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宇都宮城(唐糸城、亀ヶ丘城、亀岡城、亀井城)

2020.09.02 06:49

https://tochigi-burg.com/utunomiya.htm  【宇都宮城】  より

読み・・・うつのみやじょう

所在地・・・栃木県宇都宮市本丸町(旧宇都宮市)

別称・・・唐糸城、亀ヶ丘城、亀岡城、亀井城

築城年・・・940年か1063年

築城者・・・藤原秀郷か藤原宗円

主な城主・・・宇都宮氏、芳賀高照、壬生綱雄、浅野氏、蒲生氏、大河内氏、奥平氏、本多氏、松平氏、本多氏、阿部氏、戸田氏

2説ある築城話

 宇都宮城築城は2説ある。

 1つは藤原秀郷説。秀郷は940年3月、平将門を滅ぼした。その功により従四位下武蔵守、鎮守府将軍に任ぜられた秀郷は、佐野唐沢山城の本城の他に、東国、陸奥地方を治めるための出城として宇都宮に居館を築いたといわれる。

 秀郷の後には5男の藤原千常が入り、さらには千常の子キミノリ、その子兼光、頼行、兼行と5代にわたって継承される。

 もう1つは藤原宗円説。宇都宮氏の祖である宗円が、陸奥平定祈願成就の功によって宇都宮社務職になった。それを機に、1063年に築城したのが始まりといわれる。

 これには、秀郷などが築いた城を宗円が手を加えたとする説もある。

宇都宮家22代

 初代宗円・・・源頼義・義家が奥州の安倍貞任・宗任の征伐をしたとき(前九年の役)に従い、下野の氏家勝山で源氏の戦勝を祈願した。その功によって宇都宮明神の社務職に任じられた。

 2代宗綱・・・宗円と益子正隆の子であり、宗円の兄兼仲の養子となるが、兼仲に子が生まれたため、宗円の跡を継いだ。別に、宗綱は中原宗家の子であるとする説もある。

 3代朝綱・・・宗円と宗綱については不明な点が多いが、朝綱の頃から史料にその名が出てくる。

 朝綱は、大番役として上洛し、鳥羽院武者所、後白河院北面の武士などを務めた。朝綱上洛中の1180年、源頼朝が平氏追討の挙兵をし、朝綱は京都で平氏方の捕虜となってしまった。翌年、頼朝の叔父で頼朝に叛旗を翻した志田義広が常陸で挙兵した際、小山朝政が義広討伐を命じられ、朝綱の弟八田知家と従兄弟宇都宮信房が小山朝政とともに下野野木宮で志田勢と戦った。

 1182年の時点で、朝綱は頼朝の家来として名を連ねており、平氏を滅ぼした後は、旧領安堵と伊賀国壬生野郷の地頭職を与えられている。

 さらに1189年に頼朝が奥州藤原氏征伐の軍を発すると、朝綱も頼朝軍として参加し活躍した。このとき、益子氏と芳賀氏の「紀清両党」が活躍し、名を残すこととなる。

 だが、朝綱は1194年、下野守国司藤原行房から「公田百余町をかすめとった」として訴えられた。公田(国衙領)の裁定は幕府ではなく朝廷が下すこととなっていて、朝綱は有罪となった。朝綱は土佐国、孫の頼綱は豊後国、同じく孫の朝業は周防国へそれぞれ追放されるが、2年後に赦されて下野国へと戻り、朝綱は1204年に亡くなる。

 4代業綱・・・父朝綱に先立って、1192年に亡くなってしまったため、大きな事柄はない。奥州藤原氏討伐に加わったというが、奥州へ行った様子がなく、宇都宮にいた可能性がある。

 5代頼綱・・・1198年に将軍頼朝が亡くなると、2代将軍となった頼家は、幕府の政治を13人の合議制で行うこととした。しかし、この13人の間で権力争いが起こり、北条氏が実権を握るようになった。

 1205年、頼綱が謀反を起こしたと鎌倉に届き、執権北条義時は小山朝政に頼綱を討つよう命じた。朝政は、姻戚関係の頼綱を討つことはできないと断り、急いで頼綱にこの危機を伝えたらしい。頼綱は謀反を起こしていない書状を書いて弁明するも疑いは晴れず、出家して「蓮生」となり、鎌倉に向かって北条義時邸を訪問したが面会は許されなかった。ところが、頼綱は罪に問われず、宇都宮家の危機は救われた。頼綱は27歳で出家してしまったために子供が幼く、弟の塩谷朝業が宇都宮朝業として宇都宮家の代表となり幕府に出仕することとなった。

 頼綱は出家したとはいえ、幕府に奉仕していたらしい。1214年、日吉祭をめぐって比叡山延暦寺と近江大津の園城寺が争い、園城寺が焼き討ちされる事件が起こった。幕府はこの園城寺の修復工事を御家人達に命じ、その中に頼綱の名もあった。

 1219年に将軍実朝が暗殺され、1221年には承久の乱が起こると、頼綱は鎌倉に留まり、頼綱の2男頼業が北条泰時軍に加わって武名をとどろかせた。

 頼綱は藤原定家と交流があり、日本三大歌壇の1つ「宇都宮歌壇」の礎を築き、頼綱の娘が定家の子為家に嫁いでいる。

 6代泰綱・・・頼綱の3男として生まれ、1230年頃から幕府へ出仕しだしたようである。

 1233年、前の関白近衛基通が死去した際、幕府の弔問の使者として泰綱が選ばれて上洛。

 1235年、石清水八幡宮と奈良興福寺の間で水利をめぐって衝突し、この鎮圧軍の中に泰綱がいた。

 1238年、将軍頼経の上洛に従い、泰綱は「下野守」に任じられた。

 1243年には評定衆21人の1人となり、1261年に亡くなるまで評定衆を務め、幕府の要人であった。

 7代景綱・・・1252年、執権北条時頼は将軍頼嗣を廃して、代わりに御嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍として迎え、京都を出発して向かってくる親王を出迎えた御家人の中に景綱がいた。それ以来、景綱は将軍近くで仕えることとなる。

 1269年、幕府は引付衆制度を復活し、景綱はその15人の1人となり、1273年には引付衆から評定衆に昇格した。この間、元の使者がやってきて国交を迫るなど、緊迫した状況であり、景綱は幕閣の1人となって国難に対処することとなった。

 1274年、元・高麗の軍船900隻、2万8千人の大軍をもって博多湾へ襲来するが、台風に遭い撤退。

 1281年、再び元・高麗軍が対馬に来襲し、博多湾まで攻めてくるも、暴風雨にあって撤退した。

 1283年、景綱は宇都宮領を支配するため、「宇都宮弘安式条」を制定した。全条70ヵ条で、社寺規定24ヵ条、裁判規定2ヵ条、訴訟規定10ヵ条、幕府関係3ヵ条、一族郎党関係31ヵ条からなり、最古の武家家法である。

 1284年、執権北条時宗が亡くなると、時宗の死を悼んで出家する御家人が多く、景綱も出家し「蓮瑜」となったが、翌年に「霜月騒動」が起こると失脚し、1293年に引付衆に代わる執奏制度が置かれ、執奏となって再び幕政に参加した。

 8代貞綱・・・1281年、父景綱に代わって弘安の役(元寇)に出陣し、宇都宮家の名を高めた。

 1295年、貞綱は執権北条貞時の命により、北条宗方を討ったという記録が残るが、北条宗方が貞時に討たれたのは1305年のことであり、1295年時点ですでに貞綱は貞時に従っていたということであろう。

 9代公綱・・・1331年、後醍醐天皇が倒幕を企て、幕府は鎮圧のために軍を発し、紀清両党を率いて公綱も出陣した。翌年には、摂津四天王寺で楠木正成と戦った。この時の勇猛ぶりを正成は「宇都宮は坂東一の弓取り」と評し、坂東武者の勇名を天下に轟かせた(楠木正成との戦いについては、「坂東一の弓取り」参照)。

 その後、足利尊氏が後醍醐天皇につき反幕に転じて六波羅探題を滅ぼしてしまった。公綱は楠木正成が立て籠もる千早城を攻撃中であったが、六波羅探題が滅びたことを聞くと、囲みを解いて奈良に立て籠もることにした。後醍醐天皇は中院中将定平を大将とする5万騎を奈良へ向かわせて降伏をすすめ、これにいち早く反応したのが公綱で、公綱は紀清両党700騎を率いて上洛し、後醍醐天皇に降伏した。そして建武政権の一員となり、1334年に新設された雑訴決断所の奉行の1人となる。

 1335年に北条時行が北条再興のために兵を挙げると、足利尊氏は鎮圧のために鎌倉へと入り、そのまま鎌倉にとどまって反後醍醐の構えを見せた。これに対し後醍醐天皇は新田義貞を将軍とする尊氏追討軍を発し、これに公綱も加わったが、京都へと攻め込んだ足利軍に公綱は敗れ、尊氏に降伏した。ところが、北畠顕家軍が京都に侵攻して尊氏を追うと、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

 九州へ落ちのびた尊氏は再び京都に入ると、後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、公綱も従った。比叡山で後醍醐天皇は抵抗するも、尊氏勢の攻撃に耐えられず和睦をし、北朝の光明天皇に譲位した。公綱は捕らえられ、出家して京都にしばらくいた後、宇都宮に帰ったという。

 10代氏綱・・・観応の擾乱による足利家内部の争いが勃発すると、氏綱は尊氏に味方して薩タ山(注)の戦いに参加し、その功によって、上野、越後の守護職に任ぜられた。

 1361年、鎌倉公方足利基氏は関東管領畠山国清を討つと、上杉憲顕を呼び寄せて関東管領とした。これによって、宇都宮氏綱の越後守護職は憲顕へと代わり、上野と越後の守護代を務めていた芳賀禅可は激怒し、憲顕を攻撃する計画を立てる。その情報を鎌倉公方足利基氏が知ると、芳賀禅可討伐の軍を発し、激戦を展開するものの芳賀禅可は敗れた(基氏と禅可の戦いについては、「守護代芳賀氏」参照)。基氏軍は芳賀禅可との戦いに勝利すると、そのまま宇都宮氏綱を討伐するために下野へと向かって氏綱は降伏、上野守護職を失った。

 1367年に鎌倉公方足利基氏が亡くなると、その翌年に武蔵で平一揆が起こり、氏綱はこれに乗じて兵を挙げた。関東管領上杉憲顕は平一揆を討伐し、宇都宮まで攻め込んできたために氏綱は降伏。(注)薩タ山のタの字は、土へんに垂。

 11代基綱・・・1380年5月、祗園城主小山義政と雀宮の裳原で合戦し、基綱は戦死。

 12代満綱・・・父基綱が裳原の戦いで戦死した際、満綱は5歳の子供であった。宇都宮の家臣達に守られて成人したと見られるが、史料に名が出てこないため詳細は不明。

 13代持綱・・・1407年に満綱が亡くなると、満綱には子がなかったため、宇都宮一族の武茂氏から持綱が迎えられて宇都宮家当主となった。

 1416年に起こった上杉禅秀の乱では、幕府・鎌倉公方足利持氏方についていたと見られ、乱の終了後に安堵状を得て、上総守護と京都御扶持衆となった。

 その後、京都御扶持衆の小栗城主小栗満重が反乱を起こすと、鎌倉公方足利持氏は小栗満重を討伐するために軍を発した。小栗満重と同じく京都御扶持衆であった氏綱も小栗氏に同調したため、持綱も討伐を受けた。小栗氏と持綱は敗れ、持綱が逃れる途中、一族である塩谷氏に討ち取られた。

 14代等綱・・・持綱が殺害された時、等綱は4歳であったが、宇都宮を追われて各地を流浪した。

 19歳でようやく宇都宮に戻り、1440年に起こった結城合戦に参加して戦功を挙げた。

 1447年、鎌倉公方足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方となるが、成氏と関東管領上杉氏の家臣長尾氏、太田氏が争い、このとき等綱は成氏に味方して、江の島合戦に参加している(成氏については、「足利成氏の墓」参照)。

 その後、成氏は上杉氏勢力を一掃するために行動を起こし、幕府は上杉氏に味方して成氏討伐の軍を発したため、成氏は古河へ移って「古河公方」と呼ばれるようになった。幕府の成氏征討軍に呼応して、等綱は反成氏の立場をとり成氏と対立したことから、1455年に成氏軍が宇都宮城を攻撃し、等綱は降伏して出家した。

 15代明綱・・・父の等綱は反成氏の立場をとって成氏に敗れて出家したが、明綱は成氏に降伏して成氏に従った。だが、明綱は1463年に21歳の若さで死去した。

 16代正綱・・・15代明綱に子がなかったため、芳賀成高の子で武茂氏の養子となっていた正綱が宇都宮家を相続した。

 幕府は正綱に古河公方足利成氏の討伐を命じ、正綱は去就を決めかねていたが、芳賀氏が幕府に従うよう正綱に働きかけ、正綱は幕府方に転じた。ところが1477年、正綱は古河公方足利成氏の命で上野白井に出陣し、川曲の陣中で病死していることから、途中で成氏方についていることが分かる。

 17代成綱・・・宇都宮家の中興の祖として知られる成綱については、「中興の祖、成綱」に詳細が書いてあるため、そちらに譲る。

 18代忠綱・・・名門鹿沼氏を滅ぼし、皆川氏と激突したりと、勢力を拡大した。

 ところが1526年、忠綱の妹婿で下総の結城政朝が兵を率いて宇都宮へ押し寄せてきた。忠綱も手勢を従えて出陣し、猿山ヶ原で激突。この時、忠綱を恨んでいた叔父の芳賀興綱が好機到来とばかりに、忠綱留守中の宇都宮城を攻めて乗っ取った。

 忠綱は結城政朝との戦いに敗れ、しかも宇都宮城は芳賀興綱に占領されていたため、壬生綱房を頼って鹿沼に敗走。そこで病死か毒殺された。

 19代興綱・・・忠綱を追いだして、宇都宮家の当主となる。

 当主の座を奪い取った興綱だったが、芳賀高経らとの権力闘争に敗れ、1536年に自害を強要されて死んだ。

 20代尚綱・・・興綱の子で、出家していたが、芳賀高経らによって還俗し、宇都宮家当主となる。

 尚綱が当主となった後、芳賀高経らが尚綱を支えて宇都宮家中をまとめていた。尚綱と芳賀高経が対立すると、1539年に芳賀高経は児山城に籠って、皆川氏の支援を受けて抵抗するも、敗れて討たれた。

 1549年、尚綱は早乙女坂で那須高資と戦い討死した(「早乙女坂古戦場の跡」参照)。

 21代広綱・・・父尚綱が戦死した際、広綱は5歳であり、芳賀高定が守って自分の居城(御前城か?)に連れて逃げ、宇都宮城には芳賀高経の遺児高照が入った。

 1551年、那須氏当主の高資が家臣の千本城主千本資俊によって千本城で殺された。芳賀高定の謀略であるともいう。芳賀高照は父高経が死んだ後、那須高資を頼っており、後ろ盾を失った高照に代わって壬生綱雄が宇都宮城を占拠した。

 芳賀高定は佐竹義昭に支援を要請し、佐竹氏が動いて宇都宮へ攻め込んで飛山城に入ると、壬生綱雄は宇都宮城を離れ、こうして広綱は宇都宮城へ入り、念願の帰城を果たした。

 1558年、越後の上杉謙信は大軍をもって下野に攻め込み、小山高朝、壬生綱雄を次々と撃破し、宇都宮城を攻め落とそうと多功方面へ襲撃してきた。広綱は防戦し、上杉勢を上野へと追い払った。

 1572年には、北条氏政が武蔵らの大軍を率いて下野に攻めてきたが、これも多功付近で撃退している。

 さらに1574年、武田勝頼が下野に攻めてきて、宇都宮軍はこれも撃退している。

 22代国綱・・・広綱が病死した時、国綱はまだ9歳だった。そのため、4年間広綱の死は隠され、母親の南呂院が政務を取り仕切った。

 国綱の時に豊臣秀吉の小田原攻めが起きた。国綱は進んで参陣し、領土を安堵された。朝鮮出兵にも一族三百人を率いて釜山に上陸、軍功を上げた。

 秀吉は国綱に「浅野長政の三男を養子にせよ」と勧めた。国綱はこれを承知したが、弟の芳賀高武は「宇都宮家の世継ぎは一族が決めること」と怒り、秀吉の申し出を断わらせた。下野の検地奉行であった浅野長政はこれを恨み、「宇都宮の所領には不正がある」と訴えた。検地の結果、実際の倍以上の石高が報告されたために、宇都宮城は召し上げられ、22代続いた宇都宮家は滅亡した。