くるり新曲のマスタリング現場に潜入! 「マスタリングって何?」という疑問はこれですべて解決 | 01
あなたが音楽ファンなら、一度はこんな風に思ったことがあるに違いない。「あのさ、マスタリングって何?」。
CDやデータ、ヴァイナルに封じ込められた録音物ーーつまり、レコード作品は、作家たちによるレコーディングという作業によって作り上げられる。レコーディングの次にはミキシングという行程がある。何チャンネルにも録音されたそれぞれの音源の強弱を調製し、それを左右の2ミックスに振り分けていく作業だ。ここまではわかる。想像がつく。
だが、そうして録音された音源はその後、「マスタリング」という行程を経て、最終的な「作品」として完成される。
「でも、実際にそのマスタリングって何をやってるの?」、「それって大事な作業なの?」、「アナログとデジタルって、どちらが音がいいの?」「ヴァイナル・レコードのカッティングって何をどうやってるの?」といった疑問。ありますよね? おそらくこの記事はそうした疑問に対する、すべての答えになることと思う。
今回、我々がお話しをうかがったのは、「日本のマスタリングの父」と呼ばれる、JVCマスタリングセンターの小鐵徹さん。現在、73歳。ヴァイナル・レコードの時代はカッティング・エンジニアとして、その後、まだマスタリングという言葉もなかった時代から、その第一人者のひとりとして何十年にもわたってマスタリングという作業に従事されてきた方だ。
筆者はこれまで幾度となく多くの日本のミュージシャンたちから、小鐵徹さんのお名前を聞いてきた。「マスタリングをお願いするなら、まずやっぱり小鐵さん」、「ヴァイナルのカッティングをお願いするなら、小鐵さん以外にいない」、「ホント最高だよ、小鐵さん」等々。なので、ずっと小鐵さんにお会いしたかった。その現場に立ち会って、小鐵さんがどんな機械を使って、何を、どんな風に作業するのか、それをこの目で目撃したかった。
そこにこんな話が舞い込んでくる。2016年7月にリリースの新曲「琥珀色の街、上海蟹の朝」を小鐵さんがマスタリングするという。しかも、この「琥珀色の街、上海蟹の朝」、このタイミングでまさかくるりが作ってくるとは思わなかった驚愕の新機軸。
bpmは90。ヒップホップ・マナーのどっしりとしたビート。だが跳ねる。これまでずっと彼らが避け続けてきた、ほぼ4つのトニックの円環による曲構成。しかも、やはり彼らがこれまで敢えて手を出さなかった、サブ・ドミナント始まりのツー・ファイヴ進行が基本になっているというロイヤル・ロードど真ん中。しかもしかも、同じトニックの円環の中で何種類ものメロディが出てくる。しかもしかもしかも、ヴァースはラップ。
このあまりに意外、だが、あまりに名曲、あまりにくるり、な楽曲を小鐵さんがどのように料理するのか?
これを機に、大半の音楽ファンにとっては、未知の領域である「マスタリング」という現場に立ち会わない手はない。その上で、いくつもの疑問を解消したい。この記事の目的は、音楽ファンなら一度は感じたことのあるだろう、そうした欲望を満たすことを読者と共有しようとするものだ。
まずは、くるり新曲「琥珀色の街、上海蟹の朝」のマスタリングの現場に潜入取材した動画を見てもらおう。続いて「日本のマスタリングの父」=小鐵徹さんとの対話に目を通して欲しい。
果たして、小鐵さんは「歴史そのもの」だった。
2016年という時代にはケンドリック・ラマーがいる。だが、その半世紀以上も前にサム・クックがいなければ、彼は存在しなかった。「ポップ・ミュージックとは、音楽が鳴っている瞬間に他者の喜びと悲しみを生きることだ。重層的に重ねられた、さまざまな記憶と歴史に出会うことだ」という言葉がある。果たして1時間に及ぶ、小鐵さんとの対話はまさにそうした音楽体験とまったく同質のものだったと言っていいだろう。
優れた知というのは、何かしらの理想に向う過程における、いくつもの試行錯誤と失敗と自己批判と学びの積み重ねの先にある、ということ。その積み重ねの果てに、とても柔軟で、フレキシブルで、穏やかな知は存在する。我々は「小鐵徹」という歴史の証人、いや、歴史そのものに、ケンドリック・ラマーやサム・クックと同じ、ひとつのロールモデルを見る。
ここで語られている「内容」以上に、いくつもの時代の変遷を受け入れながら、常に第一線であり続けてきた人特有の、穏やかさの中に静かな重みのある、とても魅力的な小鐵さんの「語り口」を楽しんで欲しい。
余計な押しつけがましさが一切ない、とても慎ましやかでいながら、しっかりと芯の通った揺るぎない重み。小鐵さんの言葉とその独特の語り口が醸し出すグルーヴはまるで極上のソウル・ミュージックのようだ。字数は膨大だが、きっとこんな風に感じてもらえるに違いない。ずっと聴いていたい。
ーまず初めに、小鐵さんが普段お仕事されているマスタリングのエンジニアリング、それとヴァイナル・レコードのカッティング作業について、そもそもどういうお仕事なのか教えていただけますか?
小鐵:マスタリングのことを私は分かりやすくお化粧と言っているんですが、例えば同じ俳優さんでも、映画にしても舞台にしても、そのシーンに合ったお化粧をメイクの人がしますよね。僕はそれにすごく似ていると思っているんです。
ーなるほど。では、そのお化粧の方法についても教えてください。
小鐵:僕が使っているビクター・オリジナルのマスタリング卓はすべてのユニットがアナログ方式なんですが、これを僕はお化粧道具と言っているんです。ここで、持ち込まれた素材に対してお化粧したものを、コンピューターのDAWというものに取り込んで、それをDDPにしたものがCDです。この取り込んだものからアナログ・カッティング用のマスターも作りますから、アナログにしてもCDにしても、基本的なお化粧というのは同じなんですね。ただ、CDとアナログの違いっていうのは、CDはお化粧したものを取り込むだけ。アナログの場合はそれをマスターにしてこちらでカッティングしないといけないわけです。
ー今、すべてがデジタルに移行している時代なわけですが、こういったアナログのマスタリング卓を使っているエンジニアは、日本で小鐵さん以外にもたくさんいらっしゃるんですか?
小鐵:いらっしゃると思います。世界的に有名なニューヨークのスターリング・サウンドだとか、西海岸のバーニー・グランドマン、あとイギリスのメトロポリスだとか、そういう主だったところは大体こういうスタイルを使ってるんです。僕はどっちかというとハードが苦手なもんですから、新しい機材を使うことにすごく抵抗があるんです。ただエンジニアとしては、世の中にどういう機材が新しく出てて、どういう音をしているんだということを本来なら勉強しなくちゃならない。
ーただ小鐵さんはアナログの卓をお使いになっている。
小鐵:僕が使っている機材自体はアナログ・レコードの時代からですから、もう30年も経ってるんですよ。ですから、僕としては自分の手足のように使える。極端に言えば、これだったら、目をつぶっててもそのサウンドにすぐ出来るんです。そういうことで、これを頑なに守ってるんですけれどもね。そういうものも総して『ビクターのマスタリングは何ですか?』と言われた場合は「有機栽培のマスタリングです」と答えてるんです。何か有機栽培にすごく似てるなと思ってるんですね。
ーそれぞれのアーティストによってどういうタイプの音がいいか、好みが分かれると思うんですけれども、それがデジタル以降の10年20年で変化をしてきたりだとか、何か傾向はありますか?
小鐵:僕は音楽も一種のファッションだと思っているんです。ファッションは流行で変わりますよね。そういう大きな流れの中で、一番大きく時代の変化を感じるのは、キックとベース。これの出し方だとか、音色が一番変わったなと思います。一時期、クラブ・ユースのレコードが流行りましたよね。あの頃のものっていうのは、重厚長大。キック、ベースの出し方がすごいんですよ。
ー確かに90年代やゼロ年代は重低音が鳴った音が目立っていました。
小鐵:それが今はタイトっていうか。昔はウェット方式、今はドライと僕は思っているんですけれども。昔のようにドオォォンじゃなくて、ドンッなんですよ。軽いし、乾いているっていうか。
ーその違いを出すために具体的にはどういう作業をされるんですか?
小鐵:イコライザーで出す時に、これはウェットなキックが欲しいなと思ったら、僕は60ヘルツというポイントを使っているんです。それで今のように乾いた感じが欲しい時には、その下の50ヘルツ。たかだか10ヘルツですよ。それで表情がすごく変わっちゃうんです。ですから、素材が余りにも乾きすぎて、ちょっと潤した方がキックがかっこいいよなと思った時には60ヘルツを使うし、反対にちょっとダボつくなとか、もっとかっこよくシティ・ボーイ風にしたいなという時には50ヘルツを使う。そういう使い分けですね。1つはそういう流れがあるかなと思いますね。
ーなるほど。
小鐵:これはよく僕がお客さんに反対に質問するんですけど、ファッションの中で何が一番大事だと思います? 例えば、服を買うだとか、靴を買うだとか、何でもファッションに関係があることじゃないですか。本当に分かりやすい、そのとき誰でもが思うことです。
ー自分に似合っているかどうか、ですか?
小鐵:どういうことかというと、「かっこいい」、じゃないですか。
ーなるほど、すごくシンプルな答えですね!
小鐵:かっこいい、その人がそう思うから買うわけですよね。僕は、ファッションで何が一番大事かというと、やっぱりかっこいいと思わせることだと思っているんです。音楽についても、やっぱり聴いてかっこいいとか、そういう気持ちが大事なのかなと思うんですよね。
ーただ、ある時代のあるアーティストが思っているかっこよさと、何十年仕事されてきた小鐵さんが考えられるかっこよさが一致しない場合もあるんじゃないですか?
小鐵:そこはとても大事で、マスタリング・エンジニアの仕事っていうのは、自分の趣味嗜好でやっているわけじゃないんです。毎回アーティストが持ち込む作品を、そのアーティストがどんな形で音に具現化して出していきたいのか。それを探るのに必死なんです。そのために、極端に言えばアーティストが言った1のことから10ぐらいを察知しようと思ってやっているんですね。お客さんの要望の中から、このお客さんはこういう感じを求めているんだな、とか、そういった方向性を早く的確に掴んで音という形に具現化してやる。お化粧道具で具現化して出してやる、それがマスタリング・エンジニアの仕事だと思っているんですよ。
ーつまり、小鐵さんにとってマスタリングというのは、自分の趣味嗜好は関係なく、アーティストにとっての最善を探る仕事だ、と。
小鐵:CDにしてもアナログ・レコードにしても、アーティストにとっては子供だと思っているんです。そしたら、親が満足できるよう作らなきゃ、という気持ちなわけ。出来上がったCDを聴いて、アーティストがこの曲はもう半秒縮めたかったな、とか、この曲はもう少しマイルドにしたかったな、とか思ったとするでしょう? だから、『僕はこれでいいと思う』ではダメなんですよ。それは自分の趣味嗜好の意見であって。だから、難しいですね。
ー毎回のお仕事に完璧に満足できるわけではないんですね。
小鐵:チャーリー・チャップリンがインタビューを受けて、「あなたは今まで色んな作品を作ってきましたが、何が一番おすすめですか?」と尋ねられた時の答えが「次作です」と。秋吉敏子さんも同じようなことをおっしゃっていて、「今日のコンサートこそは完璧にやるぞ」といつも思われるそうです。だけど、いつも終わると「あそこはああだった、こうだった」という反省が必ずあると。だから、同じような質問をされると「次のコンサートです」という回答をされるそうなんです。何となく僕もその気持ちが分かるような気がするんです。だから、僕もかっこつけて「僕のおすすめは、次作です」と言うようにしてるんです(笑)。
ーキャリアのあるアーティストであれば、自分の仕上げて欲しいお化粧はこれなんだ、という意思を明確に持っていますよね。ただ、初めてレコードを作ったというアーティストの場合、どういう風に取り出してあげればいいのか分からないというケースもあると思います。そういう時は、どういうアプローチをされるんですか?
小鐵:初めてのお客さんの場合は、やっぱり神経使いましてね。初めてのお客さんでも、自分の作品に対する要望をどんどん積極的にしゃべってくれる人はやりやすいんです。でも、人にも色々ありますから、初対面ではお互いに何もしゃべらない場合もあるでしょう。そういう時に僕が何をするかというと、日常茶飯事的なお話から入るんです。一種の誘導尋問のようなものですね。そうやっていろいろとお話してるうちに、向こうからもぽつりぽつりと話してこられるわけです。お客さんの中で、「あれもこれも要望をたくさん出したら小鐵さんに失礼なんじゃないか?」と思うと言う方もいらっしゃる。でも、それは違うんです。いろんな要望をたくさん出していただいた方が、僕としてはやりやすいんですよ。というのは、それがサジェスチョンになりますから。
ー逆に言うと、「小鐵さんが一番良いと思う音にして下さい」と言われると困ってしまう?
小鐵:それもよく周りから言われるわけ。立ち合いに行けないから、お任せします、と。すると、うちの事務所の連中は、「いいじゃないですか、小鐵さんの自由な時間で好きにやればいいんだから」と言う。でも、僕が一番怖いのはお任せなんです。音楽というのは1つのファッションですから、それぞれの嗜好が違いますよね。だから、僕はお任せというのは極力やらないで、なるべく立ち合いに来ていただくようにしてます。
ーただ、小鐵さん自身の個人的な趣味嗜好というのはまったく反映されないわけではないですよね?
小鐵:個人的に好きなものっていうのはありますよ。それに機材も生き物ですから、毎日信号を入れてチェックするんです。その時に、僕の大好きなアース・ウィンド&ファイアの2曲を最終のレファレンスにしていて、これを毎日聴くわけですよ。同じ曲を毎日聴くわけですから、今日のキックやベースがどう、ギターがどうとか、それで毎日の状態をヒアリングしているんです。
ーそのアース・ウィンド&ファイアの2曲が1つの基準になっているわけですね。
小鐵:基準、というかシステムのチェックのためですね。チェックのために毎日聴くんであれば、やっぱり自分の好きな曲の方がいいなと思って。会社から提供されたチェック用の音楽もあるんですよ。それはクラシックでね。あんまり僕は好きな曲じゃないから、勝手に変えちゃってるんです。同じものを聴くんなら、毎日楽しく聴いた方がいいなと思ってね。今はもう規定もなく自由ですから、そうさせてもらってます。
text & interview : 田中宗一郎 / SOICHIRO TANAKA
次週公開「02」へづづく。