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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 250 (27/09/23) 那覇垣花三町 (7) Kakihana 3 Villages 山下町、垣花町、住吉町

2023.09.28 11:08

那覇 垣花町三町

山下町

垣花町 (カチヌハナ、かきのはな)

住吉町



前回 (8月14日) は首里石嶺を訪れたのだ、途中で熱中症の症状と捻挫をしてしまい、途中で切り上げざるを得なかった。その後、足の痛みはまだ残っているので、足に負荷がかからないように徒歩ではなく自転車で首里石嶺を訪れることにしたが、長い坂道を登る途中で熱中症野症状がでて、目的地に辿り着く前にリタイヤとなった。その後ももう1度、首里石嶺を目指したのだが、同じく坂道で気分な悪くなり途中休憩をした際には、立ちくらみで気を失い道に倒れてしまった。気がついた時には自転車の下敷きになっていた。これでこの時もリタイヤとなってしまった。今日はきつい坂道を避けて平坦な道で行ける集落を巡ることにした。旧那覇地区で未訪問の垣花三町を訪問する。



垣花三町

垣花は、那覇港の南岸に位置し、通堂町と相対し、南はガジャンビラ (筆架山) の山々で小禄村と接している。現在の軍桟橋地域にあたる。 住吉、垣花、山下の三町を総称して「垣花」と呼んでいた。下の絵はイギリスの探検家のウィリアム・ロバート・ブロートン (William Robert Broughton) が1796年 (寛政8年) に那覇港に立ち寄った際に、垣花と住吉を描いたもの。


察武寧王の頃、大城按司真武島添大里按司に滅ぼされ、その長子大城真宗は、母親の生家である玉城間切垣花村に隠れたが、追手が迫ったので親子は、真和志間切儀間村の下田原の藪に隠れ住んでいた。その儀間村の人々が寄り集って垣花村を創ったと言われている。玉城村の宇垣花に対しては東垣花と呼ばれていた。 住吉町二丁目にある「火の神」は、最初の住居だった殿(トゥン)への遙拝所、同じく二丁目の「ウフ又吉家」の 屋敷は、その後の住居で、麻氏三世儀間真福が地頭として王府から拝領した木造瓦葺きの住宅であった。 1554年屋良座森城の落成式には、尚清王も立寄ったという。産業界の恩人儀間真常の生家で、糖業発祥の地、野国総管と共に甘藷を拡めた土地、また本県の木綿布の琉球絣アガリカチスハナの発祥地でもある。昔は真和志間切儀間村 (住吉町)、湖城村 (垣花、山下町)であったが、 後に小禄間切となり、明治36年に那覇に編入、大正3年に町制がしかれ三町になった。
王朝時代の唐船、船の出入港のときの作業員は、小禄、豊見城の百姓も屋良座森城と三重城に集合した。儀間の地頭と平等役は小舟二艘で両側から送迎したという。各屋敷は石垣囲いで福木を植えてい た。 垣花は農漁村と都邑の中間的存在であった。生業は、男は漁師、通堂仲仕、荷馬車業、 築港作業人、サバニ造船 (くり舟) などで気性は荒かった。 婦女子は、機織り、パナマ帽子編み、農業などであった。

沖縄戦後、山下町を除いた垣花三町全域は米軍に接収され、住民は他の地域への移動が強制されている。

上の明治時代の地図を見ると垣花町、住吉町南部を中心に民家が密集し、人口も3,100人程だった。山下町にはそれ程民家は見当たらない。戦前の1939年には11,500人に増加している。戦後の1948年の地図では、山下町に民家が増えている。住吉町、垣花町の住民が移住してきた事や、那覇軍港建設の仕事を求めてきた移住者で1947年から1950年までの3年間、港湾作業のための特殊行政区のみなと村が置かれていた。住吉町と垣花町はほぼ全域はまだ返還されておらず。住吉町に数十名が居住しているだけだ。戦後、垣花町住民の多くはは那覇の若狭に移住して、重民町をつくっている。また住吉町の多くに住民は那覇の安謝の海岸に米軍が整備した地区に移住している。


垣花三町 訪問ログ



山下町

山下町は湖城村の一部であったが、1914年 (大正3年) に湖城村から分離し誕生した町で、昭和初期までの南明治橋から、ガシャンビラまでの糸満街道沿いの南側の山手の区域にあたる。1917年 (大正7年) に軌道馬車、客馬車 (幌馬車) が開通し、糸満方面への発着地で、街道筋は格別の賑わいを見せていた。戦後、南明治橋側は、米軍が埋め立てて陸続きとなり、那覇港や小禄は米軍に摂取され、軍用施設として使われた際、隣接する山下町の地名が日本軍司令官であり「マレーの虎」と連合軍から恐れられた山下奉文を連想させるとし、米軍はそのイメージを打ち消すべくこの地を「山下」とは表記させなかった。そこで、沖縄民政府との協議を経て、琉球と縁のあるアメリカ人・ペリーから名前をとって「ペリー区」に変更したという。町全体がペリー区となり、その名称で人々にも親しまれていくようになったため、区内のお店や施設の頭にも「ペリー」が付くようになった。その後1957年に元の山下町に戻された。

ペリー区は、軍港前を中心に米兵相手のバーが次第に増え行く。米軍の「人種別指定制度」により、小禄新開地新辻町 (宇栄原) は白人相手の店が中心の特飲街、黒人相手の特飲街がこのペリー区だった。いざこざが絶えず、1952年には、MP射殺事件が発生し、米兵立ち入り禁止の「オフリミッツ」が発令され、これを境にペリーのバーは立ち消え、住宅街になっていった。


山下町第一洞穴遺跡公園

奥武山公園の南西側、山下町1丁目の住宅地域の丘で1962年 (昭和37年) に旧石器時代の洞穴遺跡が発見されている。

今から約3万2千年前の日本最古とされる山下洞人の女児の脛骨1点、大腿骨1点、腓骨1点や旧石器が出土している。2015 (平成27年) には山下第一洞穴遺跡公園として整備され開園している。


ペリー区、ペリー劇場跡

山下町はペリー区と呼ばれていた。ペリー区と呼ばれるようになった経緯は前述したが、今でもペリーと名のつく建物がある。以前はもっと多くあったのだが、今は数物件だけになってしまった。写真上はペリー保育所で以前はペリー劇場だった。戦後、那覇軍港建設の為、沖縄全土から集まってきた作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年 (昭和22年) に、当時の沖縄民政府により、奥武山を中心に山下町、楚辺、松尾、坪川など「みなと村」が設置された。この作業者家族の娯楽の為に、小禄には五つもの映画館はあったという。このペリー劇場もその一つで、相撲場として開業して、芝居小屋になり、映画上映と運営をしていたそうだ。1970年頃まで営業していたようだが、閉館し、保育園を開園して現在に至っている。写真下はペリー歯科クリニックと老人ホームのペリー館。


この地域は戦後、米軍に接収され、米軍基地や関連施設となり、多くの史跡は姿を消している。昔の地図や屏風絵、古写真などを見ながら跡地を巡って行く。


落平 (ウティンダ) 

那覇港湾内の奥武山に向かい合う小禄の垣花 (かきのはな) には樋川 (ヒージャー) 跡が残っている。落平 (ウティンダ、それ以前には根立樋川 ネタテヒージャー) と呼ばれ、崖の中腹から流れ出て、小滝のように崖下の漫湖の水面に注いでいた。現在は埋め立てられて道路になっているが、この通りがかつての海岸線になる。

琉球王国時代の落平 (ウティンダ) を描いた「琉球交易港図屏風屏」が残っている。左上の海岸線にあるのが落平 (ウティンダ) になる。

琉球王国時代には那覇港に出入りする船は、朝から夕方までこの落平に参まり、取水をしていた。特に1807年には中国からの冊封使一行の来琉の際の取水の為に泉崎村の長廻筑登之親雲上 (ナガサクチクドゥンペーチン) 等36人の寄付によって、落平の樋を修理し、さらに60間 (約108m) 程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水に供したという。浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかった。上の「琉球交易港図屏風」の落平 (ウティンダ) の拡大図が左側、別の「首里那覇港図屏風」に描かれているものが右側。二つはほぼ同じ様に描かれているので、この様に樋が海に突き出て、船に大桶を積んで、それに水を満たしていた事が分かる。

1879年 (明治12) の沖縄県設置後、人口が増加し、水問題が一層深刻となっていた。そのため、大きな水桶に注いだ落平の水を伝馬船で那覇に運び、それを女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。1933年 (昭和8年) に水道が敷かれ、その後、水商売も姿を消していった。当時の写真には水桶を積んで船が多く停泊して、給水の順番待ちをしている様子が写真で残っている。

終戦後、米軍の軍港整備にともない、1957年 (昭和32年) 頃、落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ、陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの、一帯は宅地化が進んだため、落平の水量も減少した。現在では、岩肌からしみ出る程度となってしまった。

1807年には隣に新たに樋川が造られ拝所となっていた。1976年に現在の県住宅供給公社ビル敷地内にレプリカが造られている。


タチチガー、山下西公園

落平 (ウティンダ) から東の住宅街に入ると、山下西公園 (山下児童公園)があり、その公園内にタチチガーという井戸がある。数名のおばあが拝みに来ていた。この辺りの村井 (ムラガー) で旧正月の若水 (ワカミジ) や生活用水として使用されていたそうだと教えてくれた。資料によれば、元々は太刀砥ぎ井 (タチトゥジガー) と呼ばれていたのがいつの間にかタチチガーと呼ばれる様になったそうだ。

今日も30度を超える気温で暑い。熱中症対策でガジュマルの木陰のベンチで水分補給しながら休憩。先ほどのおばあとおじい達としばし世間話をする。沖縄のおじい、おばあは気さくで昔話を聞いていると楽しい。


住吉神社

山下西公園の奥に丘があり、その中腹に住吉神社がある。山下西公園から住吉神社に通じる階段の参道があり、それを登って行く。

階段を登り切ると鳥居があり、両脇には狛犬ではなくシーサーが守っている。鳥居の脇には手水舎、鳥居の手前には三つの井泉の拝所が置かれている。井泉は左側から、かつての三つの村の村井の儀間之井 (ジーマヌカー)、湖城之井 (コグスクヌカー)、親井を合祀している。

鳥居を潜った所が境内になり、左手には那覇軍港として接収されるまで、その敷地内に存在した湖城 (コグスク) 村、儀間 (ジーマ) 村、住吉村にあった拝所を1984年 (昭和59年) に合祀している。向かって右側から龍宮神、イベ神 (かつては屋良座城近くの岩礁にあった)、屋良座森神、国元森の神、火の神、地頭火神、国代の神、村代の神、土帝君 (垣花村の農業神)、湖城の殿、儀間の殿の順に並んでいる。

境内の奥に住吉神社が置かれている。元々ここにあったのではなく、米軍那覇軍港として接収された儀間村にあり、石を神体として祀っていた。現在は那覇軍港の敷地となっており、かつての屋良座森城の東南にあったが、沖縄戦で破壊され、さらに那覇軍港拡張工事のため土地が削られ儀間村がなくなったため、ここの山下西公園の上方に移設されている。かつての神社は影も形もないのだが、上で紹介した琉球王国時代の「琉球交易港図屏風 (上)」、「首里那覇港図屏風 (左下)」に描かれている。また以前の住吉神社の写真 (右下) も見つかった。

住吉神社社殿の左側に由来を記した住吉神社並垣花各拝所復興記念碑が置かれている。

住吉神社は往昔儀間村の地頭で、甘藷の伝播栽培法を木綿織および砂糖創製などで産業界の大恩人といわれている麻氏六世儀間真常公が、1611年(慶長16年)に尚寧王の随員として薩摩から帰国のときに、海上守護の神として請来し当初儀間村の自宅内に奉安尊崇した。祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の御三神である。神社は村人達の尊崇もあって間もなく那覇港南岸の住吉森に社殿を造営し、爾来三百数十年にわたり垣花三町民および県民が尊崇して来たが、1945年(昭和20年)初夏の沖縄戦において社殿は滅失し、米軍の港湾工事で境内は住吉森とともに海没した。戦後は垣花三町有志が山下町の東南の地に仮社殿を造営し尊崇して来たが、近年に至り腐朽甚だしくなり再建の運びにいたった。今ここに山下町西の殿の山中腹に良地を選び、工事費2000万円也で昭和56年8月22日起工、昭和57年3月15日竣工、同時に垣花町内の各拝所の合同社殿も併せて造営した。住吉、垣花、山下の三町民ならびに県民の心の拠り所として尊崇し社殿復興落成を記念してその経緯を碑に刻銘し永く後世に伝承するものである 昭和57年壬戌3月15日

サツマイモの栽培方法や砂糖の製造方法を広め、食糧不足に苦しむ琉球の人々を救った儀間真常 (ぎましんじょう 沖縄産業の父と呼ばれ、琉球五偉人の一人としても数えられている) が1611年に薩摩からこの儀間村に帰郷した際に、薩摩から海上守護の神として勧請した表筒男命 (うわつつおのみこと)、中筒男命 (なかつつおのみこと)、底筒男命 (そこつつおのみこと) を儀間真常の自宅内に祀ったのが始まりで、その後、村の神社となり、儀間村の端の海沿いの屋良座森 (やらざむい) に社殿が作られ、住吉森 (すみよしむい) と呼ばれた。1659年に老朽した為に真常の孫が再興し、1696年には拝殿も建てられたが沖縄戦で破壊消滅している。その後、住吉村は軍港を造る為に接収されてしまい、1953年 (昭和28年) に現在の場所に祠が設置され、昭和57年 (昭和32年)に再建されている。儀間真常に関連する場所を訪れている。首里崎山に墓所、奥武山の世持神社に蔡温、野国総管と共に祀られていた。

手水舎の奥にも階段が上に続いている。階段の先に山道が分岐し左側の道の先に大城の殿、その右上にも拝所がある。この大城の殿は儀間真常の祖先にあたる大城按司島添大里按司に戦で敗れてその子孫がここまで逃れてガマに隠れたと伝わる。大城按司所縁の地という事で、この地に住吉神社を移設したのだろうか?

山道の分岐点まで戻り、右の道の先にも拝所がある。御世 (ウユウ) 神とある。よく見る神名だが、先祖を祀っている様だがよく分からない。拝所の奥にもガマがあった。沖縄戦では那覇港の防衛の為に独立高射砲第27大隊第1中隊が駐留し高射砲が置かれていた。このガマはその垣花陣地壕として利用されていた。入り口は狭いのだが、内部は掘り進められてかなり大きな壕だそうだ。


がじゃんびら公園

大城の殿に戻り、そこから上への急斜面の道を備え付けられたロープを伝わって登るとがじゃんびら公園に出る。

がじゃんびら公園は琉球王国時代に冊封使から儀間山、筆架山と呼ばれていた丘陵の崖上の尾根沿いに南北約400mに伸びた細長い公園になっている。

丘陵の上にあるので、海風が吹いており、30度を超える今日でも、それ程暑さは感じない。公園には長い遊歩道が設けられており、散歩には最適だ。ただ公園へのアクセスは住吉神社から崖上をよじ登る以外は、公園の南西部の小禄の金城側からしかなく、少し不便かも知れない。公園にはヒガンバナが咲き始めていた。沖縄にも秋が近づいているのか?

丘陵からは那覇市内が一望できる。那覇港の向こうにビルが立ち並ぶ那覇中心部が見える。夜景は絶景だそうだ。

西側には小禄地域の住宅街が見える。向こうには赤嶺公園の赤と白の給水タンクが見える。

北側には自衛隊那覇基地、那覇空港方面だ。戦闘機が発着していた。


高射砲台座跡 (独立高射砲第27大隊第1中隊)

遊歩道を北に進むとがじゃんびら公園の北の端に円形の眺望広場がある。ここには沖縄戦当時、日本陸軍独立高射砲第27大隊の高射砲が置かれていた。円形に放射状に道が造られており、その中心が砲座跡になる。この場所は独立高射砲第27大隊第1中隊が配備されていた。戦時には第27大隊は南風原町や糸満市与座、八重瀬町具志頭、最終的には糸満市大度に駐留していた。沖縄戦では部隊の多くが戦死し、当初72門あった88式7糎半野戦高射砲は、大度に来る頃には1門しか残っていなかった。


美空ひばり 花風の港歌碑

がじゃんびら公園の高射砲台座跡の眺望広場の一画に、美空ひばり「花風の港」の歌碑が建てられている。戦後の沖縄復興の中で、美空ひばりの音楽に励まされた沖縄の人々が、感謝の気持ちを表して、対岸にある三重城にまつわる名曲としてこの「花風の港」が選ばれて、太平洋戦争の真珠湾攻撃の月日と同じ平成9年12月8日に碑が建てられている。

花風の港
赤いさんごの波散る島を
何であなたはすててゆく
出船ほろほろ花風の港
紅の手さじを前歯で噛んで
しのび泣くのも 恋のため
白く尾を引く ひめゆり丸の
船が残した みおの糸
切れずおくれよ 花風の港
切れてしまえば 別れていつか
会える夢さえない二人
誰も恨まず 悲しい胸を
抱いて見送る 青い海

背のびつまだち 花風の港

恋に死ぬのが 女であれば

石になっても 待ちましょう

ここからは那覇港が一望できる。

高射砲台座跡がある眺望広場の西側にもガマがあった。施錠されたフェンスで囲まれて中には入れない。このガマも沖縄戦当時には陣地壕として使われていたのだろう。

遊歩道を東に進むと金城の住宅街から遊歩道の下を潜って公園に入るトンネルがある。トンネルの向こうは遥拝所だそうで、那覇港にあった御物城 (オモノグスク) をここから拝んでいたそうだ。

がじゃんびら公園は山下町と小禄の金城の境界線になっており、遊歩道の南側は金城の住宅街になっている。公園に面した地域は大きな立派な邸宅が並んでいる。



垣花町 (カチヌハナ、かきのはな)

がじゃんびら公園の丘陵から東に降りた所、那覇港の南岸が垣花町になる。琉球王国時代には垣之花 (カチヌハナ)、垣花地 (カチヌハナチ) と呼ばれていた。もともとは島尻郡小禄村の儀間 (ジーマ)、湖城 (コグスク) 等の汎称とも考えられている。垣花は対岸の渡地と君南風の遙拝所との間に昔から明治中期頃まで渡し船が運用され、那覇と島尻をむすぶ地だった。明治期になると那覇区に編入、大正期に垣花町となった。生業は通堂仲仕、荷馬車業、織物業、染物業、農業などで、産業では、秋山織物工場、浜田造船所、谷鉄工所、沖縄製氷、具志堅味醬油、 川上醬油、当間酒造などが営業していた。公共施設としては、県立水産試験場、垣花郵便局、 垣花市場、高良医院、袋中寺などがあった。1944年の10.10空襲により被害を受け、戦後は米軍に接収され、現在はコンフォートシティービュー以外の垣花町は那覇軍港の一部となっており、かつての拝所は移設された住吉神社に移され、史跡などは消滅している。

戦後、垣花住民は元の村は接収されており帰還が叶わなかった。垣花住民は那覇若狭にある夫婦瀬公園の奥の地域、1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際に埋め立てられた場所に移り、重民町 (現在の若狭3丁目、前島3丁目) を設立して居住していた。



蚊坂 (ガジャンヌヒラ、ガジャンビラ)

がじゃんびら公園の名の由来である蚊坂 (ガジャンビラ) が昔は垣花から安次嶺 (現在は自衛隊那覇基地) に通っていた。今はゆるやかな登りだが、かつては急な坂道だった。蚊坂 (ガジャンビラ) の名称の由来は定かではないが、坂の付近に我謝 (ガジャ) 屋号の家があり、我謝の坂 (ガジャヌヒラ) と呼ばれていたのが転訛したものではないかともいう。那覇の民話では「昔、中国から持ち帰ってきた蚊が、この坂の上で逃げてしまい、ここから琉球国中に広まった」と伝えている。1905年 (明治38年) から垣花と糸満村を結ぶ県道工事により、ガジャンビラの坂道は整備され、1918年 (大正7年) には馬車軌道も敷設された。坂の両側や付近の丘陵には松が生い茂り、また、坂の頂上からの眺望はすばらしく、眼下に見下ろす那覇・垣花の街並みは、絵画や絵ハガキの題材にもなった。1945年 (昭和20年) の沖縄戦の後、坂一帯は米軍基地となり、1972年 (昭和47年) の日本復帰後、ガジャンビラを含む旧県道は、那覇糸満間の幹線道路国道331号として整備された。1984年 (昭和59年) には国道331号山下高架道開通により、ガジャンビラの一部は旧道となった。


御物城跡 (オモノグスク)

垣花町は那覇軍港になっているのだが、琉球王国時代には那覇港内の小岩礁に御物城跡 (オモノグスク) が置かれていた。御物城は中国などの諸外国との交易品を保管する倉庫として、15世紀中頃、 尚金福王の時代に、国場川の中洲に築かれた巨大な城壁のグスクだった。那覇港に入港した海外からの船に対して琉球王国の威厳を見せつける効果も狙っていたと考えられている。御物城御鎖之側 (おものぐすく、おさすのそば)と呼ばれる役人が常駐しており、のちに尚円王となった金丸も尚泰久王の時代にこの重要職をつとめていた。

18世紀初期には海外貿易の衰退により既に廃城となっている。その後、明治から大正、昭和にかけて1884年に物産展示場 (写真右上) となり、その後、明治30年代には高級料亭の風月楼 (写真左下) となっていたが、戦後は米軍によって埋め立てられ、那覇軍港の通信所 (写真右下) がグスク内に設置されている。

御物城跡は立ち入り禁止地で遠目にしか見れないので、色々な角度から撮影した。

御物城跡には城郭の一部とアーチ門が残っている。インターネットで近くで撮影した写真があったので、それも含めている。


袋中寺跡

琉球王国時代、御物城への浮き橋の陸地側には袋中寺が建てられていた。

袋中は日本から明へ渡る目的で1603年に琉球へ来て明との交易船を待つ事にした。その際に、尚寧王から信頼を得て、久米村の松山に桂林寺を建てて浄土宗の布教を始めている。袋中は琉球での浄土宗の布教の為、自身の出身地である福島の念仏踊りをヒントに鉦を叩きながら念仏歌を広める事にした。後にこれが沖縄の旧盆に踊られるエイサー歌となって各地へ伝えられている。袋中は弟子や後継者を得る事無く3年後に日本へ帰国し、桂林寺は荒廃した。1606年には薩摩の琉球侵攻があり、制圧後は臨済宗と真言宗以外は禁止となってしまった。浄土宗が絶えて長い年月が過ぎた1937年 (昭和12年) にこの垣花に袋中寺が建てられたが、沖縄戦で焼失。戦後、昭和50年に小禄に袋中寺が再建されている。


那覇軍港 (那覇港湾施設)

那覇港は琉球王国の玄関口で幕末にはペリー艦隊が日本二訪れる前に寄港し、沖縄本島を探検している。下の絵はその時の那覇港での軍艦。

戦前から戦後にかけての那覇港の写真が残っている。

1945年 (昭和20年) の沖縄戦で米軍は小禄に上陸以降、小禄半島の小禄村は、そのほぼ全域 (83%) が米軍基地として接収されていた。1972年の沖縄返還協定で「那覇軍港」は「那覇港湾施設」と改称されている。

1974年の第15回日米安全保障協議委員会 (2プラス2)で那覇軍港の全返還が合意され、その後、移設先が決まらず、ようやく2015年に浦添市と移設先地して合意に至ったのだが、建設案がまとまらず、2023年4月に軍港案について米軍と合意となった。8月から予定港湾地の環境調査の入札が行われてようやく前に進むことになった。那覇軍港の返還は浦添新軍港が開港する16年先という。まだまだ、遅れて行くのだろう。一方、現在の那覇軍港については、ほとんど使用されていないとの事で、浦添への移設に疑問もある。また、協定に基づき遊休地の返還を求めたのだが、日本政府/米軍は使用中という事で返還を拒否している。既成事実の為か米軍は米海兵隊は翌日から那覇軍港で人道支援などを想定した訓練を実施している。米軍/日本政府は新軍港完成までに起こり得る有事の為に那覇軍港の維持を目論んでいるのかも知れない。沖縄住民にとっては、日本政府は国防という大義名分でまたもや沖縄を犠牲にするのかとの憤りがある。情報の不透明性が不信感に拍車をかけている。

那覇軍港跡地利用計画は2003年に基本構想が作成されてから、目立った進捗は無い。跡地の工事は浦添の新軍港に移設した後になるので、早くて、2040年以降の工事開始で2045〜2050年に順次施設が出来上がるのではと思う。



住吉町

垣花三町の最北に住吉町があり、那覇港沿いの町だった。一丁目の東側は、君南風の遙拝所と、旧唐船造船所 (スラ場) があった所で、廃藩後は刑務所敷地 (君南風監獄) となった。昭和初期頃には水産会の魚セリ市場、石油タンクがあった。 住吉神社の住吉森や那覇港口には浮道の先に屋良座森城があった。西のは馬場跡があり、垣花小学校、崎原灯台、鏡水、那覇飛行場へと道が続いていた。 二丁目は、住吉森の南側の平地で住居地だった。三丁目は、二丁目の南から筆山と中央気象台沖縄支台までの広い地域だった。

戦後、住吉町は米軍に接収され、住吉町住民は安謝港地区に、同じく米軍に土地接収された安謝住民や垣花町住民が移住して生活を始め、住吉町住民は住吉区を形成している。住吉区住民は未だに帰還できていない。


スラ場 (スラバ) 跡 (旧刑務所跡)

現在の那覇軍港になっているかつての中州の西側には、古琉球から近世期の造船所が置かれ、スラ場 (スラバ) と呼ばれていた。中州の東側には琉球の上級神女の君南風 (チンペー) ノロの墓と伝わる君南風御嶽 (チンペーウタキ) があった。1881年 (明治14年) から1891年 (明治24年) 頃には監獄 (写真下) となっていた。その後、昭和初期、この周辺には魚 セリ市場、石油タンクが立地していた。


屋良座杜城 (ヤラザムイグスク) 跡

屋良座森城は、1546年に尚清王によって那覇港南口に築城された。那覇港と那覇市街を守るために、姉妹城の三重城と並んで築城された。

両城の間には鉄の鎖の防波網を張り、船の入港を防ぐことができた。屋良座森城は大砲で武装していた。1609年の薩摩軍の侵攻の際には、薩摩の艦隊を追い払うことに成功している。元々は海上に築かれた城で、長い土手道が本土との間を結んでいた。しかし、時が経つにつれ、土手と南側の土地の間に土砂が堆積し、土手が海岸の役割を果たすまでになった。

その後も海賊対策に使用されたが、一般的には民間人による船の見送りに使用されるようになった。その様子が1827年にフレデリック・ビーチー艦長の英国船ブロッサム号が来航した際の「ビーチー太平洋航海踏査録」のスケッチに描かれている。遠方左手の丘が辻原、 中央が西村、 右手の建物が臨海寺。

「琉球交易港図屏風屏」には住吉神社のある住吉森から屋良座城への浮道の途中に岩場が描かれているが、これは威部之前 (イビヌメー) の拝所で現在では住吉神社に合祀されている。

1945年の沖縄戦後、アメリカは那覇港の南岸に海軍基地を設置し、1950年、基地拡張の際に屋良座森城は取り壊されている。


これで垣花三町巡りは終了。今日は熱中症に気を付けて、軽めの行程としたので、問題なくゆっくりと見て回れた。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 青い目が見た「大琉球」 (1987 ラブ オーシュリ)