Okinawa 沖縄 #2 Day 259 (20/01/24) 旧中城間切 中城村 (18) Kuba Hamlet 久場集落
旧中城間切 中城村 久場集落 (くば、クバ)
前原 (メーバル)、稲子原 (イナグバル)
- 久場の大赤木
- 久場の戦後復興の拠点
- 久場公民館
後浜原 (クシハマバル)、前浜原 (メーハマバル)
- 久場崎浮桟橋
- 戦後引揚者上陸碑
- 中城モール
- 中城モールビーチ
久場原 (クババル)
- 久場崎収容所
- 米軍フィリピン兵駐屯地、久場崎学校地区大井井戸 (ウフガー)
- 御嶽 (ウタキ)
- 久場子墓 (クバシーハカ)
- 御願ヌ上 (ウガンヌイー)
- 倶楽部 (村屋 ムラヤー) 跡
- 砂糖小屋跡 (サーターヤー)
- 種子取庭 (タントゥイナー)
- 統合拝所
- 龕屋跡
賀武道原 (ゲルガンドウバル)
- ヒートゥイ石 (未訪問)
台城原 (デーグスクバル)
- 殿庭 (トゥンナー)
- 護佐丸の墓
- 金満御墓 (カネマンウハカ)
- 台グスク (デーグスク)
- 台グスクにある拝所 (伊舎堂集落拝所)
- 長崎毛 (ナガサチモー)、長崎御井 (ナガサチウカー)、デーグスク屋取
自転車走行距離:49.9km、ウォーキング距離: 6.2km
旧中城間切 中城村 久場集落 (くば、クバ)
久場は、中城村の北端に位置し、標高176mのデーグスク (台城) を頂点とした西側の丘陵斜面部から国道を挟んで、東側の平野部に開けた集落で、南は字泊に面し、東は中城湾、北 は北中城村字熱田、西は北中城村字大城に接している。
久場は、稲子原 (イナグーバル)、前原 (メーバル)、久場原 (クババル)、南風原 (フェーバル)、賀武道原 (ゲルガンドウバル)、勢頭原 (シードウバル)、伊世良原 (イヨーラバル)、宇地間原 (ウジマバル)、宇保賀真原 (ウフガマバル)、台城原 (デーグスクバル)、後原 (クシバル)、真尻原 (マーシリバル)、前浜原 (メーハマバル)、後浜原 (クシハマバル) の14の小字から成り立っている。かつての久場の集落は、中城グスクの北東側下方にあったと伝えられている。そこには久場の拝所である殿庭 (トゥンナー) もあることや、その周辺からは、青磁などの遺物が採取されていることか ら、この一帯が集落地であったことがうかがえる。
久場は中城村の中では、沖縄戦の影響が最も長く続いた地域になる。戦前までの集落の全域は米軍用地として接収され、戦後には帰還が叶わず、隣村の泊に居住を始め、その後、久場の南の稲子原 (イナグーバル) に新しく集落を建設し、1981年 (昭和56年) にようやく、かつての集落地が返還されることになり、集落があった場所に区画整理事業が進められ、1989年 (平成元年) に竣工し、家が建ち始めた。
戦後、他の字と同じ様に人口は減少しているが、米軍用地として長く接収されていた土地が返還され、住宅地/商業地として区画整理事業が行われた後は人口が急増している。近年は世帯数は伸びているものの人口は横ばい状態にある。
久場の人口は明治時代には中城村では少ない字だったが、戦前には津覇に次いで二番目に人口の多い地域になっている。その後も人口は多い字の地位をキープしている。現在では人口一位の南上原を除けば、明治時代から最も人口が増加した字になる。
去る沖縄戦で米軍は集落地にキャンプ (キャンプス久場崎) を設営し、地上戦を優位に進めるとともに、戦後も引き続き米軍基地として占領・接収し、兵舎や海外引き揚げ者の収容施設として使用し、その後、米人学校 (クバサキ ジュニア ハイスクール) として使われることになった。そのため久場の人々は元の集落に戻ることができず一時期、伊舎堂や添石の屋敷内に、テントや茅葺きの家を建てて居住し、添石や伊舎堂の人たちから畑や屋敷を割り当ててもらい生活をしていた。1951年に伊舎堂で土砂崩れが起き、近くの十数軒の民家が立ち退きを余儀なくされ、そこに居住していた久場の人たちも、伊舎堂に戻れなくなってしまった。これを機に久場の人たちは畑地であった小字 稲子原 (イナグバル) を整地して集落を建設し移動が始まった。この新しく造った集落内の道幅は狭く、万一火災などが発生しても消防車が入れない状況のため、区民は不安を抱えることになった。1981年 (昭和56年) にようやく、かつての集落地が返還されることになり、区画整理事業が進められ、1989年 (平成元年) に竣工している。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: 久場ヌ嶽 (神名不詳)
- 殿: 上久場之殿 (殿庭 トゥンナー)
- 神屋: 上門根所 (所在地についての情報は見つからず)
祭祀行事は大城ノロによって執り行われていたが、久場ヌ嶽での祭祀は久場の百姓によって執り行われていた。
現在、久場では村としての祭祀行事は継続しておらず、垣糧、各門中が行っている。
久場集落 訪問ログ
字久場の南から、久場集落、久場の古島、デーグスクの順番で史跡、拝所を見ながら散策をする。
前原 (メーバル)、稲子原 (イナグバル)
久場集落は戦前は久場原 (クババル) にあったのだが、戦後、久場集落全域が米軍に接収されてしまった。収容所からの帰還許可が降りたが、集落は米人学校 (クバサキ ジュニア ハイスクール) として使われており、住民は元の集落に戻ることができず一時期、伊舎堂や添石の屋敷内に、テントや茅葺きの家を建てて居住していた。1951年に伊舎堂で土砂崩れが起き、近くの十数軒の民家が立ち退きを余儀なくされ、そこに居住していた久場の人たちも、伊舎堂に戻れなくなってしまった。これを機に久場の人たちは畑地であった小字 稲子原 (イナグバル) を整地して集落を建設し、移動が始まり、その後、前原 (メーバル) にも拡張していった。1981年 (昭和56年) にようやく、かつての集落地が返還されることになり、区画整理事業が進められ、1989年 (平成元年) に竣工し、元の集落が再生されている。
久場の大赤木
戦後、コザの捕虜収容所に集められていた中城村の住民は帰還許可が降り、当間の一時収容に移り、帰還準備を開始した。久場の住民も同様だったが、久場のほぼ全域が米軍軍用地に接収されていたので、帰還が叶わず泊の伊那具原 (イナグバラ) に住み始めた。その後、居住していた伊那具原 (イナグバラ) での土砂崩れが発生し転出が余儀なくされ、稲子原 (イナグバル) に移住している。この稲子原の中に樹齡130年以上ともいわれる赤木の大木が生息している。この一帯は、戦前から終戦直後まで、豊饒な田畑が広がっていた。泊伊那具原に隣接している。戦前、この大赤木の傍らを通学路が通っており、久場原にあった久場集落から屋宜の学校への行き帰りの子供たちが、休憩をとってユンタクする場所だったそうだ。また、涼風を呼ぶ大赤木の木陰は、多くの人が野良仕事の合間に、一服する安らぎの場所でもあったという。
久場の戦後復興の拠点
久場の軍用地の返還には希望が見出せず、久場集落住民は新たな集落づくりを目指し、1951年 (昭和26年) に字泊伊那具原とその周辺に約1万坪の土地を確保し区画整理を実施した。同年8月から区民の移動が始まり、数年でほとんどの家族がこの新しい集落に移り住んでいる。新部落づくりの戦後復興を推進
するための拠点として、赤木の大木がある場所に区民資金とハワイやアルゼンチンなど久場出身の移民の多額の寄付により1954年に公民館を建設している。1981年 (昭和56年) にかつての集落地が米軍から返還され、その一角の前原に新たな公民館が建設され、この地にあった公民館は取り壊され、その役割を終えている。跡地にはコンクリート造りの鉄棒が残され、当時、戦後の苦しい時代から復興させた記憶を後世に伝えている。
久場公民館
1981年 (昭和56年) にかつての集落地が米軍から返還された際に、戦後、稲子原にあった公民館を前原 (メーバル) のこの場所に移されている。稲子原で復興が始まった集落は今でもそのまま残り、住み続けている。公民館には広いグラウンドが造られて、その一画に区画整理事業完成の碑が建てられている。
後浜原 (クシハマバル)、前浜原 (メーハマバル)
久場崎浮桟橋
沖縄戦の真っ只中の1945年 (昭和20年) 5月には、米軍は米海軍第21工兵大隊 (Blackjack) を送り込みこの久場先の海岸 (Brown Beach ) に埠頭を建造している。沖縄戦の最前線の米軍への物資を海から搬送のための荷上げ港だった。建設中には日本軍の神風特攻の攻撃 (写真右下) も受けていた。この桟橋は1946年 (昭和21年) 9月のケリーダ台風で壊滅し、以降は陸揚港が那覇港に移されている。
戦後引揚者上陸碑
久場崎の海岸に戦後引揚者上陸碑が建っている。碑の近くに突堤付近 (写真左上) が浮桟橋があった場所で、この突堤の砂浜に近く場所が上陸地だった。これは1996年 (平成8年) 3月に中城村終戦50周年記念事業により建立された。ここは、かつて沖縄戦により県外に疎開していた人たちや、敗戦によって海外移民先から帰還を余儀なくされた人たち、また戦地から復員した人たちが、軍用船の海防艦に乗り、ふるさと沖縄の地に最初に降り立った場所。 戦後の沖縄復興はここから始まっている。この碑は、当時の戦争の悲惨さを後世に伝える為に建設され、三本の柱のモニュメントはそれぞれが引き揚げて来た直後の人々の心境の「不安、喜び、希望」を表している。
中城モール
久場の海岸沿いには中城村にある二つのショッピングセンターの一つがある。もう一つは丘陵に上の南上原にあり、ここにある中城モールは2015年にオープンしている。家具が中心だが、スーパーマーケットのかねひでも入っており、丘陵下の中城村集落の買い物の中心地になっている。久場は南上原に次いで人口の多い地域になる。ショッピングモールがあることも一因だろう。
中城モールビーチ
中城モールは砂浜に面しており、そこから南北に1kmの長いビーチが広がっている。このビーチには観光客は殆ど来ない穴場的なビーチ。派手さはないのだが、中城モールには砂浜に面したカフェテラスもある。中城モール裏側海岸には出来栄えはそれ程では無いのだがマーメイド像が置かれていた。カフェテラスにももう一体ある。カフェは昔はマーメイドレストランだったそうだ。その時にマーメイド像を設置したのだろう。
久場原 (クババル)
久場の中心地が久場原 (クババル) で中城グスク、台 (デー) グスク付近にあった古島から伊集して集落を形成している。戦後は米軍に接収され立ち入りは禁止されていた。1981年 (昭和56年) に返還が決まり、1989年 (平成元年) に区画整理事業が竣工している。その後、元あった集落の地に住宅が増えていき、戦前以上の町ができている。
久場崎収容所
戦後、台湾、中国、マリアナ諸島など海外戦地や日本各地からの沖縄出身引き揚げ者は浦賀、名古屋、大竹、佐世保、鹿児島の5つの港経由で米軍の LST (戦車揚陸艦) で帰還している。ここにあった浮き桟橋 (通称久場崎 浮桟橋) に上陸し、接収された久場集落に造られた収容所に6日間ほど一時的に隔離し収容された。収容所は6000人もの収容できるカマボコ兵舎 (コンセット 写真右中) が並んでいた。ここで予防注射の接種、DDT (写真左下はDDT散布を受ける列、右下は散布を受けている婦人) など必要な諸検査や処置をおこなっていた。1946年 (昭和21年) 8月から12月まで沖縄へは約17万人の帰還者 (当時の沖縄人口の4分の一にあたる) があり、ここ久場崎では10万人を迎え入れている。(余談だが、資料に目を通していると、引き揚げ者の統計では沖縄人、琉球人、大島人と区別している。大島とは奄美大島の事だが、当時に日本政府は沖縄人と琉球人を区別していた様だ。琉球人とは八重山諸島の住民の事) 1946年 (昭和21年) 8月17日に引き揚げ者第一陣が桟橋に到着、以後、同年12月の収容所閉鎖までに、多くの県民がこの久場崎に帰還してきている。
米軍フィリピン兵駐屯地、久場崎学校地区
収容所が1946年 (昭和21年) 12月に閉鎖された後も村の返還は行われず、1947年 (昭和22年) 1月頃には、引き揚げ業務を終えた収容所跡地にはフィリピン兵で構成される部隊が駐屯 (写真左上) を始めた。米軍駐屯地では兵舎の掃除や洗濯、自動車修理などの軍作業の為に地元住民が雇用されていた。これは生活の助けにはなったのだが、フィリピン兵は久場や泊集落にが女性目当てにやってくることもしばしばあった。泊で出会ったおじいは当時の事が記憶に残っていると話してくれた。フィリピン兵は何人かで村にきて若い女性を捕まえて畑でレイプしていた。隠れてではなく、村民からも見える場所でおおっぴらにレイプしていた。兵隊はピストルを持っており、村人は銃撃騒動を恐れて何も出来なかった。おじいは当時は小学生だったが、何が起きているかは理解し、悔しくて惨めだったという。当時は、訴える期間もなく、戦争に負けるという事は、こういう事なのかと思ったという。村では、見張りを置き、フィリピン兵が来ると、すぐさま村中に知らせがまわり、女性を兵隊の目につかない様に隠すことしか出来なかった。米軍フィリピン部隊の移動後も返還はかなわず、端慶覧キャンプ内にあった Okinawa-American Dependent Schoolが台風で壊れてしまったので、1952年 (昭和27年) に駐屯地跡にあった Army Training School に移り米軍人・軍属の子供達の Kubasaki American High School (沖縄アメリカン高校・中学) として開校 (写真右上) している。1956年 (昭和30年) に学校は那覇ホイール地区に移転。(その後、1964年から82年までには、キャンプフォスター敷地に移転している。学校名はクバサキハイスクールとして残っている。) 1957年から64年まで普天間とホワイトビーチの建設維持を担当していた第3海軍機動建設大隊 (NMCB3) が駐屯、更に1963-65年に第173空挺旅団の本拠地となり、ここからベトナムに展開していた。ようやく、1968年から土地返還が開始され、1971年まで四回にわたり細切れに用地が返還、1981年3月31日に全面返還が実現している。1987年から90年に土地区画整理事業が実施され、現在は住宅地、商業地等として利用されている。
大井井戸 (ウフガー)
米軍に接収されていたかつての集落地域が返還され、元々集落があった場所は区画整理がされ住宅街となっている。ほぼ旧集落と同じ具来の範囲だが、道筋は少し変わっている。軍用地として接収時にそうなったのか、区画整理の時なのかは分からないが、集落内にあった多くの拝所などはもとの場所から移設されている。集落中央の西側斜面の麓に大井井戸 (ウフガー) は残っていた。久場集落住民が正月の若水や毎月の一日・十五日にここから水を汲んで仏壇に供えていた。この井戸は生活用水としても利用されていた。
御嶽 (ウタキ)
大井井戸 (ウフガー) の傍から斜面を登る階段がある。この上には御嶽 (ウタキ) が置かれている。厳密に言うとこの場所は久場原ではなく、小字境界近くの勢頭原 (シードゥバル) なのだが、集落がある久場原の拝所なのでここに記載しておく。1713年に首里王府によって編集された琉球国由来記 (1713年) の「久場ノ嶽」にあたり、鬱蒼とした木々に囲まれた石灰岩の根元に香炉が置かれている。日中戦争が始まると、局地戦で勝利した際には提灯行列して、この御嶽にお参りに来ていたという。
久場子墓 (クバシーハカ)
御嶽から更に奥への道があり、そこには久場村の草分けの家号 宇栄 (イー)、石垣 (イシダチ)、桃原 (トーバル)の先祖の久場子 (クバシー) の墓が残っている。言い伝えでは、中城按司の子孫の久場子の長男久場親雲上の三人の兄弟が久場邑の元祖とされ、宇栄門中、石垣門中、桃原門中の初代は、それぞれ長男 (上門親雲上)、次男 (石垣親雲上)、三男 (桃原親雲上) の兄弟関係だった。久場の子が台グスク近くの古シマ (上久場之殿) から1600年前後に平野部のこの地に移住して来て村建てたを開始したという。宇栄 (イー) 門中は久場邑の創始家 (根屋 ニーヤ) とされ、村落祭祀の中心的な役割を担ってきた。
御願ヌ上 (ウガンヌイー)
御嶽 (ウタキ) の上方一帯は御願ヌ上 (ウガンヌイー) と呼ばれ、かつては、ニングゥチパーパー (シマクサラシ) の祭祀の際に、牛を屠殺した場所と伝わっている。
倶楽部 (村屋 ムラヤー) 跡
御嶽の北側には戦前まで倶楽部が置かれていた。現在は住宅地になっている。倶楽部は村屋 (ムラヤー) で現在の公民館にあたる。当時の倶楽部は集落より少し高い場所にあり、階段木造瓦葺で建てられいた。倶楽部では字や青年会の集会が行われていた。青年会は若い男女が知り合う機会で2週間に1度ほど開催されていたそうだ。青年会が終わると倶楽部の向かいの東西に通る公民館通りに集まり、歌ったりして夜の時間を楽しんだという。丁度、アシビナーの役割もしていた様だ。また、共進会や敬老会も行われ、芝居や踊りなどの催しも行われたという。この様に倶楽部は集落住民全世代の集いの場所だった。沖縄戦が近づく1944年 (昭和19年) の夏休み頃から、屋宜にあった中城国民学校が日本軍の兵舎となり、ここにあった倶楽部を利用し授業が行われたていた。十・十空襲の後からは、倶楽部での行事も減っていった。
砂糖小屋跡 (サーターヤー)
大井井戸 (ウフガー) のすぐ南に一つ、西側に二つの砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。戦前、久場には6軒のサーターヤーが置かれており、屋号門小一門 (門小組) など、それぞれは親戚同士や友人同士で組織されたサー ターヤーグミ (組) で営まれ、毎年12月から4月にかけて黒糖作りが盛んに行われていた。サーターヤー跡は土地返還後の区画整理事業で住宅地となっている。
このサーターヤーから東に伸びる道を境として北は後村渠 (クシンダカリ)、南は前村渠 (メーンダカリ) と集落を二つの組に分けていた。集落内の冠婚葬祭はこの組単位で行っていた。
倶楽部の北側にも三つの砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。この辺りは児童公園となっている。このサーターヤー近くにはチンガーと呼ばれた井戸もあったが、現在では消滅してしまった様だ。
種子取庭 (タントゥイナー)
前村渠の中心部にはかつてはムラの祭祀だったタントゥイ (種子取) が行われた広場あったそうだ。ここには、砂場が設けられ、タントゥイの際には青年たちが角力をとっていた。このタントゥイナー は当時は子どもたちの遊び場でもあった。
統合拝所
米軍に接収され久場崎ハイスクールとなっていた久場集落内にはムラ火の神、龍宮神などの拝所が存在していた。土地が返還された後1987年に、それら拝所を種子取庭 (タントゥイナー) の片隅にある大岩の場所に、種取庭 (タントゥイナー) に合祀して移設している。祠には向かって左から村火の神、久場五神村神 (世主、国、按司、嶽、村神)、彌勒神、龍宮神が祀まつられている。
合祀祠の隣には村建ての中心となった三つの門中である宇栄門中之墓、石垣門之墓、桃原門中之墓、それらに混じって、三門中の始祖の久場子の墓も祀られている。更にその隣には喜納門中の拝所も置かれている。
龕屋跡
久場集落から外れた北側に戦前には龕屋が置かれていた場所がある。沖縄では多くの集落で龕屋があったが、いずれも集落から少し外れた所にあった。ここもそうなのだが、風葬、洗骨の習慣が禁止された後は殆どの集落で龕屋は取り壊されている。
久場集落を巡り終え、次は丘陵の上にある台グスクの向い、坂道を登っていく。
賀武道原 (ゲルガンドウバル)
戦前には久場集落から台グスクへ一本、中城グスクへはニ本の道があったが、現在では当時の道は残っていない様だ。自動車道路が出来てからは使われず自然消滅してしまったのだろう。台グスクと中城グスクへの自動車道路の道で前原から坂道を登り、賀武道原 (ゲルガンドウバル) の中の道を進む。かつては台グスクへの道だっただろう野道が集落から丘陵上に伸びているのだが、道は途中で途切れている。
公民館に集落拝所の案内図があったが、その地図ではかつての道はほとんどが消滅か行き止まりになっている。
ヒートゥイ石 (未訪問)
賀武道原には、昔は、殿庭 (トゥンナー) へと続いていた神道 (カミミチ) と呼ばれる道があったそうで、その道沿いにヒートゥイ石とかヒートゥヤーイシとも呼ばれた拝所として拝んでいた岩があると資料には写真付き (写真右下) で紹介されていた。場所は中城グスクへの道の近くという事で、自動車道路を上りながら、それらしき野道を探した。一つ殿庭 (トゥンナー) 方向への道を見つけ、道を進んだが古墓への道で結局見つからなかった。この後、殿庭 (トゥンナー) を訪問した際に、そこに通じる道も探したが、道らしきものは見つからなかった。どこかに道はあるのだろうが、途中で途切れていると思われる。
資料に掲載されていたヒートゥイ石
台城原 (デーグスクバル)
自動車道路を進み、賀武道原 (ゲルガンドウバル) の北が台城原 (デーグスクバル) になる。ここには台城 (デーグスク) があったことから、このように呼ばれている。久場集落の現在地に移住してくる前に古島が置かれていた場所になる。
殿庭 (トゥンナー)
台グスクの手前、自動車道から下に降りていく野道があり、その先には殿庭 (トゥンナー) と呼ばれる拝所がある。かつては、この一帯に久場集落の古島があったと伝えられている。琉球国由来記には上久場之殿 (イークバヌトゥン) と記載され、五月と六月ウマチーの際に大城ノロによって祭祀が行われていた。戦前迄は麓にある久場集落からこの上久場之殿までは神道が通っていたというのだが、道らしきものは見当たらない。神道は消滅している様だ。
護佐丸の墓
自動車道を進むと護佐丸の墓への登り階段が置かれている。階段は新たに造られており、その階段に沿って、石畳道が残っている。昔はこの石畳道を通って墓参をしていたのだ。
中城按司護佐丸盛春 (毛国鼎 もうこくてい) は沖縄では最も人気の高い武将で、15世紀の第一尚氏時代の按司 (大名) の一人だった。護佐丸は、第一尚氏の尚泰久王に仕え、中城グスクの城主だったが、勝連城主阿麻和利 (あまわり) の策謀 (護佐丸の謀反の嫌疑) により、阿麻和利が率いる王府軍に攻められ、1458年に中城グスク内で自害したと伝えられている。護佐丸の三男・盛親(もりちか)だけは乳母とともに中城グスクを脱出し、乳母の故郷である糸満国吉へと逃れ国吉比屋によって国吉グスクでかくまわれて養育されている。盛親は第二尚氏の第一代尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任ぜられ、豊見城親方盛親を名乗っている。その子孫は毛氏豊見城殿内を筆頭に五大姓 (五大名門) の一つとして三司官をはじめ、首里王府の主要な役職に多数が就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えた。この墓は、1687年に護佐丸から八代目の子孫である豊見城親方盛定が、首里王府から土地を拝領して造ったと伝えられ、初代護佐丸盛春と、二代目の盛親から、盛庸、盛章、盛続、盛良と続き、七代目の盛常までの遺骨が納められている。八代目以降は那覇市繁多川の識名の豊見城殿内 (ティミグシクドゥンチ) の墓に納められている。戦前は徴兵出征する際に、久場の人達により拝まれていたそうだ。
金満御墓 (カネマンウハカ)
護佐丸の墓から台グスクへ向かう道の途中の崖に掘込み形式の古墓がある。先中城按司初代 (ウサチナカグスクアジ) の墓と言われている。中城グスクは、護佐丸以前の先中城按司が14世紀中頃から築き始め、その後、一族の数世代を経て15世紀前半までには大部分を完成させたと考えられている。この墓は先中城按司直系の子孫といわれる泊大屋によって拝まれている。
金満御墓 (カネマンウハカ) の隣にも幾つかの古墓が残っている。これらも崖の岩を掘って造った掘込墓 (フィンチャー) の古い形式の墓になっている。
台グスク (デーグスク)
道を進むと新たに造られた台グスクへの散策路にでる。この道は台グスクの頂上に置かれている展望台に通じている。
台グスクは中城村の北側、標高170m余の琉球石灰岩の台地にある。
台グスク頂上から北は、勝連半島や具志川方面、南は知念、玉城などが眺望できる。
台グスクにある拝所 (伊舎堂集落拝所)
台グスクには琉球国由来記に記載されている拝所がある。 火ヌ神は伊舎堂にあるマーチューグワーにウンチケー (お招き) したと言い伝えられている。現在もハチウビー (新暦1月2日) で拝まれている。琉球国由来記によれば、デーグスクには伊舎堂村のニヶ所の拝所があり、それぞれ「ダイ森ノ御イベ」と「ミツ物ノ御イベ」が祀られているが、これが台グスクにある二つの拝所)に該当するのかについては記載がなかった。この2ヶ所は毎年3月、8月に四度御物参 (中城王子の繁栄を祈願する祭祀) が大城ノロによって執り行われていた。
頂上の平場にある拝所
長崎毛 (ナガサチモー)、長崎御井 (ナガサチウカー)、デーグスク屋取
デーグスク (台グスク) や護佐丸の墓の周辺一帯を長崎毛 (ナガサチモー) という。台グスクは標高170mの高い位置にあり先端が切り立って岬のようになって見えるため、長い崎という事からこの様に呼ばれるようになったという。戦前まではこの長崎毛 (ナガサチモー) の台グスクと中城グスクの間には泊の屋取が4軒あったそうだ。屋取集落は琉球王国時代は貧困氏族の帰農政策により、明治以降は失業氏族が農業に従事してできた集落だが、ここの屋取集落は少し事情が異なる。1726 ~ 78年頃に護佐丸の墓やその周辺の管理を行うため、美里間切池原村 (現在の沖縄市池原) の地頭職を務めていた毛氏護佐丸門中系統の池原 (毛氏)、名幸 (田氏)、小那覇、大山 (毛氏) などの人々が移住しデーグスク屋取と呼ばれていた。そのうち久場区域には内ヌ池原、前ヌ池原、新名幸小、上之当名幸の4軒があった。通常、屋取集落とその本村とは殆ど交流がないのだが、この様な背景での移住だったこともあるのだろう、このデーグスク屋取は久場集落とは良好な関係だったそうだ。
これで久場集落にある史跡や拝所巡りを終了。急遽、来週末に東京で大学時代の同窓会が設定されたので、東京に行く予定を入れた。一週間ばかりの滞在で均衡の史跡も見ようと思っている。明日からはその下調べをするので、次回の沖縄集落巡りは東京から帰ってきてからになる。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ11 久場 (2016 中城村教育委員会)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 1 泊 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)