Okinawa 沖縄 #2 Day 268 (22/09/24) 旧中城間切 北中城村 (03) Tuguchi Hamlet 渡口集落
旧中城間切 北中城村 渡口集落 (トゥグチ、とぐち) [29日訪問分を追加]
- 和仁屋間馬場 (ワナマンマィー)
- 和仁屋間 (ワナマ) のテラ
- 村井 (ムラガー) ❶
- 村井 (ムラガー) ❽ (消滅)
- 子供慰霊の拝所
- 村井 (ムラガー) ❷ (消滅)
- 村井 (ムラガー) ❼ (消滅)
- 御願小 (ウガヮングヮー)
- ハマガー ❸
- 欹髻 (カタカシラ) 始末跡
- 村井 (ムラガー) ❹
- 渡口カジマヤー
- 旧渡口橋、後川 (クシガーラ)
- シマクサラシー拝所 (火ヌ神)
- 村井 (ムラガー、産井 ンブガー) ❺
- 産井 (ンブガー) ❻
- 渡口公民館 (倶楽部、村屋)
- 宮城門中 (ナーグスク) の神屋
- 渡口の梵字の碑 (アビラウンケン)
- 渡口洞窟遺跡
- 和仁屋大城 (ウフグスク) 門中の拝所
- 渡口ヌ殿 (トグチヌトゥン)
- 渡口の印部土手石 (シルビドテイシ)
- 大屋門中 (ウフヤ) の神屋
- みどり公園
- 慰霊之塔
- 上ヌ御嶽 (イーヌウタキ)
- アシビナー (遊び庭)
- チンマーサー (一里塚里程標)
- 古井戸
- 米須嶽 (クミシダキ)
- 前川 (メーガーラ)、メンター橋
- 後川 (クシガーラ)
- スーカラガー(マカーガー) (未訪問)
- 種取毛 (タントゥイモー)
- 宮城ヌ嶽 (ナーグスクヌタキ)、宮城ヌ殿 (ナーグスクヌトゥン) (未訪問)
- 沖縄県立総合運動公園 (9月29日 訪問)
- 井戸跡 (消滅) (9月29日 訪問)
- 奥武小タバサ (9月29日 訪問)
- 豆腐島 (イルカ島) (9月29日 訪問)
- 美崎海岸 (9月29日 訪問)
- ナミゲーシ (波返し) (9月29日 訪問)
旧中城間切 北中城村 渡口集落 (トゥグチ、とぐち)
渡口は、その昔、ここは南から勝連方面への渡し場であったことから名がつけられたという。渡口集落は、大屋 (ウフヤ) 門中の祖先が居住していた頃は、戸口村と称していた。北の前田原にあった宮城村 (ナーグスク) が1670年に渡口村に移住し、戸口村に併合され、渡口村に改称されたという。それ以降、集落は大屋門中と宮城門中で構成され、大屋門中はシリンダカリ、宮城門中はメンダカリと組分けされていた。
渡口部落は、北中城村では二番目に広い面積を有するが、山間部が多く、人口は比較的少ない地域になっている。戦前の農作物は甘藷、きび、大豆、稲などが主であった。
渡口の人口の推移を見ると沖縄戦直前には411人だったが、沖縄戦で住民の36%にあたる148人もの犠牲者を出している。1960年には人口は戦前レベルを超え467人まで回復している。その後、人口は増加し本土復帰の前後は増加率が高くなっている。2000年には924人までになったが、その後は減少が続き、近年も微減状態が続き、2023年末では713人になっている。一方、米軍泡瀬通信施設跡地の美崎地区は住宅地が開発され、急速に人口が増えている。美崎は渡口から分離し独立行政区となっている。
琉球王国時代から明治、大正時代の渡口集落は現在の国道329号線の東側まで広がっていたが、戦後は西側だけに集落が狭くなっている。その後は国道329号線と宜野湾北中城線沿いに民家が広がっている。
1965年 (昭和40年) から1983年 (昭和58年) にかけて米軍泡瀬通信施設が段階的に返還され、その跡地の美崎地区には住宅地、奥武には運動公園が開発されている。美崎は住宅が密集し、独立行政区となっている。人口は本村だった字渡口をしのぐ程に増えている。
これまで巡った熱田、和仁屋、渡口の3集落は東部地区と位置付けられて、北中城村都市計画マスタープランでは次の様に構想が書かれている。率直に言うと、他の行政のマスタープランと同様に中身の乏しい物で、これを見てワクワクする内容ではない。(括弧内は個人的コメント)
東部地域を「海とみどりの健康・レクリエーション拠点 都市と自然が調和した魅力的なまち」にする構想を打ち出し、その取り組みは
村の活力を創出する海辺の拠点づくり
- スポーツ・レクリエーション拠点機能の維持・向上の要望 (既に軍用跡地に運動公園が造られているが、現在の運用状態や今後の活用計画には触れられていない。)
- 東海岸域における交流拠点等の整備に向けた検討 (何を意味しているのか不明)
海と緑を活かした環境づくり
- 農用地の保全と高度化の推進 (耕作放棄地が問題。現在民家がある地域を除いて、殆どが、農地と農業振興地の市街化調整区域で、開発は困難。益々、耕作放棄地が増えて行く。農地の80%が自給用の零細農業。この状態をどの様に農業高度化を推進するのかの計画は不明)
- アーサの養殖をはじめとした漁業環境の保全・充実 (意味不明)
- 海の特徴を活かし地域の個性を演出する景観の形成 (意味不明)
- 豊かな自然環境の管理・保全 (何を意味しているのかは不明)
利便性の高い市街地の形成
- 県道宜野湾北中城線、バイパス沿道における生活利便施設の誘導 (中央公民館、ライカムの事と推測するが、現在はアクセスが不便)
- 東海岸地域との広域連携を見据えた国道329号の沿道利用 (地元では「魔の329強号」と呼ばれている。西原から中城村にはいってから、北中城村泡瀬までは商業施設は少ない。何故、国道329号沿線に商業施設が増えないのか原因の分析がなく、沿線海岸側は市街化調整地域でデベロッパーにとって魅力は薄い。)
- 多様な主体との協働による移動手段の検討 (東海岸の幹線道路は国道329号のみで、当面はこの道路を使用するしかないが、バスは本数は少なく高額。どう解消するのか不明。ライドシェア?バス会社補助金により増発、低料金?)
安全・安心に住み続けられる住環境の形成
- 主要生活道路や住宅地内道路環境の向上 (集落内の道路整備は困難だが、如何に解消するのか?北中城団地には駐車場が少なく路上駐車多く、団地設計に問題がある様に思える)
- 地域環境に配慮した防災対策 (具体策記述なし)
マスタープランをざっと見た限り、都市計画の中心は返還された、またはされる軍用地の跡地利用の開発にあり、特にライカムがキィーとなっている。東部地域は残念だが、プライオリティは低く、後回しの感がある。これは、都市計画としては当然の事だろう。問題は東部地域がどの様に開発地域の恩恵を受けられるかだが、例えばライカムへは低料金のバスはあるが1日6便しかなく、中心地へのアクセスはもっと便利にする必要はあるだろう。
北中城村のホームページではマスタープランを具体化するアクションプランの言及はなく、ほとんどは進展していないと見える。これは、国の指導でテンプレートに従ってマスタープランは作るが、マスタープラン作成が目的になっているケースが殆どだ。これは殆どの行政の課題だろう。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: 宮城之嶽 (神名 アフヤネノコバヅカサノ御イベ)、上ヌ御嶽 (上立御嶽 二御前 和 仁屋村一御前 神名、コバヅカサノ御イベ 一御前、神名、マネヅカサノ御イベ)
- 殿: 宮城之殿、渡口ヌ殿
- 拝所: 御願小、和仁屋間のテラ、子供慰霊の拝所、シマクサラシー拝所 (火ヌ神)、宮城門中の神屋、和仁屋大城門中の拝所、大屋門中の神屋、米須嶽
- 井泉: 村井 x 4、ハマ井、産井、産井 (村井)、古井戸、スーカラガー、カラウカー
和仁屋集落のスポットを見終わり、まだ時間は充分残っているので、渡口集落に移動する。
和仁屋間馬場 (ワナマンマィー)
和仁屋から渡口に入ると道が急に広くなっている。ここには和仁屋間馬場 (ワナマンマィー) と呼ばれた馬場が置かれていた。和仁屋間門 (ワナマジョウ) は、現在の渡口、和仁屋の東、 中城湾岸一帯の広い範囲をさしておりワナマナー、また、渡口集落では馬場 (ンマイー) とも呼んでいた。和仁屋集落の馬場なのだが渡口にある。旧暦8月11日にはこの和仁屋間門で御願が行われた。熱田、渡口、仲順、喜舎場、荻道、大城、コザ方面から馬が集まり、馬勝負が行われた。また、出店も多く、相撲大会も催されていた。
この馬場についてはその所有に関して、熱田、和仁屋、渡口の間で2度裁判になっている。戦後、熱田と和仁屋の間で裁判となり、過去の地図や熱田には馬が多く、和仁屋には馬がいなかったので、熱田の勝訴となった。その後、熱田と渡口との間で争いとなり、熱田の勝訴となっている。この結果何だが、和仁屋集落はこれは地番の話で、あいかわらず、和仁屋間馬場は和仁屋のものと思っている。また、この付近には戦前までは渡口集落を本村として屋取集落があり、8世帯が住んでいた。
和仁屋間 (ワナマ) のテラ
和仁屋間馬場の道を進むと国道329号線に合流する。渡口交差点を渡る。国道329号線東は字渡口の東部の小字下原で、そこに和仁屋間 (ワナマ) のテラがある。南向きに屋根頂上に宝珠が置かれた石造りの御願所になっている。渡口のテラ、浜崎のテラ、テラモーヌメーとも呼ばれている。琉琉球国由来記 (1713年) には和仁屋間神社とあり、「往昔、渡口村、高時卜申者、霊石ヲ権現卜崇、宮建立仕タル由、伝アリ」と記載されている。沖縄での権現信仰の起源知る上で貴重なものだそうだ。
渡口に伝わる伝説では、
泊大屋子 (トマリウフヤシー) が海にいると波に黒い石が浮いていた。よく見ると妊婦の様な不思議な形をしており、この石を渡口の浜に引き揚げて祀り、浜崎の寺としたところ渡口村は栄えたという。
昔、渡口村に住んでいた高時という人が一つの変わった形の霊石を得てこれを尊んで宮を建てて安置したとされており、祭祀は竈与儀 (かまどぅよぎ) という人物が代々の責任者だった。
とある。
渡口集落では旧暦9月9日 (クングヮチャー) にビジュルメーの祭祀が行われて拝され、熱田集落では旧暦6月25日のウハチ (御初穂) と7月14日のエイサーで拝まれている。
和仁屋間の寺は渡口下原四五三番地に所在している。『琉球国由来記』に「往昔、渡口村高時卜申者、霊石ヲ権現いる。
字誌 わなむら (2021 和仁屋自治会) によれば和仁屋集落ではこの和仁屋間のテラは拝んでいなかったという。その理由について書かれていた。琉球の昔からの信仰は神が住む東の海の水平線のかなた (東世 アガリユー) にあり、弥勒の神が海の向こうからやって来て村々に豊かな恵みをもたらしてくれる「水平思考」だが、一方、大和の宗教には、神は天空から降りてくるという「垂直思考」になる。この思考は拝所の形に表れているという。大和系の形は屋根の形は末広がりに広がり、屋根の上には天の神との交信用として宝珠が置かれている。琉球の御嶽は水平思考を表す平石が置かれている。和仁屋間のテラの屋根の形は、大和系の形をしている。首里の役人か中城按司か、地位のある方がやってきて渡し舟の安全を願うため建立されたと思われる。この様に琉球の信仰とは異なる宗教として和仁屋では祭祀の対象としなかったと説明していた。一般的に沖縄ではあらゆる宗教を受け入れている様に思えたのだが、この和仁屋間のテラのつくられた時期は、水平思考から垂直思考に変化していく初期であったからとも付け加えられていた。
村井 (ムラガー) ❶
渡口集落にはまだ各戸に井戸がない頃は共同井戸の村井 (ムラガー) が八か所あったそうだ。産井 (ンブガー) が二か所、ハマガー、マーツガー、名称が付されていないムラガーが四か所で、ここは名のない村井のひとつ。また、宮城村に関係する村井 (ムラガー) も五か所あるが、宮城一門が直接管理しており、渡口集落としては祭祀は行っていない。
村井 (ムラガー) ❽ (消滅)
国道329号線の渡口交差点から宜野湾に伸びる県道81号宜野湾北中城線沿いにも、かつては村井 (ムラガー) が存在していたが、道路整備で消滅している。
子供慰霊の拝所
渡口交差点近く集落の入り口、前川 (メーガーラ) 沿いで小さな祠を見つけた。消滅した井戸の拝所なのかと思っていたが、集落住民の方に確認すると、昔、この辺りで火事があり子供が焼け死んでしまった。その子供を哀れみ、鎮魂のためにこの祠が置かれたと説明してくれた。村では拝んではおらず、個人で拝んでいるそうだ。
村井 (ムラガー) ❷ (消滅)
村井から国道329号線の信号を渡り、小字の渡口原 (トグチバル) に入る。この信号機のある国道にはかつての村井 (ムラガー) があったそうだ。国道整備で消滅したのだろう。
村井 (ムラガー) ❼ (消滅)
現在の国道329号線の泡瀬交差点付近にも村井 (ムラガー) が造られていたのだが、国道整備により消滅している。
御願小 (ウガヮングヮー)
村井 (ムラガー) ❷ から信号機で国道を渡たり渡口集落に入った所に、拝所が置かれている。御願小 (ウガヮングヮ) という拝所になる。ウガングヮーは、昔はガジマルの生い茂る中にクルトゥ石で囲まれた祠があったという。かつての郡道拡張により現在地に移設され、かつての面影はない。御願小は渡口集落の主要な拝所の一つで、旧暦1月2日のハチウビー (初拝み)、2月15日・5月15日・6月15日・6月25日の各ウマチー、10月2日のシマクサラシー、12月24日のフトウチウグワン (解き御願) で拝まれている。
ハマガー ❸
御願小 (ウガヮングヮ) のすぐ南、国道沿いには村井 (ムラガー) のハマガーがあると民俗地図に記載されていたが見つからず。(写真上) 集落住民の方に確認すると、御願小 (ウガヮングヮ) の前にコの字型に囲まれた物がハマガーを移設し形式保存しているという。御願小と同じく郡道にあったものだそうだ。
欹髻 (カタカシラ) 始末跡
御願小 (ウガヮングヮ) の北の道路沿いにコンクリート製の祠がある。欹髻 (カタカシラ) 始末跡だそうだ。カタカシラは、琉球の成人男性の髪型のことで、長く伸ば した髪を卵形に結って頭頂部にのせ、簪を差して固定していた。この簪の材質は身分によって黄金、銀、真鍮と定めら、職業や身分などの象徴だった。(写真右下)
日本では1871年 (明治4年) に断髪令が出されたが、沖縄では、1879年 (明治12年) の琉球処分以降も琉球の古い制度や慣習を引き継ぐ政策が取られ、琉球王国廃止後もしばらくの間、断髪は行われていなかった。1887年 (明治20年) 頃に、師範学校の生徒が断髪したのを契機に小学校の教員や児童の間でも行われるようになったが、殆どが強制的に行われたという。当時は、まだ琉球王国の復活を望む者もいて、断髪は一般ではなかなか受け入れられなかった。琉球王国復活の支援を要請していた清国が1894年 (明治27年) に日清戦争で日本に敗れ、復興の望みが絶たれたことで、カタカシラを切る者が次第に多くなっていった。明治30年頃には間切や村を挙げて断髪を推進する運動が起きている。渡口でも断髪が行われ、この場所でカタカシラを断髪して、その髪を集めて焼いたといわれている。
村井 (ムラガー) ❹
カタカシラ始末跡の祠から小径を入ると渡口集落の共同井戸の村井 (ムラガー) にたどり着く。飲料水として利用され、戦前は元日の早朝に、ここで若水 (ワカミジ) を汲み、各家庭で火ヌ神 (ヒヌカン) や仏壇に供え、新年の家運隆昌と家族の健康を祈願していた。
渡口カジマヤー
村井 (ムラガー) のすぐ北の四辻は渡口カジマヤーと呼ばれている場所になる。カジマヤーと言えば、沖縄では97歳を祝う日として誰でも知っているのだが、ここの様な十字路や三叉路もカジマヤーと呼ばれていた。カジマヤーは風車を指す沖縄の方言で、十字路がアダン葉で作った風車の形をしていることから名付けられたとも言われる。この解釈は比較的最近のことで、昔、行っていた模擬葬式の儀式から来ているという説がもある。死装束を着て、集落の七つのカジマヤー(四辻)を回ったという。ここにようにカジマヤーの名が付けられ残っている辻は、昔は交通の要所だったケースが多い。戦前はこのカジマヤーが二本の主要道路の分岐点だった。一つはの県道普天間線がこの渡口カジマヤーから西門原、上内尾原及び中原を通過し、仲順、喜舎場を経て普天間へと通じ、もう一本の県道与那原線は、ここから 部落内を通り、和仁屋、熱田を経て与那原へ通じていた。
旧渡口橋、後川 (クシガーラ)
渡口カジマヤーから北に少し進むと後川 (クシガーラ) にぶち当たり、橋が架かっている。旧渡口橋で新しい渡口橋は少し下流に架けられている。この後川 (クシガーラ) 下流は沖縄市与儀との境界線になっている。
シマクサラシー拝所 (火ヌ神)
後川 (クシガーラ) に沿って道が西に伸びている。道を進むと、道路傍に拝所がある。この場所はシマクサラシーの儀式が行われていた場所だ。シマクサラシーは沖縄全土で旧暦2月に行われていた悪疫払いの儀礼で、村に悪霊が入って来ない様に、家や村の四隅に牛や豚などの動物の骨や肉を吊るしたり、動物の生き血を枝に付けて悪霊退散を祈願していた。ここは渡口集落の北の端になる。シマクサラシーの場所に火ヌ神を祀った拝所が置かれているのは初めて見る。
村井 (ムラガー、産井 ンブガー) ❺
シマクサラシー拝所の向い、後川 (クシガーラ) の辺りに村井 (ムラガー) が残っている。産井 (ンブガー) とも呼ばれている井戸で、比較的広い洗い場がある。飲料水として以外にも洗濯や農作物を洗う為に利用されていた。井戸の脇には泰山石敢當が置かれている。石敢當は通常道の突き当たりに置かれるので、井戸脇にあるのは不自然な感じがする。どこかから移設してきたのか、昔と道が変わってしまって、石敢当だけが取り残されたのか?井戸の反対側の角には変わった形の石が置かれている。霊石なのだろうか?
井戸を見学していると、男性から声をかけられた。渡口に住んでいる北中城村の議員をされている方で、村をまわっている途中だった。北中城村について色々な課題など含めて半時間程話をした。渡口出身なので、特に東部地区 (和仁屋、熱田、渡口) の課題を色々と話してくれた。非常に問題意識を持った方で、その思いには暑いものがあった。今後の活躍を期待する。後で、北中城村のマスタープランに目を通し、彼の葛藤がよくわかった。この訪問記の前半にそのマスタープランを載せている。
産井 (ンブガー) ❻
道に戻り西に進むと、八つの村井の一つの産井 (ンブガー) がある。子供が産まれた際には、この井戸から産水 (ウブミジ) を汲んでいた。また、赤ちゃんの額に水をつける水撫で(ミジナデ) の儀式にも利用されていた。
渡口公民館 (倶楽部、村屋)
渡口集落がある渡口原 (トグチバル) の中心地には公民館が建てられている。戦前には大正の後期にこの場所に建てられ、倶楽部と呼ばれていた。それまではスーチチ (総聞 = 財産管理人、会計) の家が、その役目を果たしていた。スーチチには大きな家を有する者が一か年交替でなり、集会場所を提供したり、部落共用の道具を保管したりしていた。
宮城門中 (ナーグスク) の神屋
公民館の道を挟んだ所は空き地になっている。この場所は越来按司の子孫にあたる宮城門中の屋敷跡になる。元々は字渡口の北部の前田原の宮城御願付近に居を構えていた宮城村の根屋にあたる。言い伝えでは昔、阿麻和利の支配下だった越来グスクの越来按司が1458年に鬼大城賢雄 (オニウフグスクケンユウ) に責められ、落城、北中城村渡口の丘陵へと逃れてきて、集落を造ったと言う。
1670年に宮城集落は当時戸口村と称していたこの地に移住してきた。そのときに、 戸口村と宮城村が併合され、渡口村に改称されたという。以後部落は、大屋門中と 宮城門中で構成され、大屋門中はシリンダカリ、宮城門中はメンダカリと組分けされた。屋敷跡には神屋が建てられている。神屋には祭壇に向かって左端に火ヌ神、右端に観音、中央右手に神棚の香炉が祀られ、中央左手に宮城門中の祖先を祀る香炉と位牌が並べ置かれている。琉球国由来記には安谷屋ノロが祭祀を司っていた宮城上門根所が拝所として記されているが、これが現在での何れの拝所に相当するのかは見当たらなかった。根所戸あるので、ここにある神屋の事かも知れないが、安谷屋ノロが祭祀を行っていたとあるので、宮城之嶽の場所にはある火ヌ神の事かも知れない。この神屋は渡口集落の主要な拝所の一つで、旧暦1月2日のハチウビー (初拝み)、2月15日・5月15日・6月15日・6月25日の各ウマチー、10月2日のシマクサラシー、12月24日のフトゥチウグヮン (解き御願) で拝まれている。この中で、ウマチーやフトゥチウガンでは最初に大屋 (ウフヤ) の神屋を拝み、最後にこの宮城の神屋を拝むというように、祭祀の主要な位置を占めている。また、6月25日の綱引きではメンダカリの雄綱はこの宮城の神屋で豊年祈願をしてから、綱引きが始まる。
渡口の梵字の碑 (アビラウンケン)
公民館と宮城の神屋の間の道を北西に進むと突き当たりはニービ (砂岩) の丘陵となっている。上に伸びる階段の下に梵字碑が置かれている。今まで見た梵字碑の中では大きな物で、高さ104cm、幅55cm、厚さ13cmもある。表面には古代インドの梵語 (サンスクリット) の文字でアビラウンケンと刻まれている。案内板によるとアビラウンケンは胎蔵界大日如来の真言で、宇宙生成要素の地、水、火、風、空を表し、梵字五文字で一切の万象を網羅すると言われている。胎蔵界は胎児が母の胎内にいるように、真理が内在している事を示している。大日如来の真言という事から、那覇の護国寺と関係の深い日秀上人が建立したものという説もある。この梵字碑が発見された経緯は、この上に拝所があり、付近の家々で火事や精薄児が続出し、それをユタに占ったところ、拝所の下に地位の高い人骨があるので、それを掘って祀るようにお告げがあった。掘ると洞窟があり、人骨や石器と共にこの梵字碑が出てきたと言う。その後、1982年 (昭和57年) に現在地に移設されている。
渡口洞窟遺跡
梵字碑のすぐ右側の崖に洞穴がある。弥生〜平安時代 (1700年年前) からグスク時代初期 (約900年前) の渡口洞窟遺跡になる。ここが先程、見学した梵字の碑 (アビラウンケン) が掘り出された所になる。この洞窟の前庭やそこに面する道路から石器類の斧や包丁、海産貝や土器が採取されている。内部には年代不明の厨子甕がありそこに人骨が収められているそうだ。現在では渡口の拝所となっている。
和仁屋大城 (ウフグスク) 門中の拝所
梵字の碑 (アビラウンケン) の前の道を西に進んだ所には和仁屋大城門中の屋敷があった場所になり、その一画に門中の拝所がある。倒木で少し荒れてしまっている。敷地内には祠が置かれ、その隣には墓があった。
渡口ヌ殿 (トグチヌトゥン)
梵字碑の横の殿毛 (トゥンモー) への階段を登ると頂上は広場になっていた。広場には石の祠が置かれている。梵字の碑 (アビラウンケン) で触れた拝所で渡口ヌ殿 (トグチヌトゥン) と呼ばれている。祠の内部には3つの霊石とウコール(香炉) が置かれている。このすぐ北側の渡口集落の根所の大屋 (ウフヤ) が中心となり、旧暦1月2日のハチウビー (初拝み)、2月15日・5月15日・6月15日・6月25日の各ウマチー、10月2日のシマクサラシー、12月24日のフトゥチウグヮン (解き御願) で拝んでいる。また、ここからは北の丘陵地にある宮城御嶽もお通し (ウトゥーシ) がされている。
渡口の印部土手石 (シルビドテイシ)
渡口の殿のすぐ上には砂岩の印部土手石が立っている。シルビグァーや原石 (ハルイシ) ともいわれ、琉球王府が元文検地 (1737~1750年) を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点だった。印部土手石は、塚のように盛り上げられた土手の上に設置され、土手の破損は土地の混乱を招くため、その保護には特に気を配り、地方役人は2月と8月の年に二度、その点検が義務づけられたという。高さ39cm、幅25cm、厚さ3.5cm の石には片仮名の 「ニ」、その右側に 「とくち原」 と刻まれている。沖縄では各地に約7000基ほど設置されていたが、明治30年半ばの土地整理や、その後の開発や戦災等で多くは失われ、現在では約150基が確認されている。
大屋門中 (ウフヤ) の神屋
殿毛 (トゥンモー) の下、産井 (ウブガー) との間に渡口集落の創始者と伝わる根所 (ニードゥクル) の大屋 (ウフヤ) 門中の祖先が居住して屋敷がある。渡口集落が始まった頃は戸口村と称していた。北の前田原にあった宮城村 (ナーグスク) が1670年に渡口村に移住し、戸口村に併合され、渡口村に改称されたという。それ以降、集落は大屋門中と宮城門中で構成され、大屋門中はシリンダカリ、宮城門中はメンダカリと組分けされていた。屋敷内には神屋が置かれ、祭壇の右端に火の神、左端にクディの祀る香炉2つ、中央左にムラの祀る香炉3つ、中央右には大屋の祖先を祀る香炉が 3つ置かれているそうだ。旧暦1月2日のハチウビー (初拝み)、2月15日・5月15日・6月15日・6月25日の各ウマチー、10月2日のシマクサラシー、12月24日のフトゥチウグヮン (解き御願) に拝まれている。渡口集落の祭祀行事では、この大屋の神屋が真っ先に拝まれている様に重要な拝所となっている。6月25日の綱引きでは、シリンダカリの雌綱は、この 大屋の神屋で豊年の祈願をしてから、綱引き を始めていた。
みどり公園
慰霊之塔
緑公園の入り口を入った所には鳥居が置かれ、その先に慰霊之塔が置かれている。1959年 (昭和34年) に創建され、現在のものは1992年 (平成4年) に改修された慰霊碑になる。塔の両脇には渡口集落住民の107柱が合祀されている。集落では毎年、6月23日に慰霊祭を催している。
渡口の戦没者数は慰霊之塔建立後に新たに判明し続けており、現在では148人が犠牲になったとなっている。その場合は住民の36%にあたり、北中城村では大城集落に次いで二番目に戦没者率の高い地域だった。
上ヌ御嶽 (イーヌウタキ)
みどり公園内は和仁屋発祥の地とされる嶽山森 (タチザンムイ、タッチジャン) だった。
この地で和仁屋集落がいつ頃始まったのかは不明。上ヌ御嶽は和仁屋集落の御嶽で、和仁屋御願 (ワナウガン)、和仁屋御嶽 (ワナウタキ) とも呼ばれている。(熱田のカンザキも和仁屋御願、和仁屋御嶽と呼ばれている)
この上ヌ御嶽は屋根、壁ともにそれぞれ一枚のサンゴ石灰岩でできた東向きの高さ80cm、幅107cm、奥行き61cm の石造建造物で、祠内には三つの神体の天の神、地の神、火の神が祀られている。和仁屋では旧1月3日のハチウビーと旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日のウマチーにここを拝んでいる。
アシビナー (遊び庭)
みどり公園の西側に渡口交差点に向かう階段がある。階段の西側は戦前にはアシビナー (遊び庭) としては活用されていた。緩やかな斜面で、ここには階段式の見物席が設けられ、村遊びなどが観覧できるようになっていた。
チンマーサー (一里塚里程標)
渡口集落からアシビナーへの入り口の三叉路には一里塚の里程標が残っている。チンマーサー形式で一里塚になっており、ガジュマルの木が植っていたそうだ。残念ながらガジュマルは枯れてしまった。 この一里塚は美里村字大里の御願小 (ウガングヮ) から一里の道のりだった。一里塚は草で覆われて良く形が分からない。インターネットで綺麗に草が刈られた写真 (下) があったので、それもあわせて掲載しておく。
古井戸
アシビナーを下った所に井戸跡が整備されている。特に名前が付けられてはいないが、古井戸と呼ばれている。この井戸はこの辺りに古島があった熱田集落、みどり公園内にあった和仁屋発祥の地の集落、渡口集落の住民が利用していた。現在でもこの後に訪れる米須嶽 (クミシダキ) とともに各ウマチーで拝まれている。
米須嶽 (クミシダキ)
古井戸から公園内を渡口交差点に向かう途中、前川 (メーガーラ) に架かっていたメンター橋跡の近くの小山の麓に米須嶽 (クミシダキ) がある。
米須嶽 (クミシダキ) はクバジ嶽とも呼ばれ、高さ145cm、横118cm、奥行き94cm の瓦葺の祠が建てられている。1988年 (昭和63年) に渡口みどり公園の整備が行われたとき、瓦屋根は改修されている。天井と左右の壁はそれぞれ一枚の粟石で造られ、後方の壁は二枚積み上げられ、祠の中には霊石が5つ安置されている。米須嶽は熱田集落の主要な拝所だった。熱田集落の先祖は宮城御嶽付近に住んでおり、その後、この場所に降りてきて集落を形成した。これが熱田集落の発祥とされ、その後に現在地に移っている。米須嶽は、その時代の集落の信仰の中心だった。
前川 (メーガーラ)、メンター橋
米須嶽 (クミシダキ) を抜けると県道81号宜野湾北中城線に出る。ここに小さな橋がかかっている。県道81号宜野湾北中城線に沿って、みどり公園の西側といりを前川 (メーガーラ) が流れている。戦前の渡口集落はこの前川 (メーガーラ) と後川 (クシガーラ) の間にあった。戦前までは、この付近にはメンターの屋取集落があり6世帯が住んでいた。
ここまでは9月15日に和仁屋集落の後に散策した渡口のスポットで、時間と体力の関係で渡口集落内のみとなった。(一部9月22日に再訪問したスポットも含めている)
ここからは9月22日に字渡口の残りのスポットを巡った訪問記になる。予定は再チャレンジの上ヌ御嶽 (上に記載)、渡口集落から北西の外れの宮城御嶽、東に飛地の様になっている奥武を予定していたが、奥武は時間切れで訪問できず、後日訪問となった。
後川 (クシガーラ)
宮城御嶽へは先日訪れた産井があった後川 (クシガーラ) 沿の道を進む。後川橋は下流から上流へは渡口橋 (上記 15日訪問)、ソージ橋 (写真上)、シレール橋 (中)、メーダ橋 (下) が架かり、渡口内原の山岳地帯から流れている。
スーカラガー(マカーガー) (未訪問)
メーダ橋のすぐ北にスーカラガーがあると資料にはあった。昔の宮城村にあった五つの村井 (ムラガー) のひとつで宮城門中が管理しているそうだ。その場所を探すが見つからず。写真の後川の少し先の様だが、これ以上進めなかった。スーカラーガーの名は、村人が漁をしての帰りに、網を洗ったりゆすいだりしたことからつけられたという。また、井戸の上部の割れ目が 女性の性器に似ており、変わった神秘的な井戸ともいわれている。
種取毛 (タントゥイモー)
メーダ橋の西側は種取毛 (タントゥイモー) だった。前田原の麓にあり、そこにはタントゥイの時に籾を蒔く苗代田で、10月のタントゥイの日に村人が集まり、角力勝負を行ったという。当日は付近で材料を集めてテービー (松明) を作り、各々稲の種子を蒔いた苗代の周囲を松明を燃やしてネズミの駆除にあたった。夜はタントゥイウイミ (種取折目) と称してご馳走がふるまわれたとある。
宮城ヌ嶽 (ナーグスクヌタキ)、宮城ヌ殿 (ナーグスクヌトゥン) (未訪問)
上の写真の種取毛 (タントゥイモー) 向こうこ見えるのが宮城ヌ嶽 (ナーグスクヌタキ) がある丘陵地になる。宮城ヌ嶽へは2ルートある。ここから丘陵に登って行くのが近いルート、もう一つは集落に戻り、渡口交差点から県道81号線を通り、北中城村中央公園を通る迂闊ルート。みどり公園でゲートボールをしていたおじい達に相談した。意見が別れている。近道の方は道が残っているか不安という。確実なルートはかなり長い迂闊ルートだという。どうも、最近は訪れの御願はしていない様だ。一人は先日訪れた滝口の殿がある殿毛からお通し (ウトゥーシ) をしていると言っていた。宮城ヌ嶽は宮城門中の拝所だから、公民館前の宮城門中の神屋からのお通し (ウトゥーシ) では無いのかと聞くと、出来るだけ拝所に近い場所でお通しをするのだと答えてくれた。
と言うことで、種取毛 (タントゥイモー) を見学した際に、近道の上り口があればと探すも無いので、迂回ルートで宮城ヌ嶽に行く事にした。ここからは約3kmの距離でその半分は上りだ。時間はあるので、ゆっくりと無理をしない程度で、進むが、今日は真夏に戻った気候となり、結構ハードな道のりだった。途中、字仲順にある北中城村中央公民館で自販機で清涼飲料水を買って休憩をとる。前庭には定番のシーサー、サーターグルマ、そして平和モニュメントの 「緑の風」 像がある。像の下には戦争への平和のメッセージが刻まれていた。
ここは高台で渡口集落、中城湾、更に勝連半島まで綺麗に見渡す事ができる。
休憩を終えて、丘陵の先端部にある宮城ヌ嶽を電力送電ケーブルの鉄塔に沿って目指す。道が獣道に変わる。御嶽と殿は次の鉄塔の間にあるはずななのだが、拝所への道は見当たらない。雑木林の中に入り鎌で木々を払い探すが見当たらない。雨が降り出し、体力も随分と消耗してしまったのでギブアップ。ここまで来て断念は残念だが仕方がない。
この宮城ヌ嶽を5年前に訪問した記事がインタネットに一つだけあった。当時とは状況が変化しているのだろう。高齢化もあり、拝所与やそこへの道のメンテナンスは益々難しくなって来ている。前述の様にお通しで済ませるケースが増えている。お年寄りがここに参拝に来るのは大変だ。写真がそのインタネットから借用した。
宮城之殿付近には、昔は、この辺りに宮城集落があったという。その宮城集落の聖域の腰当て(クサティ) が宮城ヌ嶽と宮城ヌ殿だった。琉球国由来記には「宮城ノ嶽 渡口村 神名 アフヤネノコバヅカサノ御イベ」島袋巫の崇所とある。渡口集落では、ウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日)とカシチー (旧6月25日)、フトチヌウガン (御解御願 旧12月24日) に渡口の殿からお通し (ウトーシ 遥拝) で拝している。宮城門中は、旧6月25日にここで拝んでいるそうだ。宮城ヌ嶽 (写真上) の下には宮城ヌ殿 (写真下)、近くにはカラウカーなど5つの井戸、宮城門中の祖先の墓があるそうだ。
今日は宮城ヌ嶽への移動などで時間がかかり、予定していた奥武へは3km程あるので行けなかった。帰りのバスを待っていると、ゲートボール場で話をしたおじい二人とばったりあい、宮城ヌ嶽が見つかったと聞かれ、説明すると場所は間違っていないが、御嶽までだと案内人がいるかもと、気の毒そうに言っていた。渡口に関しての質問や過去に訪問した集落の事などを話すと、一度家にかえり、北中城村発行の史跡案内書と冷たく冷えたお茶のペットボトルを持っきて頂いた。気付かいに感謝だ。集落訪問では、事前の下調べは入念にしている。そうすると疑問点がいくつも出てくる。それを集落訪問時に出来るだけおじいを見つけ声をかけて話始める。このことで集落巡りは一層楽しいものになる。集落巡りを再開してから、各集落で人と知り合う機会があった。
今日は花を観察する余裕があった。左の三枚の写真はコスタス・スピラリスという花で面白い形をしている。初めて見る。赤い花と思っていたら別の場所では、そこから白い花が咲いていた。右上はリュウキュウボタンヅル(琉球牡丹蔓)で白い花が咲くのだが、これは花が咲き終わった実がなっているもの。その下はパッションフルーツで沖縄では庭先でも育つ様だ。最後は、お気に入りの緑色の小さなカタツムリ。アオミオカタニシという種類で沖縄方言ではオールチンナンという。
ここからは9月29日に訪問した奥武原のスポット
沖縄県立総合運動公園 (9月29日 訪問)
9月29日に沖縄市比屋根集落を巡った後に、奥武地域に足を伸ばした。ここには先日訪れなかった字渡口の小字奥武原で奥武小屋取 (オオグヮヤードゥイ) 集落があった所になる。戦後は米軍泡瀬通信施設に接収されていた。返還後、沖縄県立総合運動公園となっている。公園は総合運動公園線の自動車道路で北側が沖縄市字比屋根、南側が北中城村字渡口にまたがっている。このレポートには字渡口にある公園の様子を追記した。
井戸跡 (消滅) (9月29日 訪問)
この後に、旧美里村比屋根集落奥武小屋取の拝所である奥武小ビジュルを訪れた際に、ここの消滅した二つの井戸が戦後土地が返還された際に合祀していた。(写真左下)
公園内を南に進むと池がある。
奥武小タバサ (9月29日 訪問)
池の西側には奥武小屋取集落の拝所の奥武小タバサがあるそうだが、資料には写真はなく、拝所らしきもの探すが、丘 (ウフムイ 大森) の斜面に幾つもの古墓があった。拝所は結局見つから無かったがこの辺りの筈。この拝所は旧暦6月25日には、渡口集落、旧奥武小屋取集落住民が拝んでいるそうだ。渡口集落は津堅島から渡ってくるへじを追い払う祈願、奥武小屋取集落は渡口にある井戸への恩恵の感謝祈願をしていたという。
ここから海岸に向かうにはウフムイ (大森) の丘を越える必要がある。丘の上には展望台が置かれていた。
展望台に登ると、うるま市の勝連半島が臨めた。沖縄市中心地も見渡せる。大きな市がわかる。今まで訪れた集落も見渡せる。
豆腐島 (イルカ島) (9月29日 訪問)
展望台から海岸に降りた所に海の中に大岩ががある。豆腐島 (イルカ島) と呼ばれ、干潮時には陸続きになり、歩いていくことの出来る。この名の由来が気になったのだが、分からなかった。
美崎海岸 (9月29日 訪問)
豆腐島から公園を抜け、海岸沿いの防波堤を渡口に向かい進む。美崎海岸でその干潟を利用して渡口の名産のアーサ (あおさ、ヒトエグサ) の養殖が行われている。潮に沈んでいる時間と干上がった時間の配分が、光合成をする適している地形になっているそうだ。海にはアーサの種付けをする網を張る竿が無数に設置されている。
ナミゲーシ (波返し) (9月29日 訪問)
美崎海岸を抜けると、渡口川の河口に出る。現在の北中城高校東部の海岸べり一帯には、農民が田畑を守るために、ナミゲーシ (波返し) が作られていた。ナミゲーシは消滅してしまったが、現在のテトラポットや防波堤の役割で消波を考えて、石を三列に沖にいくにつれて高く積み上げ、波の被害を少なくしていたという。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村都市計画マスタープラン (2019)