじめおなじみの忠臣はじめ妻子ともども、果ては藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡まで引き連れて蝦夷ヶ島に渡り、土民を平らげ大王になったとか、その先は大陸にわたって後に義経の子が韃靼・金国の大将軍になったとか、末裔を清朝の祖とするもの、極めつけの成吉思汗すなわち義経まで諸説がある。
いきつく先(エンディング)は異なるものの、生脱と蝦夷ヶ島への渡海ということで共通しているのも注目すべき特徴だ。本州では平泉以北の特に太平洋沿岸に、そして北海道、千島、果ては大陸に到るまで義経に関連する伝説や地名などが多数分布するといい、それらは義経の「北行伝説」と総称されている。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5049/ 【源義経が海を渡り大将軍に!? 蝦夷地に渡る「偽書」の流通】「源義経北行伝説」の謎 第4回 より
内容はともかく、蝦夷ヶ島と義経を結びつけた話が記録としてあらわれはじめるのは近世初、17世紀なかば以降のことである。水戸藩編纂の『大日本史』(1676~)や幕府編纂の『続本朝通鑑』(1670)などは、まさにその走りであった。ただしそれらに記された「義経が神として祀られている」「義経の子孫が生活している」などの伝聞は、いわば辺土からの土産話の域を出ず、はなから当てにすべきではあるまい。
現地で義経伝説が語られるだけの素地が整うのは、もっと時代が下ってからのことである。むしろ伝説の発生は内地であり、それも江戸・京都・大阪といった都市に求められるのではないか。そのことは平泉以北の岩手・青森両県にも広く分布している「北行伝説」の成立に深く関わるものと思われる。
18世紀に入ると、「大陸に渡った義経の子が金国の大将軍になった」というトンデモ話があらわれている。これは『金史別本』なる「偽書」がひきおこしたまことしやかな作り話だったが、その悪事が判明するまでの間に写本が相当に流布してしまい、結果これを引用・参考した通俗的な史書や歴史読み物などが後々まで出回ることとなった。この「偽書」騒ぎからも、北行伝説が彼の地ではなく内地先行で成立・普及していったことが想定されよう。
当時の文学や芸能世界をみると、宝永三年(1706)に興行された近松門左衛門の浄瑠璃『源義経将棊経』や正徳二年(1712)に刊行された馬場信意の『義経勲功記』では、蝦夷の大王・棟梁となって子孫を残したという筋立てになっている。またそこには義経の居所「高館」に抜け穴を準備して脱出したとか、弁慶の立ち往生も実は藁人形だったなどという珍説も描かれていた。
享保二年(1717)には加藤謙斎の『鎌倉実記』が刊行された。通俗的な歴史書の定番として、その後も広く長く読みつがれたものだが、それもまた『金史別本』を引き写してはばからず、あるいは加藤謙斎こそが『金史別本』ねつ造の張本人であったのかも知れぬという疑惑を残している。なお、篤学の人として知られる新井白石ですら『読史餘論』(1712)、『蝦夷志』(1720)などで義経の蝦夷渡り説に一定の理解を示している点も注目されよう。蝦夷地は近世日本にとっていわゆるグレイゾーンで知識人の北方に対する関心は高かった。そんな時代の空気が読み取れるのである。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5237/ 【義経=チンギス・ハン説を唱えたのは、あの有名な「外国人医師」だった!】 より
18世紀も後期になると、今度は「清朝の祖は義経」という説があらわれる。天明三年(1783)に国学者の森長見があらわした『国学忘貝』は「ある儒者からの伝聞」として、清から渡来した『古今図書集成』一万巻中の一書に『図書輯勘(としょしゅうかん)』があり、その乾隆帝自筆の序文に「清朝の祖先は義経である」と明記されている、との話を記している。
この『図書輯勘』なる書籍が実在しないことは、後に蘭学医桂川中良によって確認されたが、時すでに遅く「義経清祖説」は先の『金史別本』と同様、巷間に広く伝わっってしまった。だいぶ後のことながら、並木正三の狂言『和布苅神事』天保十三年(1841)で義経家臣の常陸坊海尊が「義経は蝦夷から千島に渡り、唐土高麗を攻め平らげ四百余州に清和源氏の名を輝かさん、清朝の清は清和の謂に他ならぬ」と見栄を切っているのもそのような事情からであったろう。
そして19世紀、幕末にいたって「義経=成吉思汗説」が登場する。この説をはじめてあらわしたのは、かのシーボルトで、著書『日本』(1832~59)においてであったという。義経を蝦夷島の発見者と位置付けたうえで、テムジンが愛用した長弓は日本海賊の武器だったなどとして、義経がジンギスカンになった可能性を強く主張した。
一方、同時期の読み本『義経蝦夷軍談』嘉永三年(1850)の序文をみると、北海道から大陸に渡った義経が、名を鐵木眞(テムジン)或いは成吉忠汗と改めて「韃靼(ダッタン)を従え、西遼・西夏・金国を滅し、一子清義臣を帝位に即け、国号を元」と改めた。これは「源」と同音であるからだ、と断定している。かつまた後に、元は明によって滅ぼされたが、子孫が韃靼に逃れついに明を滅ぼし国号を「清和」から取って「清」と改めて、「世祚万々歳」と締めくくっている。