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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 240 (26/02/23) 旧首里真和志平等 (4) Yamagawa Area 首里山川町

2023.02.27 04:44

旧首里真和志平等 首里山川町 (やまがわ、ヤマガー)

旧立岸村 (タチヂシムラ)

旧大飩川村 (ウウトゥンガームラ)

旧山川村 上山川 (ウィーヤマガー)

旧山川村 下山川 (シチャヤマガー)

旧山川村 山川崎 (ヤマガージャチ)

旧与那覇堂原村 瓦屋 (カリヤー)


数日前に自転車で走っている途中に後輪のギア変換装置のリアディレーラーが根本から折れて走行不能となった。応急処置の方法もなく、自転車を押して自宅に戻る。良くチェックするとチェーンが破損している、それがギアに絡まり、劣化していたリアディレーラーが折れた様だ。自転車は日本一周もして、6-7万キロは走っている。この間、さまざまなトラブルがあり、フレーム以外は殆ど取り替えている。今回も部品の取り寄せで、しばらくは自転車なしで、徒歩にての集落巡りになる。今日は首里の山川町を徒歩にて巡る。



旧首里真和志平等 首里山川町 (やまがわ、ヤマガー)

首里山川町は首里台地の西北端に位置し、南は寒川町、東は大中町と桃原町に隣接している。北側は旧真和志間切の松島町に接している。

山川は水が豊富で水が湧出して、山川樋川や佐久ヌ樋川があり、その水を利用し、昔から紙漉所が置かれていた。首里城に近く、御殿や殿内の屋敷が他の町にくらべると多くある。高嶺御殿、護久御殿、玉川御殿があり、殿内では佐渡山殿内と池城殿内や花城殿が居をかまえていた。人材が多く出た山川には上山川と下山川があり、昔は上山川には広大な屋敷や豪壮な家構えの士族が多く、下山川は平民の町だった。下山川の北側の山川崎は入り江であったと伝えられ、かつての海岸線を思わせる地勢が残っている。山川崎の上部には王家の山川陵や王家分家の墓がある。観音堂の北側の与那覇堂村中心には瓦屋と呼ばれた集落があり、王家調達の瓦の製造を行なっていた。

1879年 (明治12年) に隣接する立岸村の一部と大鈍川村及び与那覇堂村を編入し現在の首里山川町が成立している。大正の初め頃、観音堂西方の坂下から観音堂裏の万歳嶺中腹を曲折して登り、旧中城御殿跡 (現首里高校) と金武御殿跡の境界を貫く新街道 (県道29号那覇北中城線) が開通し、1914年 (大正3年) には、新街道に沿って首里~那覇間の沖縄軌道の電車が開通している。1930年 (昭和5年) には戸数298と減少していたが、1934年 (昭和9年) に、県道29号那覇北中城線から分岐し、町を南北に縦断して桃原町に至り、 儀保大通りに合流する新道 (現県道28号線) が開通し、那覇から首里を経て中部地区への要路 となり、山川町は賑わいを取り戻した。


首里山川町の人口は1880年 (明治13年) には397戸、1916人だったが、昭和初期には300戸程に減少したが、その後、道路が整備されてもとに戻ったのだが、沖縄戦で他の地域と同様に人口は激減している。上の集落の分渦でもわかるように沖縄戦後は民家がまばらとなっている。その後の沖縄の復興期には人口は本土復帰の1972年頃までは順調に増えている。その後は小康状態が続いたが、2000年代に入り、徐々に人口減少が始まり、ここ7年程は人口減少が続いている。

人口は微減傾向ではあるが、首里区内では山川町はまだ人口の多い地域となっている。

今回訪問したスポットと1700年に造られた首里古地図を比べると以下の様になるが、県道29号那覇北中城線がかつての集落の中に新たに造られて、他の地域に比べて町並みは大きく変わっているように見える。



首里山川訪問ログ



旧立岸村 (タチヂシムラ)

首里山川町はかつて存在していた幾つかの村を合併吸収して現在の形になっている。まずは、琉球王国時代に現在の寒川町と山川町にまたがっていた旧立岸村から見ていく。先日訪れた寒川町の丘陵上に上った所が山川町に吸収された立岸村になる。



迫の坂 (サクヌフィラ)

県道40号線の交叉点のノボテルの構内には、琉球王国時代には、この上にある観音堂へ向かう坂道があったそうだ。王府時代の那覇への往還に使用されていた。この辺りはナチジナー毛また下ナチジナー毛と呼ばれる急峻な茅毛で、官松嶺とも呼ばれていたが、このナチジナー毛と対岸の寒水川の間は急峻な谷間で、そこからの登坂だったので迫ヌ坂 (サクヌフィラ) と呼ばれるようになった。人力車が客を乗せてこの坂を上り下りするときは、人力車の後押し、 後引きをする人夫やアルバイトの県立一中生がいたそうだ。 急な坂道で危険防止のため柵を立てたことから、 柵之坂と呼ばれたという説もある。1906年 (明治39) に那覇首里間の県道開通によっ坂は削り取られて、まったく面影は残っていない。ホテル玄関脇の左手の石厳当からホテル抜けて観音堂下の横断歩道の近くに出る急坂だった。


観音堂 (クヮンヌンドー)、慈眼院

かつての迫の坂を登ると観音堂の下に通じていた。ここからは観音坂になり、そこに観音堂がある。観音堂は寒川町、金城町に通ずる道路入口の高台にある臨済宗妙心寺派の寺院になる。現在は山川町に属しているが、以前は立岸村 (タチヂシムラ、現在の寒川町) だった。尚寧王の時代、1617年 (尚寧28年) に万歳嶺の中腹に観音堂、南に慈眼院が建てられている。

慈眼院は道を隔てて下る南側にあるマンションの位置にあったが、現在は観音堂に併設されている。これが琉球・沖縄の観音信仰の発祥とされている。

この建立については伝説が伝わっている。併設されている慈眼院は、に建立されていた。

尚豊王がまだ佐敷王子の頃、1616年 (尚寧27年) に薩州に人質にとられた。生父大金武王子尚久はこれを苦にして、神仏に「尚豊が無事に帰ることができたら万歳嶺に観音像を勧請して拝むと」と誓願し、翌年、尚豊が摂政を任じられ無事に帰郷し、万歳嶺の中腹に観音堂、南に慈眼院を建立している。

1645年より毎年正月・5月・9月に、琉球国国王が国の安全を祈願・参拝するようになり、庶民の間でも旅の無事を祈る旅行者が崇拝するようになり、 現在でも参詣者が多い。沖縄戦で首里観音堂の本堂は焼失し、今の本堂は1980年 (昭和55年) に丘陵を削り新たに建てられたもので、本尊の千手観音を安置している。

また、首里における十二ヵ寺巡りの一つでもあった。16世紀に琉球王国時代には首里城の周りには多くの寺院が点在していたが、明治時代には20ほどまでに減り、現在では6寺院にまで減っている。慈眼院観音堂は戦前は千手観音を守り神とする子の祈願寺だったが、戦争で焼失した円覚寺が再建できず、虚空蔵菩薩(丑・寅の守本尊)、勢至菩薩(午年の守本尊)、が移管安置され、更に1991年には辰、巳の守り本尊があった万松寺が祈願寺を返上して普賢菩薩(辰・巳年の守本尊) を、この慈眼院観音堂に移している。

境内には戦争を生き抜いた長老樹と呼ばれる樹齢120年のガジュマルの木があり、パワースポットと言われている。木の根元には瑠璃観音が祀られている。

首里観音堂の見晴台には三天堂がある。摩利支天、弁財天、大黒天が祀られている。ここからは那覇の街と海を見渡すことができる。萬歳嶺と呼ばれる高台になる。観音堂からは尚豊の乗る船が薩摩から沖縄に入港したのが確認できたそうで、その丘で万歳三唱をしたことからこの名がついたとされている。


万歳嶺と万歳嶺記碑 (上ミヤキジナハノ碑文)

万歳嶺は、 那覇市首里の観音堂辺りの丘陵で、首里八景の一つに数えられ、かつてはここからは、視界が開け、那覇の町、港、海、空を一望できていた。1980年 (昭和55年) に観音堂が再建された際に、1497 (尚真21) 年建立され、1945年 (昭和20年) の沖縄戦で破壊された万歳嶺記碑も残った一部を台座に組み込み復元されている。碑文には、万歳嶺の景勝を讃えるために、建てられた命名の由来が記されている。 時の国王尚真王がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声がわきおこったことから、万歳嶺記の碑を建立し、この丘を万歳嶺と称したとある。



旧大飩川村 (ウウトゥンガームラ)

次は同じく消滅してしまった大飩川村 (ウウトゥンガー) に移る。



大飩川小路 (ウウトゥンガースージ)

観音坂を上がっていくと左側に崖を下に下る小径があり、大飩川小路 (ウウトゥンガースージ) と呼ばれていた。かつてこの付近に大飩川村があった事から、このように呼ばれていた。


真和志之平等所跡、真和志之平等学校所跡

大飩川小路が観音堂坂と交わる崖側には真和志之平等所があったと伝わっている。首里古地図では、 観音堂坂に面して石垣で囲われて描かれている。真和志之平等所は、内金城、金城、寒水川、立岸、与那覇堂、大飩川、山川、真和志、町端の九つの村を統轄していた。またこの場所には真和志之平等学校所も設置されていたと考えられる。


ウテェーバンタ

真和志之平等所跡から大飩川小路を降りた場所はウテェーバンタと呼ばれた崖の上になる。このウテェーバンタは酒屋の荷馬車を引 く人達の休憩所になっていた。人夫達がここでよく歌を歌っていたことか ら、ウテェーバンタ (歌崖) と呼ばれたとか、この場所で歌を練習すると上手に歌えたからとかでこの名がついたと言われている。別の説ではウトーハンタ (ウトー: 崖)、(ハンタ:地の端) から変化したともある。


真壁殿内小路 (マカンドゥンチスージ)

もう一度、大飩川小路 (ウウトゥンガースージ) を上がり、観音坂に戻り、中山門跡まで進む。中山門跡から北に下る坂の小路がある。この道沿いに真壁大阿母志良礼 (マカンウフアムシラレ) の神殿になる真壁殿内 (マカンドゥンチ) があったことから真壁殿内小路 (マカンドゥンチスージ) と呼ばれ、山川入口に続いている。


真壁殿内 (マカンドゥンチ) 跡、山川村学校所 (ヤマガームラガッコウジュ) 跡

真壁殿内小路を降りて行き、山川入口近くに琉球王国時代の高級神女の一人の真壁大阿母志良礼の神殿及び住居跡がある。尚真王代 (1477-1526年) に神女組織が整備され、最高女神官の聞得大君加那志 (キコエノオオキミカナシ) の下に琉球王国全域を三区域に分けて管轄する真壁、首里、儀保の大阿母志良礼が置かれていた。各殿内の神殿は、廃琉置県後統合されして、天界寺の一角に移され三殿内と呼ばれましたが、 沖縄戦で失われ、 神女組織も消滅している。また、この真壁殿内の敷地内には1835年 (尚育1年) に山川村学校所が建てられていた。


大飩井戸 (ウウトゥンガー)

真壁殿内には井戸があり、現在でも残っている。ガジュマルの木の根元の古井戸を大飩井戸 (ウウトゥンガー) と呼んでいる。大飩川である。この辺りは大飩川村で、その名はこの井戸が由来という。


山川入口 (ヤマガーイリグチ)

真壁殿内小路を下り抜けた所は広い交差点になっている。山川入口 (ヤマガーイリグチ) と呼ばれ、文字通り山川村の入口だった。また、琉球王国時代には、ここが首里の入り口とも考えられていた。戦争前まではこの交差点にある首里高校の石垣の側には、クルマー駐車場 (人力車待合所) にもなっていて、人力車が客待ちをしていた。



旧山川村 上山川 (ウィーヤマガー)

山川入口の交差点を渡った東側は山川村の中で上山川 (ウィーヤマガー) と呼ばれた地域になる。ここには、琉球王国の王族や重臣である御殿、殿内の屋敷街として古くから発展していた。その屋敷跡を中心に見ていく。


金武御殿 (チンウドゥン) 跡

山川入り口の交差点を渡った所が琉球王国時代には金武御殿 (チンウドゥン) の屋敷があった場所になる。金武御殿は第二尚氏5代尚元王 (1528 - 1572年、在位1556 - 1572) の三男尚久大金武王子朝公 (1550 - 1620年) から始まる。9人の男子を設けたが、長男、二男、三男、六男は早世し、 四男尚豊が8代王位に就いている。先に訪れた観音堂はこの尚久が尚豊の無事帰国の際に建てた。第6代尚永王が死去した際には、 尚久は王位に推挙されたが、固辞して尚寧 (第7代) を立てている。


高嶺御殿 (タカンミウドゥン)

金武御殿の北側路地を挟んだ場所には高嶺御殿 (タカンミウドゥン) がある。高嶺御殿は8代尚豊王の長男 尚恭浦添王子朝良の長女 浦添按司加那志を元祖としている。五世の朝兼が1771年 (尚穆20年) に高嶺間切総地頭職に任じられ、高嶺を名乗っている。元祖の浦添按司加那志は、 勝連按司朝賢の室となり長男朝式が二世となるが、朝式には嫡子がなく、尚質王の六男本部王子朝平の子朝卓を三世として婿養子に入る。六世朝京の長女は尚穆王の世子尚哲の妃。 11世朝教は1882年 (明治15年)、 沖縄県の最初の県費留学生として岸本賀昌、謝花昇、太田朝敷らと共に、東京へ派遣され、その後実業家、政治家に、また12世朝光はジャーナリストとして、沖縄タイムス社長となっている。


玉城御殿 (タマグスィクウドゥン) 跡

高嶺御殿の隣は玉城御殿 (タマグスィクウドゥン) の屋敷跡になる。尚清王の六男尚范国東風平王子朝典が玉城御殿の元祖。九世の朝長が玉城間切総地頭となり、以後、玉城御殿名乗っている。12世玉城按司朝敕は、尚灝王の三女 第15代開得大君加那志を室とし、伊江御殿11世伊江王子朝直の四男から養子となった13世玉城按司朝知の代に琉球併合となっている。尚泰王の五男の尚秀も朝知の婿養子となり首里市議会議長などを務めた。


電車の目方 [前] (デンシヤヌメェー)

玉城御殿と現在の首里高校の間の道には明治期から大正初期までは人力車が走っていた。1914年(大正3年) にチンチン電車の沖縄電気軌道が導入された。那覇の久米大門を起点に、現在の首里高校正門前のこの場所を終点として約4.5km程のルートだった。当時は片道32分だったそうだ。沖縄電気軌道は乗合自動車 (バス) が一般的な乗り物となった1933年  (昭和八年) に廃業している。


幸地井戸 (コーチガー)

玉城御殿の東側の路地の奥まった所に幸地井戸 (コーチガー) がある。山川町の村井 (ムラガー、共同井戸) で、当時は幸地親方元昌の屋敷内にあったので、こう呼ばれていたという説がある。別の説では、この辺りはかつては真和志森と呼ばれた首里城丘阜から西の稜線と、大中から池城山までの稜線の間の谷間だったと推測され、河谷を指すコーチが由来としている。幸地井の背後にはこの後に訪れる瓦屋の大城屋根瓦左官によって瓦で装飾が施されている。この周辺の人たちの若水 (ワカミジ) や産井 (ウブガー)として使われていた。山川町では旧暦の九月九日菊酒の日に町内にある御嶽や拝所、井戸を参拝している。


護得久御殿 (グウィークウドゥン)

高嶺御殿と玉城御殿の北側には尚元王の長男の尚伯久米具志川王子朝通を元祖とする護得久御殿 (グウィークウドゥン) の屋敷跡がある。朝通は庶子のため、王位には就けず、分家として護得久御殿を始めた。12世朝紀には嫡子がなく、従弟で琉歌人と知られる従弟の朝置を迎え、この時期に琉球国併合となっている。 銀行家や政治家となる14世朝惟は尚泰王の長女鶴子を朝置を妻とし、琉球新報の創刊にも関わっていた。


池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) 

護得久御殿の北側の路地を挟むと五大姓 (五大名門) の一つの池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) の屋敷跡になる。池城殿内は毛氏新城親方安基を元祖としている。第三代尚真王が今帰仁巡察のときに見染めた女性を儀保大阿母志良礼 (ジーブウフアムシラレ) に就かせ、安基が誕生している。高級神女の子だったので公に出来なかったといわれ、安基は羽地間切総地頭職に任じられ池城親方と称した。安基が三司官の頃、第四代尚清王 (1497 - 1555年、在位 1527 - 1555年) の後継ぎ争いが起こる。和為美国頭親方景明、葛可昌城間親方秀信の両三司官が、世子弟尚鑑心大伊江王子を擁立し、新城親方安基は尚清王妃が生んだ尚元 (後の五代王 1528 - 1572年 在位1556 - 1572年 写真右) を擁立、勝利している。この嗣立騒動は王府内に止まらず、巷間に流布することとなり、後世流言浮説付随して、沖縄芝居の「大新城忠勇伝」演目とされ、新城親方安置を最大の功臣と描かれている。 

尚清王は、幼少の頃から病弱で口もきけない太子 (尚元の事だが、史実ではこの時には28才) と、側室から生まれた聡明な次男 (大伊江王子) のいずれに王位を継承すべきか案じていたが、大新城親方に太子の王位継承を頼みこの世を去った。一方、側室とその兄、津堅親方は、次男を王位に付けて天下を取ろうと企てる。それを知った大新城親方は、尚清王の遺言を守り通す一念で、決死の覚悟で太子の擁立に乗り出す。首里城内は太子擁護派と次男を推す一派の真っ二つに分かれ、王位継承をめぐる激しい戦いが始まった。
安基の長女が尚元王の夫人となり、その子の尚久の四男尚豊が王位に就いている。毛氏池城家は琉球併合時の安規まで18人の三司官を輩出した名家だった。

池城殿内には、真嘉比 (マカン) 道の逆立ち幽霊の怨念払しに助勢した報恩に、幽霊の女性が墓地を選定してくれたとの伝説がある。

美しい女を娶った男がいた。男は幸せに暮らしていたが重い病におかされてしまう。それから男は美しい妻を残して死ぬことに煩悶するようになる。あげくは「俺が死ぬと他の男と一緒になるだろう。お前を残しては死んでも死にきれない」と執拗に妻をなじった。その煩悶の悪循環で病はますます重くなる一方であった。みかねた妻は男の煩悶を断ち切ろうと自らの鼻をそぎ落とす。それに安堵したのかいつしか病も癒えた。恢復してみると今度は鼻をそいだ妻が疎ましくなる。とうとう愛人と結託して妻を殺してしまう。妻は夜な夜な幽霊となってふたりの暮らす家に現れるようになる。男は幽霊となって出てこれないようにマカンミチの墓に眠る、妻の足に釘を打ちつける。家には天界寺のフーフダを門と家の四隅にはりつける。足に釘を打ちつけられ、家にも入れない幽霊はマカンミチの墓のあたりに立つ。怖がって誰も寄り付かないなか、ある日池城親方が通りかかり、その訳を知り足の釘を抜き、フーフダもはがしてしまう。それで幽霊は復讐をとげることができた。

池城殿内跡の一部ははマンションとなり、子孫がこのマンション裏に住んでいる。


池城殿内ヌ井戸 (イチグスィクドゥンチヌカー、上山川井 ウィーヤマガーガー)

池城殿内跡の前の道路には、琉球王に年始め水を納めた井戸が残っており、池城殿内ヌ井戸 (イチグスィクドゥンチヌカー)、又は上山川井 (ウィーヤマガーガー) と呼ばれている。


幽霊屋敷 (ユウリーヤシチ)

池城殿内跡の南側の道を東に進むと首里バプテスト教会がある。この場所も尚貞王時代の三司官毛国瑞佐渡山親方安治の佐渡山殿内の屋敷があり、その西半分ほどが幽霊屋敷 (ユウリーヤシチ) と何故か不気味な名で呼ばれていた。 昔、石雨が降ったと伝わっている屋敷で、通用門の朽ちた扉の間から、大石がゴロゴロ積まれて、ころがっていた。何故幽霊屋敷と呼ばれていたかは不明だそうだ。


山川公民館、小林流開祖 拳聖 知花朝信 顕彰

幽霊屋敷の前は山川公民館になっている。敷地の片隅に小林流開祖 拳聖 知花朝信 顕彰碑が置かれている。

碑文によると、沖縄空手の首里手は、この山川出身の松村宗棍より儀保出身の糸洲安恒、知花朝信に受け継がれ、1933年に知花朝信(1885 ~ 1969) によって小林流が始まり、沖縄最大の流派へと発展した。知花朝信は15才で、糸洲安恒に弟子入りし、屋部憲 通 (後に沖縄県師範学校の空手教師) や船越義珍、花城長茂 (後に糸洲安恒の師範代) 等と共に学んでいる。知花は1918年頃より道場を開設し、戦後の一時期には山川公民館を道場としていた。沖縄には空手家由縁の地が多くある。松村宗棍、糸洲安恒、知花朝信の三人の墓が真嘉比にあった。


大溝 (ウフンジュ)

山川公民館から道を進むと緩やかな登坂になり、大中坂にぶつかる。龍潭から溢れ出た水がここを通り、歩いてきた道で先ほど訪れた池城殿内までは大溝 (ウフンジュ) と呼ばれるは、龍潭から溢れ出た水が、世持橋下から山川公民館前を流れ池城殿内の前から下山川へ流れる排水路が設けられていた。かつては大雨で水量が増すと、 排水路からあふれ出た水は道路上を流れていき、水と一緒に流れ出した鯉や鮒が路上ではねている光景がみられたという。


湯風呂屋 (ユーフルヤー、山川湯)

大中坂を龍潭通りに向かうと、その合流地点は階段になっている。階段の脇には銭湯にあたる湯風呂屋の山川湯が営業をしていた。新垣さんがオーナーだったのでの新垣ヌ湯風呂屋 (アラカチヌユーフルヤー) とも呼ばれていた。那覇ではこの様な銭湯は17世紀後半には外来船員などのために存在していたが、首里ではこれよりも遅く、琉球王府消滅後、随分と後世になってからと思われる。


首里プール跡

湯風呂屋から、もう一度大溝に戻り、大中坂を登り、石頂から道を下っていくと、道の脇にモニュメントが設けられている。首里プールの碑だった。この首里プールは戦後の荒廃した郷土復興の中で沖縄県内最初の淡水プールだった。その竣工は、沖縄県水泳連盟が中心となり、旧首里市の小学校や那覇市内の城南、城西、城北の三つの小学校、首里中学校、首里高校の児童生徒等もバケツ一杯の小石を持参し、ハワイなど国外からのも協力を得て完成している。以来、水泳の普及振興と競技力の向上で、 沖縄を代表する選手を輩出していた。



旧山川村 下山川 (シチャヤマガー)

上山川から下山川に移動する。下山川は上山川が丘陵の上の平坦部に広がっているのに対して、県道28号線 (桃原本通り) から真嘉比川に下る北西の首里台地斜面に位置している。首里台地が、この辺りで地形が急変し、一帯が崖状で西へ落ち込んでおり、山川下り (ヤマガーサガイ)、または、山川村の下側にあるので、下山川と呼ばれていた。池城殿内まで戻り、この地域を見ていく


山川樋川跡 (ヤマガーヒージャー)

池城殿内跡から丘陵斜面の急階段を降りていく。階段沿いには水路が設けられており、かつてはこの水路沿いに山川樋川 (ヤマガーフィージャー) があったという。この樋川は龍潭を水源とし、ニ本の樋から湧水が湧出していた。 この樋川は、大雨の際の土砂崩落防止及び宅地造成の擁壁工事により消失している。


山川紙漉所跡 (ヤマガーカビシチドゥクル)

樋川跡と道を挟んだ北西側の道下の宅地となっている場所には、首里王府時代の紙漉所が置かれていた。金城大樋川で始まった琉球における紙漉きは、紙の需要の増大にともない、欽兆鳳祖慶筑登之親雲上清寄、房弘徳比嘉筑登之親雲上乗昌、査王蚕仲宗根筑登之親雲上真秀、知念掟親雲上の四人が、1717年 (尚敬5年) に芭蕉紙を創り、翌1718年 (尚敬6年) から、水量豊富なこの地で汪家御用の芭蕉園を造園し芭蕉の栽培を行い、山川樋川の水を利用して芭蕉紙の製造を始めている。1724年 (尚敬12年) には房弘徳比嘉乗昌が色半紙や広紙を創造、1741年 (尚敬29年) には藁紙を創造したと伝わっている。 このことからこの辺りは「紙漉山川 (カビシチヤマガー)」と呼ばれていた。奉書紙や高檀紙、百田紙も製造していた。この紙漉所が1840年 (尚育6年) に儀保の宝口紙漉所に移った以後も芭蕉紙の製造が続けられていた。明治の中頃からは、県外からの移入紙におされて、山川の芭蕉紙づくりも姿を消してしまった。


佐久ヌ川樋泉 (サクヌガーヒージャー)

山川樋川跡の急階段を降り切ると、丘陵中腹を横断する小路がある。その路を南側に進んだ所に、もう一つ樋川がある。これも龍潭を水源とする佐久ヌ川樋泉で、石垣で囲まれ、崖下から湧き出る地下水 を加工した琉球石灰岩を10個ばかりつないで樋から流れ出るようにした村井 (ムラガー、共同井戸) だった。樋川の前には掘り下げた水場が設けられ、樋川口から外に扇方に作られている。狭処 (迫) にある湧泉なのでこう呼ばれていた。

佐久ヌ川樋泉の湧水は水路で丘陵北西の下を流れる真嘉比川に流れ込んでいる。この水路脇にはさくのかわ公園が造られている。樋川をイメージした水場が設けられていた。また岩場には洞窟も残っていた。その谷間の南斜面には王家御用の芭蕉園があったというので、この公園のあたりが芭蕉園だったのかもしれない。


獅子の目方 [前] (シーサーヌメェー)

道を戻り北側に進むと獅子の目方 (シーサーヌメェー) と呼ばれる一帯に出る。昔は、この道沿いに孤立岩があり、その上に石獅子が南の真和志森を向いて据られていた。石獅子は火返し (ヒケーシ) のためだが、どこに対して悪霊避けとして置かれていたのかは不明。この石獅子があった事でこの一帯はこの様に呼ばれていた。



旧山川村 山川崎 (ヤマガージャチ)

下山川 (シチャヤマガー) の北側、真嘉比川 (マカンガーラ) までの一帯は、250年-300年ほど前まで海中へ突き出した短少な岬状地形を為していた。この地形から、この辺り一帯は山川崎 (ヤマガージャチ) と呼ばれていた。

この山川崎に向って進むと石畳の降り階段がある。この道を下っていくと、次に訪問する墓群の場所になる。上山川で訪れた御殿、殿内の墓所がある。


山川陵 (ヤマガーヌタマウドゥン、山川崎御墓、西の玉陵)

山川陵への入り口になる路地を入ると幾つかの小さな墓が目に付いた。その中には慰霊の碑 (写真右下) と書かれたものもある。沖縄の慰霊碑リストにも載っていないので、戦没者を出した一族の慰霊碑ではないかと思う。

この場所には王族の墓が三つある。その最上段にあるのが中山世鑑に山川崎御墓とある王家の脇墓である山川陵になる。 西の玉陵、山川之玉陵(ヤマガーヌタマウドゥン) とも呼ばれている。山川陵は石垣に囲まれて、中に入るには石門をくぐる。ここには2年前にも来ており、その時に撮った写真も含めている。今回はその時より草が生い茂ってよい写真が撮れなかった。この山川陵がいつ造営されたのかは不詳。資料によって、異なった様々な言い伝えがあった。それによると、一説では、三代尚真王の愛妾思戸金の奸計によって、廃された長子 尚維衡は、死後浦添城北の極楽山 (ユードゥリ) に葬られたが、思戸金の産んだ四代尚清王は異母兄の尚維衡の生涯を憐憫に思い、此の墓陵を築き、極楽山から尚維衡の遺骨を移葬したともつたわっているが真疑は定かでない。ただ、王府時代は玉陵と同じ様に、門前に看守舎が設けられていたというので、高貴な王族の陵である事は確かな様だ。妃の一事葬 (洗骨前の遺体保管所) にも使用されたとも伝わっている。別の資料では1596年 (尚寧8年) に亡くなっ た五代尚元王 (1528 - 1572年 在位1556 - 1572年) の夫人前東之按司 (梅嶺) が葬られたとある。現存の石門は、14代尚穆王妃淑徳の三回忌にあたり1781年 (尚穆30年) に造営されたものだそうだ。戦前まで、ここには複数の王夫人や子女の厨子があったが、 沖縄戦のとき日 本軍が防空壕として利用するために、すべて玉陵へ移葬されている。現在この山川陵には、最後の琉球国王18代尚泰の七男で儀保ヌ新御殿 (ジーブヌミーウドゥン) と呼ばれた尚時とその家族が葬られている。


金武御殿(チンウドゥン) 墓 (本覚山) 本覚山碑

山川陵の西隣には、今日前半で訪れた上山川の金武御殿の墓が造られている。八代尚豊王 (1590 - 1640年 在位1621 - 1640年) の生母金武大按司志良札 (戒名一鏡妙円) の死去にともなって1624年 (尚豊4年) に拝領墓として造営された。墓の脇にはこの墓の号の本覚山碑が立っているが、文字は判読不能。碑文には、尚豊王は母が逝去するや本覚山に石工を集め、表の漢文の真字には二夜三日、裏の琉文の仮字には一七日 の内に墓を造営したもので、 折しも冊封のために来琉していた蕭崇基らが供物を供えて祭文を読み祭ったという。これを記念して三司官がこの碑文を建立した」とある。この本覚山碑は 琉文最後の金石文で貴重な碑文になる。この碑文も沖縄戦で墓陵とともに爆破崩壊の災難に遭い、戦後、断崖の崩土の中から完全な形で発見され再建された。


玉川御殿 (タマガーウドゥン) の墓と壷川松尾 (チブガーマーチュー) 墓碑

金武御殿墓の裏、北側には脇墓 (ワチバカ ) と通称されている玉川御殿の墓があり、西に向いて建てられている。 四代尚清王夫人で尚洪徳読谷山王子朝苗 (玉川御殿一世) の生母大按司志良礼真世仁金 (那覇の湧田楚辺一帯の豪農 王農大親の娘) の葬送のため、元々は湧田に建造されたが、大正の初めごろ上之屋に移され、戦後、首里山川町のこの地に移された。墓の脇には1679年 (尚貞11年) に建てられた壷川松尾墓碑が置かれ、尚清王夫人大按司志良礼真世仁金を葬った湧田の墓を修理し、四代孫の墓を壷川松尾に建築したことについて記されている。元の原碑は摩耗し解読不能だったが、拓本をもとに復元した新しい墓碑になる。 「読谷山王子の生母は湧田村の女なり、因って郷里に墓を造るのを願っていた。 読谷山王子とその子南槐は玉陵へ葬られ、その孫寒林道は此の墓に葬られた。真世仁金の四世の孫雲蜂、郷里の近くの松尾に墓を造り、真世仁金を湧田の墓に移葬するのが道理 であろうと、松尾墓へ葬った」と書かれており、資料の説明と少し異なり、わかりにくい。碑文から見ると、真世仁金は故郷の涌田ではなくここに葬られ、それを哀れに思い、故郷涌田に近い壺川松尾に移葬したと読んだ方が自然に思える。また、脇墓と呼ばれていたことから、後にこの墓は王の側妾を葬ったヲゥナジャラ (女按司)  墓との説もる。


池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) の墓

山川陵から坂道を真嘉比川 (マカンガーラ) へ降りていくとその途中の林の中に池城殿内の墓がある。この池城殿内の屋敷跡も今日前半の上山川で訪れている。池城殿内屋敷跡の訪問記で「逆立ち幽霊」の伝承があったが、この墓は池城殿内三世安頼が逆立ち幽霊の恨み返しの手助けをしたとき、その恩に報いるために、 逆立ち幽霊が選定してくれた場所で、その場所に墓所を建立している。墓を建造するため岩をえぐったら、 中に池があって緋鯉が泳いでいたという話も伝わっている。

道を下ると真嘉比川 (マカンガーラ) に架かる山川橋に出る。この真嘉比川 (マカンガーラ) が旧真和志間切の松島との境界線になっている。

先に訪れた山川樋川と佐久ヌ川樋泉からの湧く水がこの川に流れ込んでいる。


旧与那覇堂原村  (ユナファドウバル)

佐久の川樋川と山川樋川から真嘉比川までの水路の北側は旧真和志間切の松川村になり、首里山川に入り組んでいる。この辺りは首里山川の一部も含めて与那覇堂原 (ユナファドウバル) と呼ばれた地域だった。現在でも広い地域に森が残っている。この与那覇堂原を含め観音堂の北の崖辺りまでが旧与那覇堂原村だった。那覇堂原村は1880年に山川村に吸収されている。


瓦屋 (カリヤー)

旧与那覇堂原村 (ユナファドウバル) 内の東側には瓦屋 (カリヤー) と呼ばれた集落がある。1672年 (尚貞4年) に真和志間切から首里の真和志之平等に移された与那覇堂村の中心的集落で、1880年に山川村に吸収された。18世紀半ば頃に、鳥小堀瓦屋周辺の粘土が枯渇したので、首里王府関連の建物や寺院等の瓦を焼く職人や瓦を屋根に乗せて漆喰を塗る職人が大屋島袋を中心として一族をあげてこの地へ移され、瓦を焼く窯の置かれていたことから瓦屋からカラヤに訛り、更にカリヤーに変化したのが集落の名となっている。鳥小堀瓦屋などと識別するため、山川ガリヤーまたは観音堂ガリヤーと呼ばれていた。1497年 (尚真2年) に建てられた萬歳嶺記の碑文にも「瓦屋の茅葺きの舎広々として、下に接する民家は魚市 (イユッチ) のようである (魚市は賑々しさの形容詞)」と記されている。この集落は比較的急な斜面に広がり、集落内には細い路地が何本も走っている。


瓦屋森 (カリヤームイ)

瓦屋 (カリヤ) 集落の北西に在る孤立丘を瓦屋森 (カリヤームイ) と呼んでいる。丘全体が墓地になっており、清明祭 (清明の節の墓前祭) には多くの人が墓参りに訪れ、ムイ全体が賑わいを見せる。 何故か地番的には松川地籍になっており、真和志間切の真嘉比集落を訪問した際にここにも来ている。その際にここに住んでいるおじいと話したのだが、この森には御嶽があると言っていた。真嘉比村の御嶽として前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ) と紹介されていた。丘の上に登る道沿いに祠 (写真下) が置かれている。


鳥頭 (トゥイヌカンデー)

昔、琉球王国時代には瓦屋森 (カリヤームイ) から尾根が東に伸び、その先端部分は最も高い地になり、そこを鳥頭 (トゥイヌカンデー) と呼んでいた。戦後は住宅地開発で尾根も鳥頭も消滅してしまった。


瓦屋上ヌ井 (カリヤーウィーヌガ-)

瓦屋集落内に瓦屋上ヌ井 (カリヤーウィーヌガ-) と呼ばれた村井戸 (ムラガー) がある。旧山川村は水が豊富な地域だったのだが、この瓦屋集落では水道が引かれるまでは、この井戸で水を汲んで家で溜めて使っていたそうだ。この井戸水は新年の若水として仏壇や火の神に供えていた。また、産湯の利用した産井 (ウブガー) でもあった。瓦屋集落では旧暦の9月9日菊酒の日に御願している。先に訪れた幸地井戸 と同じくこの井戸も古い手作りの赤瓦で装飾がされている。


瓦屋拝所 (カリヤーウガンジュ)

瓦屋上ヌ井のすぐ近くに瓦屋拝所 (カリヤーウガンジュ) が造られている。18世紀伝半ば頃に、ここに移ってきた瓦職人達が集落を形成し、土帝君と火の神を祀ったと伝わっている。旧暦二月と8月15日には例祭を行い、特に二月の例祭は重要で豚の頭も供え集落全体で祭祀を行っていた。沖縄戦で窯と拝所は破壊され、戦後、拝所が村の守護神として再建されたが、2013年一時的に撤去され、2017年に再度、再建されている。



これで山川町にかつてあった四つの村を全部回り終えた。かなり多くのスポットを回ったので、この集落の訪問記もかなり時間をかけてしまった。このペースでいくと、沖縄の全集落を巡りにはまだ数年かかりそうだ。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)