幕末の蝦夷地警備は「五」だけじゃなく三、四、七稜郭も配置されていた
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五稜郭ってカッコイイ!!
日本式のお城も魅力だけれど、あのギザギザとしたトンガリスタイルにどうにも心が惹かれてしまう――。
そう思う一方、五稜郭といえば、悲劇の地であることもまた事実です。土方歳三の壮絶な最期。
箱館戦争に思いを馳せる方も数多くおられるでしょうけど、そもそも北の大地に、なぜ、あんな要塞が築かれたのか、ご存知でしょうか。
それは江戸後期になって急を要した警備事情があったのでした。
浦賀沖に姿を見せた黒船に、日本中は衝撃に包まれた――そんな場面は大河ドラマ等でおなじみです。
ただし、これが日本と異国船のファーストコンタクトではありません。
十年以上前の1840年代。南端の薩摩藩や、太平洋側に長く海岸線の続く水戸藩では、すでに異国船への対応が課題として認識されておりました。
遡れば文化5年(1808年)にはフェートン号事件も起こっております。
このとき幕府は口をつぐむオランダではなく、別の国からヨーロッパ事情を聞き出しております。
ロシアです。
日本が異国船の脅威、西洋の圧迫感を覚え始めた契機は、実は北方のロシアからのものが最初でした。
しかし、幕府も北方を軽視していたのか。
長崎を襲われたフェートン号事件、そして浦賀の黒船と比較してどうしても重視されないのです。
ロシアが迫る蝦夷地を治める松前藩は、「無高(一万石高)」の大名であり、アイヌとの交易を中心として藩財政を成立させております。
そんな松前藩が広大な蝦夷地を守り切るのは、どうしたって無理がある。そこで幕府が頼りにしたのは、奥羽の藩でした。
蝦夷地が幕府領だった時代がある
江戸時代を通した蝦夷地といえば、松前藩の領土です。しかし例外があり、幕府領となった時期もありました。以下の通りです。
◆第一次幕領期(1799〜1821)※松前藩は梁川へ転封
◆第二次幕領期(1854〜1868)
こうして振り返ってみますと、いくつか惜しまれることがあります。
まず、第一次後の空白です。
第二次は黒船来航の翌年からであり、実質的に幕末期。もし、第一次からずっと警備をしていれば、歴史は異なっていたでしょう。
ちなみに、第一幕政期のあいだ松前藩は転封とされています。
注目は第二次幕領期。
戊辰戦争に奥羽諸藩が巻き込まれ、実質的に蝦夷地がガラ空きになってしまったのです。
奥羽諸藩はどうしても中央政府に絡まないため、軽視されがち。
幕末モノの作品にしても、薩摩藩や長州藩の引き立て役となりがちで、国際感覚が欠如していたという描写も見られます。しかし、です。
実は彼らは、黒船来航よりもはるかに以前から、ロシア脅威に対して論考を重ね、蝦夷地警備にも駆り出されていました。決して楽な仕事ではありませんでした。
江戸時代の諸藩は、時間を経るごとに、政治的や構造の矛盾によって問題が山積みとなるもの。奥羽の諸藩は飢饉の影響を受けやすく、どの藩も財政難に苦しんでいました。
それでも彼らは、蝦夷地を守ろうとしていたのです。例えば第一次の幕領期には、以下のような分担が課されておりました。
【第一次幕領期】
弘前藩:西蝦夷地、国後、択捉警備担当
盛岡藩:東蝦夷地、国後、択捉警備担当
仙台藩・秋田藩・鶴岡藩・会津藩:非常時出兵担当
この奥羽六藩は、時に交替しながら警備を担当。寒い気候、栄養不足による疫病の発生により死者が多発することもありました。
樺太が見いだされた
コロンブスがアメリカ大陸を発見した、という言い方は最近否定されつつあるようです。
西洋人が発見する前から、アメリカ大陸は存在しており、人も住んでいたのだと。
樺太についても、似たようなことが言えるのではないでしょうか。
間宮林蔵の探険により、日本が認識したとされる樺太。
それ以前に会津藩が、幕府の命令を受けて対ロシア警備を行っていました。
クシュンコタン(のちの豊原/現在のユジノサハリンスク)がロシアによって襲撃され、その対抗措置として派遣されたのです。
この会津藩による警備は、間宮林蔵の探険よりも早いのです。
松前藩士が上陸し探険したことはありましたが、幕府の認可の元で樺太へ最初に上陸した和人とは、間宮ではなく会津藩士と言えるのではないでしょうか。
間宮の探険も、ただの測量事業というよりも、北方ロシアの圧迫を感じた幕府によるものなのでしょう。
五稜郭は和洋折衷ハイブリッドだ
幕末ものですと、京都はじめ西日本で政治活動をしていた西南の藩と比較して、のんびりして時代の流れについていけなかったように描かれるのが、東北諸藩です。
重ねて申し上げますが、それは誤解です。
彼らは彼らなりに、ロシアの脅威をひしひしと感じており、蝦夷地警備を担当しておりました。
五稜郭や四稜郭も、こうした中で建築された城塞です。
五稜郭のあの形は、西洋由来のヴォーバン式、クーホールン式、そして日本式を組み合わせたハイブリッドです。
これだけのものを作ることが出来るほど、幕府にだって知識もあったわけです。
設計者は、大洲藩士・武田斐三郎成章です。
緒方洪庵の適塾で学んだ秀才。オランダ語を理解していたものの、英語を学ぶ機会はなかったため、函館の捕鯨員から学んだとか。
猛勉強で知られた秀才で、幕末にはナポレオン砲の生産にも成功しております。
彼の猛勉強があったからこそ、和洋折衷のあの五稜郭ができあがり、自身は明治維新以降に新政府の陸軍に仕えました。
あの新島襄も、この武田に会うために函館まで渡ったと言います(タッチの差で、会えなかったそうで)。
現在、五稜郭には武田の顔がレリーフに刻まれております。
触ると頭がよくなるという伝説のせいで、すり減っているんだとか。
五稜郭と四稜郭だけが、こうした建造物ではありません。
函館市内には、三稜郭、七稜郭とみなせるものがあります。函館のものは、幕府軍が築いたものと推察されます。
しかし、実はこれだけではないのです。
幕末の南樺太警備
幕末期、幕府は南樺太の警備も行っておりました。彼らの認識では、南樺太を「北蝦夷地」とみなしていたのです。
例えば安政元年(1854年)。秋田藩が樺太警備を命じられました。
安政3年(1856年)から、シラヌシ(白主/のちの好仁村、現シェブニノ)とクシュンコタンに、夏期のみ警備をつけることになったのです。
会津藩は、京都守護職となったため途中で抜けるものの、さらには仙台藩・鶴岡藩(庄内藩)も加わり、幕府は南樺太の警備を行いました。
南樺太にも、こうした奥羽諸藩の陣屋が残されたのです。
ロシアへの備えとして不十分と言えるものの、まったくの無警戒でもなかった――それが幕府の蝦夷地政策です。それがノーガードとなってしまうのは、戊辰戦争が原因です。
この戦乱期、会津藩と庄内藩は蝦夷地をプロイセンに割譲することを条件に、支援を取り付けようとしました。
「あまりに酷い外交政策だ」と非難される行為ですが、そもそも蝦夷地に警備空白の状況を作ってしまったのは、戊辰戦争を仕掛けた側といえるのではないでしょうか。
この争いの中、蝦夷地は、最後まで屈しなかった幕臣たちが希望をつなぐ場所となりました。
彼らは松前藩を蹴散らし、幕臣として最後の望みを繋いだのです。
そして戦争が終結し、明治維新となってから
北海道と名を変えた蝦夷地と、東北出身者の関係は別の縁でつながれます。
東北諸藩の人々は、蝦夷地警備の経験もあることだからと、屯田兵として北海道開拓に従事させられます。
そもそも戦争敗者として、他に行き場もありませんでした。
過酷な北の大地。現代のように整備のされてない、荒涼とした野原。条件は最悪と言っていいでしょう。
彼らに蝦夷地の滞在経験があったとかそういうことではなく、戊辰戦争の敗者ゆえに開拓で苦労するのは自業自得――新政府側にはそんな考え方があったのでしょう。
開拓と流刑をセットにした一石二鳥の待遇。それが屯田兵でした。