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不動尊・だが宇都宮は守らない

2020.09.02 02:34

http://tochigi-gokoku.sakura.ne.jp/origin.html  【宇都宮招魂社の創建】 より

栃木県護国神社は、靖国神社や全国の護国神社と同じく、国家公共に尽くされた英霊に感謝するとともに、郷土・国家・世界の繁栄と平和、人々の幸福を祈る場です。

栃木県護国神社の前身「宇都宮招魂社」は、明治5年(1872)年11月に、旧宇都宮藩知事(最後の藩主)戸田忠友をはじめ旧藩士・有志の人々により創建されました。当初の御祭神は、戊辰の役に殉じた従三位戸田忠恕公(旧藩主)及びその臣下等96名の、97柱の英霊です。明治8年4月に、太政官布達第67号により、戊辰の役殉難者は国家が祀ることとされ、官祭招魂社となりました。以後宇都宮招魂社は、西南戦争・日清戦争・日露戦争など数々の戦役における栃木県出身の殉国の英霊も、併せてお祀りしています。この間、明治9年6月には明治天皇御巡幸に際し金幣のご奉納を受けています。また下って大正7年11月15日には、陸軍特別大演習の際、勅使御差遣参拝がありました。

宇都宮招魂社は宇都宮市馬場町字表尾山、即ち二荒山神社に接する高台に鎮座し、その社務も戸田忠友以降、歴代の二荒山神社宮司の職掌でした。また毎年四月には、県の行事として、宇都宮城址で大規模な招魂祭が営まれておりました。

昭和14年、内務省令第12号(3月15日公布・4月1日施行)により、全国で33の招魂社が護国神社と改称されるに伴い、当社も栃木県護国神社と改称いたしました。更に栃木県を挙げての皇紀2600年記念事業として、用地献納や県下各地からの多くの寄付金を受け、市内一の沢町に造営された境内地に、昭和15年4月29日遷座しました。これが現在の境内地です。社殿・施設の設計は、東京の国粋建築研究所(二本松孝蔵所長)が行いました。拝殿における祭儀進行を、広い境内地の端の方からも望むことが出来る、護国神社としては一般的な様式に基づいています。また今日、参拝者を包むように拡がる護国の森は、この時県下一円より献木された樹木が、半世紀以上の時を経て成長したものです。特に春には満開の桜が、参拝の方々に喜ばれております。

戦後の歩み

大東亜戦争終戦後、GHQ占領下に昭和22年11月14日には彰徳神社と改称しましたが、占領解除にともなう県戦没者合同慰霊祭臨時大祭斎行(昭和27年4月28日)を経て、昭和28年4月2日には栃木県護国神社と改復称しました。以後、昭和35年11月27日の戦没者合祀概了奉告臨時大祭のほか、終戦20周年(昭和40年)以降50周年(平成7年)まで10年ごとの臨時大祭に臨み、天皇陛下より幣帛料御下賜を受けています。また平成8年7月25日には、天皇・皇后両陛下の御親拝を頂く栄誉にも恵まれました。

栃木県遺族連合会は昭和26年12月8日に設立され、38年10に神社境内に護国会館を設立したほか、41年11月沖縄県摩文仁が丘に「栃木の塔」を建立、毎年慰霊祭を斎行しています。この他、遺族連合会や関東地区の護国神社などによる合同慰霊祭を、旧満州、東部ニューギニア、グアム、サイパン、フィリピン、ミャンマー、シベリア各地、パラオ、西部ニューギニア(以上実施順)で行ってきました。

当神社の例祭は、毎年4月28日です。この日には県内各地からの遺族数千名が、境内に参列します。また大東亜戦争終戦記念日である8月15日にも、栃木県戦没者合同慰霊祭が斎行されます。護国の森では、祖国と郷土のために身命を捧げられた郷土の先人に感謝し、国の隆昌と世界の共存共栄を祈る営みが続いております。

https://hotokami.jp/area/tochigi/Htgty/Htgtytr/Dmzkr/146413/17070/ 【東北不動尊の投稿(1回目)】 より

宇都宮城址公園の隣にあり、今まで気付かずいました。

二本の剣が両脇にあります。

宇都宮の守護神として、東西南北におかれた菅原神社、八幡神社、お不動様の中心に鎮座しています。

さらに北には一の宮、二荒山神社があります。


東北不動尊はまるで宇都宮の守りを打ち破る不動尊ではないかと感じられます。


https://hotokami.jp/area/tochigi/  【栃木県の神社お寺ランキングTOP20!有名寺社から地域の神社お寺まで紹介】 に入っていません。


https://ameblo.jp/hibarasan/entry-10862812113.html  【第384回 かくれ桜公園と城主の亀お墓 の巻】 より

この日は、かくれスポットの桜公園に行ってみました。

場所は、東武宇都宮横の通り、日光街道と平成通りが交わる交差点「滝沢病院前」のバス停からすぐのところです。

目印はこの道標。ここから左へ曲がります。細い路地を入ると、どこからともなく、桜の嵐が・・駐車場にある桜。その奥に公園があるのですが、ここからは通り抜けられません。

少し進むと、狭い路地と立派な桜があります。

そこには「宇都宮城主戸田家菩提所 英厳寺史跡」という石碑が立ってます。

墓所? 寺? そして、英厳寺児童公園・・ 公園!!?

入り口があまりにも狭いので、見過ごしてしまいそうなかなりレアな公園です。

もはや、児童の気配は・・ない。σ(^_^;)

桜舞い散る狭い路地を突き当たり、右へ進むと、寺・・なのに、鳥居がありました。f^_^;

奥に進むと、そこには、お墓がありました。震災で被害があったのか、立ち入り禁止のテープが巻かれてました。このお墓は、戸田忠恕(ただゆき)の墓です。

おもしろいのがこのお墓なんと墓石に、亀さんがいるのです。

亀さん俺、亀梨!が墓石を支えてる、とでもいいましょうか・・f^_^;初めて見ましたこんな墓石。かなり、ユニークだと思うんですが。

ただ、なんで亀なのかは説明を読んでも書いてなかった・・

そこでピンと来たのが、宇都宮市の市章です。

↑宇都宮市の市章

この市章は、かつて宇都宮城が、亀が丘城といわれたのにちなみ、亀甲形と宇都宮の「宮」の文字を図案化したものだそうです。

なので、この“亀が丘城”ってのが、なにか関係があるのかな?と勝手に推測いたしました。

(詳細、知っている人いたら教えてね)

あ、それとも忠恕さんが亀好きだったんか・・?(笑)

この亀お墓の隣にあるのは、同じく戸田家、忠友(最後の城主)のお墓。

この震災で、一番被害がある墓石でした。これは早く修復しないと・・!(´Д`;)

そのまた隣には、大きな墓石(合葬墓碑)がありました。

そして、公園の奥には大きなイヌツゲという木が残っています。

ここには、昔約1万坪の広大な英厳寺(えいがんじ)というお寺があったそうです。

戊辰戦争の際に焼失してしまい、廃寺になったそうで、現在は、この墓石群とこのイヌツゲが残されています。

このイヌツゲ、ここまで大きいのは珍しいようです。

5~6月に小さな白い花が咲く、と書いてあるので、覚えておきましょう。