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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 03 (24/04/23) 土庄町 旧土庄村 (1)

2023.04.25 13:48

旧土庄村


昨日と同じように渕崎地区を巡った後、土庄地区に足を伸ばした。ここでは昨日訪れた史跡を含めて記載する。

下の地図に旧土庄村の大字区分を含めたが、区分と大字名が一致しているのかは確信がなく、間違っているかもしてない。本当は旧土庄村にあった部落が知りたいのだが、土庄町史では部落名一覧はあったがその所在地は示されておらず、どのような集落だったかもわからない。また明治から昭和にかけての集落分布を調べようと、昔の地図を探したが、四国本土はあるのだが小豆島の昔の地図は見当たらなかった。


土庄町訪問ログ



土渕 (どぶち) 海峡

渕崎地区と土庄地区の間には細い海峡がある。つまり土庄は小豆島の本島とは別の独立した島となっている。土庄の島は前島と呼ばれている。この海峡は細い川のようなもので、架かっている橋も短く、ここが海峡とは意識していなかった人も多い。現在では海峡の一部は写真のように公園となり、遊歩道もあるので、海峡と言われなければわからない。上延長2500メートル、最大幅400メート ル、最小幅9.93メートル (永代橋下) で世界一狭い海峡として、1997年にギネスブックに掲載されたそうだ。


迷路のまち

土渕海峡を渡ると土庄地区の入り口に「迷路のまち」と書かれた看板がある。約700年前、戦乱や海賊から逃れるためにつくられた不規則な細い路地の「迷路のまち」として観光地化している。この迷路が造られた背景については資料により様々だった。700年程前に瀬戸内海にいた海賊から島民の生活を守る為に迷路のように作られた。南北朝時代の戦乱時に形成されたといわれている。その頃、細川と佐々木信胤の戦場でもあった小豆島は、海から攻め込む敵との攻防戦に備えて、わざと複雑に入り組んだ港町特有の路地を作った。海風から建物を守る為。などが書かれていた。全て正しいのだろう。ただ、このような路地は小豆島の集落には多く残っている。土庄町は小豆島の玄関口で多くの観光客が船でここに着く、うまく街並みを利用して観光地にしている。


永代橋の石灯籠

迷路のまちの入り口の所には永代橋の石灯籠が残っている。案内板によれば、「昭和30年頃まで永代橋から役場の東までの間は深い入江で、古くは土庄湊と呼ばれ、多くの渡海船や漁船のたまり場であった。 それらの船の海上安全を願って小豆島産の花崗岩で金比羅型の灯籠を永代橋の南東側に建てた。台石に「文化壬申之春」とあるので 文化9年 (1812年) のことである。それ以来、電灯がつくまで地元の当番の人々の奉仕によって点灯され、灯台の役目を果たしつつ船の安全を見守り続けてきたのである。」とある。

迷路から通りに出ると昔からの商店や観光客相手の店があり、散策には良い地域だ。


妖怪美術館

迷路のまちに残っていた元呉服屋の蔵や倉庫など古い建物を利用して5か所に分散して妖怪美術館が造られている。5ヶ所ある美術館はそれぞれテーマが異なっているそうだ。瀬戸内国際芸術祭の県内連携事業として始まり、妖怪800点以上を展示して2019年にリニューアルオープンしている。この地域にはそれほど観光資源がないのだが、土庄町は観光事業には力が入っているように思えた。観光資源のない地域は、このように新たな観光資源をつくればいいのだろう。

妖怪といえば島根の境港を訪れた際に、水木しげるの漫画のゲゲゲの鬼太郎で町おこしを行い成功していたのを思い出した。県ぐるみでの活動の結果何だろう、ゴールデンウィークが終わった翌日 (平日) にもかかわらず、多くの観光客が訪れ賑わっていた。ここ土庄の妖怪美術館とは異なり、町の商店街の店や道路港に水木しげるが描いた妖怪のフィギュアを分散して展示し、それぞれの店が妖怪グッズを作り販売していた。店を回りながら妖怪を探すといった工夫や、警察署、郵便局、電車などが妖怪仕立てになっており、ちょっとしたテーマパークのようだった。土庄の試みと比較すると、土庄は民家企業の妖怪美術館を訪れ、その副次として商店での買い物、飲食、宿泊を期待しているが、境港では地域がその町おこしプロジェクトに参加し、独自のアイデアを出し合っている点だった。町の活気という点では住民参加型の町おこしを行なっている境港で感じた方が遥かに大きい。

事前にどのような展示かを調べて面白そうと思ったのだが、入場料が2900円とかなり高かった。子供は妖怪が大好きで、ここに入りたくなると思うのだが、この値段設定では子供だけで入るには敷居が高いだろう。子供にせがまれて入る家族連れを狙っているのだろうか?この金額を見て、見る気が失せてしまった。作品の写真は事前に調べたサイトから借用。

この妖怪美術館をForbsが取り上げている。この事業を始め低迷していたが2018年にリニューアルして入場料をそれまでの1000円から3倍にし収入は11倍にまでなったという華々しい成功例として紹介している。ここで、自分はこの入場料では行かないし、一般の人も同じと思っていたので、少々驚きだった。そこでもう少し突っ込んで調べてみた。それ以降どうなったのかの記事は見当たらなかった。特に何人の入場者なのか、国内とインバウンドの割合が気になったが、それは見つからなかった。3倍に増加というがそれまで低迷していたので多いのか少ないのかは分からない。人数を公表していないのは意図的ではとも邪推してしまう。欧米からの入場者が多いかも知れない。海外からの観光客は、旅行自体に金をかけている事や、日本物価の割安感から、この入場料は許容範囲かも知れない。4月23日は日曜日なのだが、ゴールデンウィーク前だからか、妖怪美術館に入っていく人は見当たらなかった。少し気になるのは、世の中には色々な地域で地域活性化プロジェクトを立ち上げを行う会社があるのだが、初めこそ珍らしさで賑わったが、その後は続かず、会社も手を引いて放置状態となっているプロジェクトがある。宮崎県の油津や兵庫県の竹田城がその例だ。二つとも今でも地域活性化プロジェクトの成功例としての記事が掲載されているが、実態は大きくかけ離れ、地域住民の落胆は大きい。企業と行政のPRとしてあたかも成功が続いているかの様な記事が今だに残っている。この様な事で地域との関係も悪化し、それでまた別の地域に対象を移し、同じ事を繰り返している様だ。政府の地方創生補助金目当てでプロジェクト立ち上げて、利益を得て、後は感知せずといった状況で、この分野ではあまり評判が良くない。地域住民は素直に期待し協力するのだが、後に騙されたと感じている。辛辣な言い方をすると、地域活性化を利用して、プロジェクト企画や立ち上げを利益を得るが、その後の将来には関心はなく責任を持たずに食い散らかしたとの印象がある。土庄が同じようなケースでなければいいのだが .. .. ..  この会社だけでなく、いろいろな会社が同じ様な事を行っている。この裏には、行政と民間会社の癒着がある。総務省もその状況を知っているが是正はしない。今まで色々な地域で、観光による町おこしプロジェクトを見たが、どれもうまく行っていない。観光での町おこしは最も難易度が高く、そもそも、地域住民が本当にその様な事を望んでいるのかも疑問だ。総務省が行なっている町おこし協力隊も、総務省が「やってます」という為のもので、参加者も三年間の給料支給のみを目的にしている人が多く、ある地域では町おこし協力隊の受け入れをストップしている。行政側も本腰をいれているところは少なく、行政の一部の人間が甘い汁を吸う仕組みになっているケースもある。これは難しい問題だが、地域活性化の定義から見直す必要があるのではと思う。企業家達はビジネスを行えば、地域が潤うという考えだが、本来はそこに住む住民が幸せ感を感じる事が重要で、地域経済の活性化でなければならない訳では無いはず。この妖怪美術館が本当に地域活性化をもたらすのか見守りたい。



愛敬神社

妖怪美術館1号館のすぐ近く、土庄町本町西浜の迷路の道沿いに愛敬神社がある。地元ではオシメサンと呼ばれている。猿田彦神と宮比神を祀っている。この神社には言い伝えがあると資料には記載されていたが、最も知りたい肝心の言い伝えは書かれていない。(このような中途半端な資料が多く、時にイライラする) 地元の人に聞くしかない。


加藤清正採石奉行陣屋跡

妖怪美術館3号館の隣の広場に加藤清正を祀った祠がある。ここは加藤清正が大阪城の石垣構築の為に採石奉行を置いた陣屋跡になる。片隅の木の下には幾つかの燈籠と石に祠がある。清正を祀っていたのだろう。後日、小豆島にある採石場 (丁場) 跡を幾つも見学することになる。この広場 (陣屋跡地) の片隅に小豆島の石に絵を描いたモニュメント (写真右下) が置かれている。加藤清正が採石した石垣の大阪城が描かれている。これは2013年に開催された瀬戸内芸術祭で小豆島石の絵手紙として土庄町内の数カ所に置かれている。この後、幾つかの石の絵手紙を見つける。この絵手紙は気に入っている。


第58番霊場 西光寺、奥の院 (4月23日訪問)

迷路の町の端あたりに第58番札所の西光寺がある。遠くからも三重塔が見えていた。

迷路の道を通って向かうと三重塔が見えて来る。

四恩の門と名付けられた鮮やかに朱塗りされた三間三戸二重の鐘楼門の山門 (1984年建立) を入ると境内には樹齢二百五十年以上といわれる大銀杏は神木がある。

境内には、手水舎、板碑や祠が置かれている。

境内には庫裏があり、奥に本堂 (客殿) が建てられている。本尊は千手観世音菩薩でその真言はオン バザラ タラマ キリク。西光寺は弘安年間 (1278-1287) に増吽僧正の高弟である増密法印によって鹿島に創建され、1579年 (天正7年) に中興開山の法印龍弘上人が持念仏千手観世音菩薩を安置し本尊とし、王子山蓮華院と号したと伝わる。現在の西光寺境内の建物等の配置構成は元禄時代にできたとされる。

三重塔に向かう。階段を登って行くのだがその脇には幾つもの石祠型のお墓の蘭塔が置かれている。

階段を登った所、小山は土山と呼ばれ、古墳石棺の群在地で発掘調査が行われた。この土山にある三重塔が奥の院になる。境内には鐘楼と大師像があった。この三重塔は1977年(昭和52年)に建てられた比較的新しい塔で内部で下にある本堂の地下洞窟と繋がっているそうだ。本堂の地下通路は戒壇めぐりとなっており、大師が祀られている。


王子神社

西光寺奥の院がある土山の南下の土庄東内浜に王子神社があり、通称王子権現と呼ばれている。 天照大神、いざなぎ命、いざなみ命を祀っている。階段横の石鳥居は1760年 (宝暦10年) に三つの村の寄進によって造られたと刻まれているので、神社はこの時代以前からあった事がわかる。社殿奥の本殿は桧皮葺流造りでさや堂におさめられている。

神社前の広場には縁台が置かれ、それぞれに絵が描かれている。地元の子供達の作品のようだ。ここがこの村の住民が集まり場所だった。往時はここに芝居舞台と桟敷があったそうで村人の数少ない娯楽の芝居が催されていた。


荒神社

王子神社の隣にも石鳥居があり、小さな石の祠が二つ置かれている。ここは荒神社で、荒魂神、蛭子命、宇迦之御魂神、稲荷神を祀っている。以前は瓦葺の社殿があったようだ。


地蔵尊

土庄東港の船泊りに行くと防波堤の場所に地蔵尊が置かれている。綺麗に整備されているので、ここの漁師や住民に大切にされているのだろう。何か言い伝えがあるのかも知れない。


尾崎放哉記念館、西光寺奥之院の南郷庵

西光寺境内に尾崎放哉の句碑があった。

渕崎の本覚寺には放哉の師の荻原井泉水や井泉水主催の「層雲」の同人の井上一二の句碑がある。西光寺の南の墓地には尾崎放哉記念館もあるそうなので、そこまで行ってみた。

連日、尾崎放哉ゆかりの地を訪れた事で尾崎放哉に興味を持ち、調べてみた。尾崎放哉は明治18年に鳥取に生まれ、一高、東大に進み保険会社に勤務するが、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、大正12年に会社を退職に追い込まれ、放浪の生活の後、層雲の同人の井上一二と西光寺住職の世話で西光寺奥之院の南郷庵の庵主となるが、その8ヶ月後、大正15年に放哉は42歳でこの小豆島で早世している。

この尾崎放哉記念館は1994年 (平成6年) に南郷庵を再現して造られたもの。西光寺にあった尾崎放哉の句碑には「咳をしてもひとり」とある。同じ句碑には以前山口県防府の生家を訪れた山頭火の句の「その松の木のゆふ風ふきだした」も書かれている。この二人は井上一二と共に荻原井泉水主催の自由律俳句結社「層雲」の同人だった。自由律俳句は従来の五七五の定型律ではなく、自由に句を読む形式になる。

南郷庵は現在の土庄町共同墓地の隣、清兵衛山西光寺の北麓にある西光寺の奥院で本尊は弘法大師を祀っている。今は清兵衛山 (せびやな)を背に北向き庵だが、元は南向きだった。墓地参拝や巡礼の便利を考えて建て替えたそうだ。前庭には延命地蔵石像、―有無両縁の地蔵、小形の地蔵像、1839年 (天保10年) 建立の五輪塔、1841年 (天保12年) の石塔がある。南郷庵の縁起は不明だが詳1839年にはこの庵がすでにあったと思われる。


地主大明神、地蔵尊 (4月23日訪問)

尾崎放哉記念館 (西光寺奥之院の南郷庵) から道を南に進み海岸線を走る大通りを歩くと、道沿いに地主大明神と刻まれた石柱があった。この場所の土地の神を祀っている。小豆島では各地にある「じぬっさん」と呼ばれているものだ。すぐ側には地蔵がある。6体あるので、六地蔵尊かも知れない。

この大通りにも小豆島石の絵手紙が五つ置かれている。この石の絵手紙は気に入っているので一つ一つをじっくりと見ながら歩く。


あずき島、住吉神社 (5月1日 撮影)

双子浦に浮かぶは周囲45メートルほどの小さなあずき島 (小豆島) には住吉神社が置かれているそうだ。ここには行っていない (行けない) のだが、旧土庄村の一部なので、ここに含めることにした。5月1日に富丘八幡宮を訪れた際にその参道階段から撮った写真を載せておく。かつては旧暦6月晦日  (新暦7月31日) が例祭日で、早朝団平船に旗、笹、たんざく、しめ縄をかざり両舷に櫂八本立て、鉦や太鼓で威勢よく神様を迎えに行き、土庄の対岸の王子神社へ遷し、祭壇を設けて祭る海上渡御 (写真下) が行われていた。この日には御神灯を立てならべ飾り物をし、出店がならび、夏祭りが行われていた。この祭祀行事は長らく途絶えていたが、2013年に再開して以来、毎年続けられているそうだ。


愛国神社 (聖天宮)

道を麓に尾崎放哉記念館がある土山に沿って北に進む。聖天山と呼ばれる山の中に愛国神社がある。土庄町史では聖天宮と表記されている。道を登ると鳥居が見えてきた。

参道の途中に昭和12年に建立された坊太郎大権現という祠があったが、この祠の詳細は見つからなかった。「金毘羅大権現加護物語」には高松生駒藩士の田宮坊太郎という剣客が父の仇討ちをしたという話がある。この田宮坊太郎を大権現として祀っているのだろうか? この参道には桜の並木があり、桜の名所だそうだ。

山に上には四つの石の祠がが置かれている。中を覗くと、二つには不動明王と思われる像が安置祀られ、一つには牛の置物があるので菅原道真を祀った天満宮の様だ。

石の祠の下には于堂があるのだが、祭神は不明。


愛宕神社

愛国神社の山を北方面に下り土山村の北側に移動する。この土山の北は女郎田という地域になり、ここにも山があり、竹林の山道を登ると頂上に祭神を愛宕神 (迦具槌神) とする愛宕神社があり、秋葉神社が合祀されている。境内には手水舎があり、白天八大龍王と刻まれた石柱があり、神仏習合時代の影響を受けた八大龍王も祀られている。奥には籠り堂式の社殿で、切妻平家瓦葺となっている。愛宕神社は元々はここより西側の高見山頂に奉祀していたものを、不便だとして女郎田におろし、昭和五年に再度この地に移している。


天理教鐸姫分教会

愛宕神社から一度下に降り、道を登って行くと、愛宕神社の近く、ここにも天理教の分教会がある。小豆島全体では26もの分教会があり、土庄町にはその内18の分教会が置かれれいる。小豆島の人口は約2万6千人で人口比では一分教会あたり千人を対応していることになる。県庁所在地の高松市では9千人に一分教会なので、破格の多さのように感じ、いかに小豆島に多くの天理教分教会が置かれているかがわかる。集落が分散されていることもあるのだろうが、小豆島に力を入れている様だ。その背景はなんだろうか?


大山神社 (山神社)

天理教鐸姫分教会から更に道を登っていくと、大山神社 (土庄町史では山神社と記載) への参道の長い階段がある。階段の上には拝殿が一つ建っている。土庄町史には本殿、拝殿、横堂があるとなっているが、現在は建物はひとつだけになっている。祭神として大山津見命を祭神として祀っているので、女郎田部落の山の神様にあたるのだろう。後年に多賀大神命杞も祀られる様になっている。ここからは先程訪れた天理教鐸姫分教会とその先に集落が臨める。


地蔵尊

大山神社の坂道を上り切った所に地蔵尊が置かれている。その隣にはこの後に訪れる第64番霊場の松風庵への遍路道の道しるべも置かれていた。新遍路道はここにある橋を渡り、自動車通りに沿って造られている。旧遍路道は山道だったのだろうが、山は切り通しで自動車道路が通されている。

ここからは土庄の観光地になっている干潮時に陸地になるエンジェルロードで繋がる弁天島、仲余島、大余島が綺麗に見える。次回、小豆島を訪れる際には、干潮時間を調べて渡ってみたい。


天神神社

切り通しの自動車道路から集落に入る道を北に進むと、鳥居がある階段が見える。この上に天神神社と第64番霊場 松風庵がある。まずは天神神社からみていく。長い階段の参道を登り、ようやく拝殿が見えて来た。最後の鳥居への階段の下には水神が祀られれいる。ここに井戸があったのだろう。

この山はこの神社があることから天神山と呼ばれ、頂上に祭神として菅原道真を祀った天神神社がある。拝殿前には狛犬ではなく天満宮恒例の牛の像が置かれている。

天神神社の左右には荒魂神社と祇園社も合祀され、拝殿は三神同棟だが、それぞれが幣殿と本殿は独立して別に造られている。

拝殿の奥には更に上に登る道がある。入り口には日露戦争の記念碑が置かれていた。この日清・日露戦争の記念碑は多くの寺社で見かける。戦死者の慰霊碑としてよりは戦勝記念碑としての性格が強い碑が多く、この碑も同様だ。鎖国から数十年で世界に対抗できる国になった出来事として当時の世論と国策が現れている。上には特に祠などの拝所は無く、貯水タンクが置かれて、小さな広場になっている。ここからは土庄から池田、内海の方まで見通せる。


第64番霊場 松風庵

天神神社に隣接して第64番札所の松風庵がある。松風庵へは天神神社境内から行けるのだが、お遍路さんが通常通る参道の下まで降りて、庵に向けて登ることにした。参道途中には地蔵尊が置かれ、更に登ると中間地点に鐘楼が置かれれいる。お遍路さんはここで鐘をつき、更に参道の階段を登っていくのだ。ここには戦後、地域住民により桜が植えられ、今では桜の名所になっているそうだ。桜の花の季節は過ぎてしまい桜が見れないのは残念。

庵への参道にはもう一体の地蔵尊と燈籠がある。境内に着くと、神社から直接通じる道 (写真下左、中) もある。

本堂には本尊として地蔵大菩薩を祀っている。廃仏毀釈までは天神神社で本地仏として祀られていた。この札所の詠歌は「世のちりに人の心をけがさじと吹き払うらん庭の松風」とある。なるほど、それで松風名付けられているのか。本堂の隣には民間と間違いそうな大師堂が建てられている。


祠 (名称不明)

庵から道に降り、土庄港方面に進むと神社の石柱が見える。そこにも神社がある。名称や祭神は調べるも不明。小豆島の小さな神社には写真の様に横木がある鳥居ではなく、名称はわからないが、石柱が二本建てられてただけのものが多い。この二本を連中縄で結んだものもある。鳥居が現れる以前の形といわれている。


小豆島霊場総本院

道を更に進むと小豆島霊場総本院がある。通称、小豆島霊場会と呼んでいる。明治初期に小豆島霊場興隆のため、霊場寺院によって組織された事から始まり、当時は郡役所に事務所がもうけられたが、大正2年に正式に小豆郡霊場会が設立されている。後にこの場所に総本院を建立し弘法大師を祠り、現在の建物は昭和42年に小豆島霊場御開創千百五十年を記念して建立された。総本院二階には授戒道場があり、巡拝者 (お遍路さん) はここで授戒をうけてから巡拝に出るのがならわしとされている。小豆島八十八か所お遍路の始まりについては諸説ある。四国遍路と同時期にはじまったというもの、四国巡礼の霊場を摸し同様の霊験が得られる「島四国」として弘法大師小豆島来錫後八百七十余年の1686年 (貞享3年) に島の真言僧49人が相集まって創設したとの説があり、後者が一般的に紹介されている。ここでいう弘法大師の小豆島来錫については、小豆島に弘法大師が渡来したとする史料は無いのだが、小豆島住民や真言宗信徒衆は来錫を信じている。小豆島は古来から四国と京都、中国地方へのルートとなっていたので弘法大師が立ち寄った可能性は高いと思う。

小豆島にお遍路で来島する巡礼者数は年々減って来ているが、四国遍路よりも手軽という事で、リピーター率が多いそうだ。また、巡礼者は兵庫県と鳥取県からが全体の8割を占めている。札所を回ると、特にこの二県から寄進された灯籠や寄進金を刻んだ石柱が多いことに気がつく。この巡礼を支えているのが先達と呼ばれる人たちで、伊勢の御師 (おんし) と似ている。今でいうガイドや旅行代理店、ツアーコンダクターに相当する役割を果たしていた。小豆島でも総本院の審査で認定されて、資格や連れてくる巡礼者数によって謝礼が払われる仕組みになっている。

今日は何人かの住職の打ち合わせがあったようで、それが終わり駐車場に止めている車で帰ろうとしていた時にここを訪問。外車が二台、その一台はアルファロメオの2シーターのスポーツカーだった。(写真右下、多分セカンドカーだろう) お寺の住職は儲かっているのだろう。小豆島の札所の50ヶ所は無人の庵で、そこは地域住民が無償で維持管理、巡礼者のお接待を行なっている。お寺は地域の檀家、巡礼者等の寄進、お布施で支えられていると思え、このスポーツカーをみて、何か違和感を感じた。




これで今日の街巡りは終了。旧土庄村巡りの予定の三分の二程が終わった。オリーブタウンに戻りバスにて福田に戻り一日が終了。



参考文献

  • 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
  • 小豆島お遍路道案内図