センスに惚れる時
もしお見合いアプリで幾つかワードを打ち込むなら、間違いなく「アジカン」を聞く女性を探しますね。
いや、もっと他に良いアーティストがたくさんありますし、私の一番の「推し」ではないのですが、それを聞く人の印象が、どこか野暮ったくて、不器用で、歌の上手さが肝心じゃないことに気付いていて、決して恋愛の自論などは口にせず、ご飯とお味噌汁だけ在れば感謝して付いて来てくれそうで、歌詞もメロディとして聞いてしまう適当なのか芸術肌なのか分からない独特のセンスがありそうで、靴下を左右間違えて履いてきてしまっても「こういうファッションなんだ」と言い張って、うまくいかなくても「まぁ私の人生こんなんだから!」と軽く流して、世間体やブームに流されることなく自分の良しとするモノに自然と行きついてしまう人のような気がしてならないんですよね。
いや、今書いてみてこれは恋人ではなく友達に最適なお相手か?
うん。
何れにしても一緒にいたら楽しそう。
なんてね。
こういった書き物をする時、必ずしも話の内容が一人称でなければならないということは無いと思っています。
他人が経験した人生を、あたかも自分自身が感じていることのように綴る小説やフィクションの世界は面白いものです。
また最近は等身大の曲が苦手で、夢・希望・向上心・野望・反骨精神のような現実的な作品に触れたくない自分が居ます。
真面目を経験した人が、真面目で疲れてしまった経験を経て、そこから力の抜けたエンタメの世界にシフトして、そっち側から疲れている人の手を引っ張ってあげるという側に、いつまでも成れない大人たちを見ていると、ちょっとちょっと、世の中には順番というものがありましてね、もうあなたが苦しんでいる場合ではなくて、まだ右も左も分からず苦しんでいる人たちに、そろそろ座席を譲りませんか。
そう思う時、ありますね。
誰かが選ぶモノのチョイスが良かった時。
それだけで、言葉の要らない承認や安心や共感や仲間意識を持つことがあります。
アジカンを聞く女子、いい!
バンプじゃダメみたいな。。
その泥臭さから、勝手に自分とのフィーリングやマッチングを妄想するという大人のゲーム・・・(笑)
というのは半分冗談で、誰かが何かを選ぶという行為を横目で見ていると、その人のセンスや価値観を人々は勝手ながらに想像するということがあります。
そうやって AZUMINO FITNESS に通うお客様が、お互いがお互いを 誇らしく思ったり、相手のセンスを評価し合ったり、共感し合ったりというグルーヴが生まれたら素敵ですよね。
「あの人も このお店を選んだんだ!」という共感がアジカンを聞く女子にほっこりしている私のように。
スタジオに通う20代のお姉さん。
アジカン聞いて今日も頑張ってください。
LIVE 行くときは誘ってね。