修羅ら沙羅さら。——小説。3
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
蘭陵王第一
まだふたりともなにも着ていなかった。その午前十一時に、ベッドに上半身だけ起こして、ゴックは壬生を見ていた。立ち上がり、ベッドをぬけだして断りもなく、ゴックに歩く背筋と太ももの息吹を見せた。想わずに彼がそのまま家に歸るような気がした。壬生は美しかった。そのかたち、顏も。しなやかな筋肉のひそかな流れ、骨格の意外ないかめしさも。壬生はいつでも優しく笑い、そして獸じみた危うさが肌ににへばりついていた。ゴックはなにか言いかけた。壬生は思わず立ち止まって、そして逆光の翳りにゴックを見た。白く豊満なベトナム人は、逆光の一瞬の中にすでに人のかたちさえなくした。かくて偈を以て頌して曰く
腐乱しかかった桃の果肉の匂いがする
はじまるよ(——蟹股で)
ゴックの肌は
かの女はみみに(——蟹股で)そういった
たるみかけた肉の色を
ささやきごえで、(——蟹股で、すり足で)はじまるよ
無言の内にも誇って
あしたから、また(——足をすりつけるように)はじまるよ
じぶんがいつでも
かの女は(——步く)みみにそういった
今も、誰にも
ほほえみながら(——ゴックは蟹股で)
誰の眼にも
じゃれつくように(——いつもの蟹股で)
可愛らしくあることをただ
わらいながら(——すり足で)
確信して
こゑさえたてゝ(——なすりつけるような蟹股で)
腕の中で、いつでも喉を
もうすぐ、(——猫背の儘で)かいげんれいがもういちど
かたく締める
戒厳令がまた(——猫背の儘にのけぞって)まちに
聲をなど、決して誰にも
町にまた(——蟹股で)はじまるよ
聞かせてはらないのだと
いま(——蟹股で步く)
恥じらう譯でもなく
ひろがった。(——すりつけて)きたないいきものが
かならずしも
ちいさなきたない、いきもののようないきものらしい、ちいさな穢い(——蟹股の)それが
羞じを知っていた譯でもなくて
もういちど(——ゴックはいつも)
ゴックはまるで当然のように、自分の
みんなのちかくに(——するように)
喉が聲を立てるのを禁じる
すぐそばに(——こすりつけるように)
いつでも瞳孔の開いた眼を向けた
あぶないヴィルスが(——蟹股で)
私に。——むしろ
いきづかう。(——ゴックは步いた)また
これみよがしなほどに
はじまるよ。(——蟹股で)かのじょは
憑かれたどう孔の開いた眼の片すみにみた
みみに(——猫背の儘)そういった。ささやきごゑ
私を。——わたしが
わらったような(——蟹股で)
たとえかの女の背後に
ささやきごゑで(——のけぞったように)
ほかの誰かとわらうときにも
はじまるよ。(——ゴックは步いた)もういちど
はじめてわたしを知ったときに
まちのかくりが、(——蟹股で)はじまるよ
はじめて肌に
もういちど、かのじょはみみに(——すり足で)
男をしったときに
はじまるよ(——こすりつけるような)
もはやただせき裸ゝに
そういった。(——蟹股の)ささやきごえで
瞳孔のひらいためをわたしにむけた。…しってる?
はじまるよ。(——ゴックは步く)どこにもいかず
あなたは知ってる?
とじこもる。そとは(——蟹股で)
おんなたちがどこでも
だれもがあぶなくて(——すり足で)
だれも、いつでもでさらす
はじまるよ。きたないままの(——鼻に抜ける)
そのまなざしは
のばなしの、——はじまるよ。(——甲高い)
どうこうのひらいたまなざしは
むほうちたいが、(鳴り響く)
しってる?まるで
はじまるよ(——たかく鳴り響く)
ひらいたくちのようにみえる
ひろがるよ(——ゴックの聲)
なにもみないで——しってた?
はじまるよ。(——蟹股で)かのじょはみみに
のみこむくちに。しってる?
そういった。(——すり足で步き)ささやきごえで
どうこうの
はじまるよ。みえないきんが(——鳴り響く)
あなたたちのどうこうのひらいた
いきいきと、(——これみよがしに)いつかだれかを
めはいつも、ひらかれたはなの
のばなしに(——鳴り響く)
あなのように——しってる?みえる。しってる?
ころすのよ(——響きわたる)
そのひらかれたくち
のばなしに。(——髙い聲)はじまるよ
そのひらききったはな。あなたは
かの女はみみに(——抜ける聲)
はなのあな
そういった。(——飛び上がる)かのじょは
しってた?うったえるなにもなかった
わらう。(——飛び上がる聲で)わらいながら
ささやくなにもなかった
かの女はおびえ(——ささやく)めを
なにをも、それは
見はる。(——ゴックは)はじまるよ
なにをもきざしもしなかった
うしろのまどを(——蟹股で)返りみれば
みてるの?あなたは
はじまるよ。(——すり足で)かの女は
なにを…みてるの?
ぎゃっこうの中(——ささやく)その時の
ほんとうに?…みてたの?
葉のむれだけが(——蟹股で)かげりをおとし
どうこうのひらききった
なくとりの翳を(——步みより)
おんなたちはいつも、——しってる?
はじまるよ(——ゴックがささやく)
みてるの?…なにを?
隱しとおす。その(——みみもとで)色のかげが
そのひらいたはなの
あざやかに(——甲高い声で)
しってる?
その(——舞い上がる聲で)色の翳りが
くちはかむ
私にだけは(——ささやいた)
しってる?それは
見えていた筈だったのだった。(——ゴックはいつも)…その時には
くいちらし、くちは
かくて又
かげりゆくゆくなつのはのかげりにもイノチもどきのはん殖ノ翳
かくに聞きゝ7月25日壬生は朝寢室に妻を抱きゝ嬬の名ざわつくユエンなりて漢字を當てゝざわつきはじめ緣の一字なり壬生ユエンをざわつく抱き躬の下にざわつき敷きて耳の傍らにざわつきはじめ女の喉の息するをざわつき聞きてざわめくままに觀じてきいたのだった半ば開きたる儘なるドアの先にみみにもめにもきいたのだった氣配ありきユエンがざわつく父親か弟かのざわつく誰かが朝のざわつき何をかなすやらんかくに壬生は思ひきユエンは耳元にざわつく短く一度だけざわつき聲を立てきかくてざわつきはじめてざわつくそれ途切れ途切れにざわつき間を間を置きてざわつく三度續けり壬生はざわつきながらざわめきに途中でやめり是れざわつく常なり壬生すでに女のざわつく躰に飽きゝそれよりほかにゆゑはあらずかくて顏あげたるにざわつくドアにタオ立ちて笑み聲なき儘に壬生ら營むを見てありきタオ邪気なくて笑み笑みて殊更に笑みて邪気も無し壬生タオを見て覩をはりて軈而タオが爲にのみ笑みきかくて頌して
あなたに話そう
その朝いつもよりも
まさにあなたの爲に話そう
殊更にも
ユエンは背中で笑った
静かに見えた町は
時に聲を立てて
ざわめき立っていたに違いなかった
バイクの後ろの風の中で
忘れた頃に
怯えながらユエンはさんざん語った
ふたたび思い出された、その
笑いながら
脅威の記憶
まくし立てながら
その現在形
いかにそれが危険なのか
まさに今の進行
いかにアメリカがぼろぼろなのか
口に
Anh có biết ?
人の、人と人の
いかにヨーロッパがぼろぼろぼなのか
口に
Anh có biết ?
人と人ゝの
いかに日本がぼろぼろぼろなのか
口と口ゝに
Anh có biết ?
外出自粛
いかに今、ベトナムが危険なのか
隔離措置
Anh có biết ?
閉鎖
いかに世界が危険なままななのか
孤立化
Anh phải biết
社会的距離
いかに自分以外のことごとくの世界のすべての悉くが危険なのか
マスク着用義務
派手に笑って怯えながら、バイクの後ろの背中の向こうの風の中で語った
一種の戒厳令
英語とベトナム語でしきりに語った
都市封鎖
ユエンは日本語が話せない
恐怖と懐疑
わたしは聞いた
接触への不安
ユエンはひとりでさわぎながら語った
咳への嫌悪
わたしは聞いた
発熱への疑惑
或はひとりで聞いていた
口に
土曜日の市場はいつものように混雑した
口ゝに
臭った。野ざらしの野菜が蠅をあつめて、そしてそれらを惑わした
人と人ゝの
コンクリートのざらついた上にカボチャの皮が日の温度を知った
口と口ゝに
ユエンは手当たり次第に買い集めた
いつもより騒がしい日だったに違いない
それ、腐るだろ?
その朝
聲が立つ
土曜日の朝は
四方に人の聲が立つ
一種の戒厳令
あくまで他人の、彼等の聲が
その前に
ユエンは云った
いつもより騒がしい日だったに違いない
大丈夫
その土曜日
No problem
その朝
ないしは
晴れた日、晴れた
Không sao
晴れ過ぎてさえ見えて、晴れ
Không vấn đề
干からび切ったほどに瑞々しいほどに
聲が立つ
晴れあがって、腫れあがったかのようにも
他人の聲の群れのなかに、振り向き見た聲が立った
熱気の有る直射日光の
板の上に肉がゆっくりと腐敗していく
肌に
その匂いが立つ
腕の、肌に
板の上に肉が相變わらずの蠅を煽情する
肌が感じた温度
惑ったようにただ飛び舞う
その温度に
聲が四方に立った
思わず見上げた眼差しが見るのは
肉をつかんだビニール手袋の手がそのままに皴の紙幣をつかみ取った
空。青い…
肉を骨ごとに斷つ
わたしの目は
ユエンはKg単位で買った
一種の戒嚴令の前に
牛肉を買った
樣々な社会倫理の暗躍の前に
豚肉を買った
そしてもちろん
魚と貝の臭気が籠る
さまざまな諸ゝの悲劇的事象の前に
野ざらしの地上の狹い通りのそこにだけ執拗に、まるで密室の中にいるかのようにも
いつもより騒がしい日だったに違いない
匂いがひたすら籠る
生きていたいの?
再利用の場違いな絵柄つきのビニールシートの取って付けの屋根が翳りを魚の目の上にも落とした
そんなにまで
聲が立つ
両足がなくなってもう、たぶん何十年もたつのに
四方で女たちの聲が立つ
どうして?
ベトナムで市場には基本女しか来ない
何処かへ行って、ト殺して廻った戦争の?
匂いの中に聲は無防備なほどに、赤裸々に立つ
物乞いの老いた兵隊あがりの市場の午前
ひなたに立っていたわたしを振り向きざまにユエンが諫めた
うなだれて時に
陽の光の直射を咎めたのだった
見上げて
ここでは日差しは或は、破壊の象徴なのだ
笑みもせず憎しみも
事実、そうなのだろう
憎しみも侮蔑もしなかった
ある肌の敏感な日本人の五十代の女がサイゴンに来て、それを案内した時、あわててさけんだ
大変よ。…ねぇ
あくまで小声で、わたしにだけに
でしょ?…じゃない??
——大変よ。…ね大変よ
もうすぐ死ぬのよ
わたしは大げさに帽子と肌掛けに頭から防備する彼女を笑った
誰が?
——この日差し、大変よ。これ、大変なことになる
誰かが、死ぬんだ
その夜、事実女はホテルのベッドの上で顏と首を赤變させ
どこかで
——熱があるの
大變…
女は甘えて云った
たいへんよ…もう
ここに来た一年目の11月、ちょうど南部は
いつもより騒がしい日だったに違いない
乾季のはじまりだった
いつもと同じ市場に
女の瘦せた衰えをすでに知ってすでに馴染みもしていた額にわたしは
いつもに變らない雜然の
唇をつけてやった
雜踏、と。そう
女は私を追って、時節はずれのバカンスに来た
そういうべきもの。群がり立ち
女はそれからの、滞在予定の三日間を
叢迦利多地
ホテルにだけ、私と籠って
武良武羅伽利多知
過ごした。市場でこれ見よがしに私に聲を
聲。こゑ。——ひとの
立てたユエンのその大聲が、私にその時を思い起させた
なぜ?
わたしはひとり笑んで、そしてマスクを直した。三十の時
飛斗乃
ホストをやめてからもその女だけは付きまとい続けた
飛止ゝ飛登止飛斗飛斗乃
その女もすでに、自分の老化と劣化とを知るように、私の老化と劣化をも又
聲。武良武羅伽利多津古惠能武良迦利爾
よく知っている筈だった
あなたは、…この肌
はじめて抱かれた男への固執だったのだろうか
此の肌、まさに鳩尾に流れ
それなりにアパレルでちいさいながらも名を立てた三十過ぎになって
おちる一粒の
今更に女を思った
汗
哀れみと共に?
いつもより騒がしかったに違いなかった
同じく老いさらばえた者の共感を含めて?
むらがる声がわたしの周囲に
自分への哀れみ、要するに糞忌々しい自己憐憫の一形式として?
わたし、そしてその僅か先に步く
いずれにしても市場の通りの魚売り場の臭気と他人の聲の群れの中で、ユエンは
人ごみに怯え背中を小さくした
私をとがめて叫んだ
ユエンの周圍に
限りもなく容赦なく
さわらないでください
限りもない慈しみの心と
穢いから
自分の物を保護する過剰な防衛本能につきうごかされてただ
死にたくないから
正直素直に
呼吸なんかしないでください
わたしはユエンを見て、そして笑んで、そして思わず周囲を見回した
私の前で
その日町の飲食店はシャッターを半分しめた
むしろ、生きていなくてもいい
椅子を総てテーブルにあげた
今
テイク・アウトだけになった
わたしの目の前では
レ・ハンは
あなたはまさに穢くて
自宅待機になったに違いなかった
此の日、土曜日、ユエンは休みの筈だった。朝、一方的に自分が求め始めたのを、壬生自身が途中でやめて、そしてユエンは何も言わなかった。いつものように。不滿を觀じてあることをさらすことなく、且つ不滿の存在を赤裸々にした。子供が欲しくないの?そう云おうと思い謂えば壬生の機嫌が翳ることを知っていたので、ユエンは敢えて云わず済ました。汗をながして寢室に戾った壬生にその時にユエンは云った。寝台に髪を梳かしながら。市場に行こうと。Đi chợ と、そのベトナム語を壬生は解した。なぜ?壬生の問いに Cách ly xã hội 云ってユエンはその言葉をスマートホンのアプリに探した。寢臺に寐たまゝの妻のその手から奪ったスマートホンに壬生は社会隔離の文字を見た。字面から察して壬生は云った。ロックダウン。にほんご、ロックダウン。云って壬生はおかしくて笑って言い直した。にほんご、ろっくだうん。爾保无碁露津久陀宇无都市封鎖。又集團隔離。又戒嚴令?ユエンは取り敢えずほゝ笑んでそしてナノ・ヴィルスに改めて怯えた。ユエンは事の進行をスマートホンと會社のパソコンにインターネットで知った。壬生は櫛を取り、そして殊更に目を閉じてまるでまさに嬬のような、そのユエンの髪を梳かしてかくて偈を以て頌して曰く
死んだ魚がその死んだ目に血をにじませる
わたしはその時に
その眼球の表面の浅い内に市場の雜な喧噪の中で、そして
振り返った。その背後に
夥しくいのちを繁殖させるのだった
泣き叫ぶ少女の聲が耳に
そのいたるところの夥しいところに
聞こえていたから。そして
その皮と肉と骨と
私の目は知った
内臓を脳と目までも喰いつくす
私の目は知った
ちいさなさまざまのいのちのむれを
わたしの心に
死んだ豚が目をほじくり抜かれて顏だけをさらす
私の目は知った
その板のみづからの垂れたしみの上、むしられた鶏の丸裸のとなりに、そして
泣き叫んでいたのは少年だった。まだ
夥しくいのちを繁殖させるのだった
七、八歳の?…泣く
そのいたるところの夥しいところに
少年。泣き、泣き叫び
その皮と肉と骨と
泣く少年
内臓をまでも喰いつくす
母親にはぐれたに違いなかった
ちいさなさまざまのいのちのむれを
わたしは案じた
腦は別に捌かれて売られた
わたしは案じた
上手に蒸して喰われるだろう
何をしてやることもなく
目はすでにもう棄てられた
わたしは心に
どこかの癈棄の山の中に
わたしは案じた
それでもしずかに喰われるだろう
少年の步む背後の遠くに
死んだ牛の赤身の肉が鐵の錨にぶら下がる
その女が怒号を上げた。ひとりのその
板の上には叩きおられた骨がへし折れ、その骨髄を無邪気にさらした。そして
肥えた女が
夥しくいのちを繁殖させるのだった
肉を震わせながら懸命に
そのいたるところの夥しいところに
女は走った。蟹股で、その人ごみの
その皮と肉と骨と
同じくにマスクをした無差別な
内臓をまでも喰いつくす
顏と顏、そして顏と顏と、四肢と
ちいさなさまざまのいのちのむれを
胸と手と手ゝと顏ゝと顏、眼。…目。唇。その
脳は棄ててしまうのだろうか
それらの間を。すり足で走り、女は
それとも誰かが喰うのだろうか
少年に膝間吹くように、そして
どこかでちいさな細菌の群れが
振り向かせた須臾に頬を殴打した
そのかたちごとすべて喰いちらす前に
泣き叫ぶような眼差しのうちに